日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「御国への旅人として」
創世記 23章1~6節
ペトロの手紙一 2章11~17節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 ペトロの手紙一から御言葉を受けています。前回は、私共はイエス様によって救われて「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」とされた、それは私共を救ってくださった方の御業を広く伝えるためなのだ、と教えられました。今朝与えられております御言葉からは、そのように神様のものとなった民、神の民はどのようにこの地上を歩んで行くのか、その歩み方について述べていきます。とても具体的です。18節以下には奴隷としてのあり方、3章には妻としてのあり方、また夫としてのあり方が記されています。このように書かれている背景には当時の社会状況がありますので、文字通りには私共に適用することが出来ない所もあるでしょうが、神様に救われた者として歩むべき道筋は変わりません。キリスト者として、私共はどのような歩みをしていけば良いのか。共に御言葉に聞いていきたいと思います。その大前提となっていることは、私共はイエス様の十字架・復活によって救われた者であるということです。このことを抜きに、キリスト者としての歩みを考えることは出来ません。

2.神様に愛されている者
そのことは11節の冒頭で「愛する人たち」と語り始めていることにも示されています。この「愛する人たち」というのは、この手紙の最初の所を見ますと、この手紙は使徒ペトロから「ポントス・ガラテヤ・カパドキア・アジア・ビティニアの各地(これは現在のトルコに当たる地方です)に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」宛てたものであることが記されていますので、この「愛する人たち」というのは、文字通りにはこの手紙を受け取った現在のトルコの各地に点在していたキリスト者たちということになります。しかし、私共はこの手紙を聖書として読んでいるわけです。神様からの語りかけを聞き取るための書として読んでいる。とするならば、この「愛する人たち」というのは、この手紙を神の言葉として読む私共に向かっても語られていると受け取って良い。ペトロが愛した者たちとは、神様に愛された者たちでした。私共も神様に愛されている者です。そのような私共は、どのように生きるのか。それがここで聖書が語ろうとしていることです。私共は神様に愛されている者なのですから。

3.旅人
最初に告げられていることは、私共はキリスト者は「旅人であり、仮住まいの身だ」ということです。神の民はアブラハム以来、この地上にあっては旅人であり、仮住まいの身、つまり寄留者なのです。アブラハム・イサク・ヤコブといった信仰の父祖たちは遊牧民でした。ですから、文字通り、旅が人生そのものだった人たちです。羊たちに与える草を求めて旅を続けた人たちです。モーセによって率いられたイスラエルは約束の地、カナンに定住することになりました。けれど、父祖たちが旅を続けたこと、そして何らよりもエジプトからの出エジプトの旅、そこで与えられた神様との契約を忘れることはありませんでした。私共日本人は農耕民族ですので、この「旅が人生である」という感覚は持ちにくいかもしれませんけれど、文学の世界では人生を旅にたとえることは為されていました。有名なところでは、松尾芭蕉の「奥の細道」の始まりは、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。」という文章で始まっています。しかし、この旅の受け止め方は、どちらかというと「憧れ」に近いようなものと言えます。西行法師なども旅をしながら沢山の歌を詠みました。しかし普通の人々の生活においては、旅はそう出来るものではありません。憧れでした。どうして憧れるのか。知らない所を見てみたい、行ってみたい。旅は毎日違う景色や人と出会える。私共も旅といえば、観光旅行といった物見遊山の旅を思い浮かべるでしょう。
 しかし、聖書がここで私共は「旅人」なのだと言う場合、それは物見遊山の旅人ということではありません。私共が旅人だというのは、この地上での生活に最終目的地は無いということです。フィリピの信徒への手紙で、パウロは「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピの信徒への手紙3章20節)と告げています。つまり、私共が旅人であるということは、天の御国を本国とする者が、本国に帰る途中でここに立ち寄っているのだということです。天の御国という目的地がはっきりとある旅人です。ここで「仮住まいの身」と訳されている言葉は「寄留者」という意味の言葉です。先ほど創世記23章をお読みしました。アブラハムは遊牧民でしたので土地を持っていませんでした。妻のサラが亡くなっても葬る場所がなかったわけです。それで、妻サラを葬る土地を購入したということが記されておりました。そこでアブラハムは自分のことを「寄留者」と言っています。アブラハムは神様から「わたしが示す地に行きなさい。」と告げられて、故郷を出発したのが75歳の時でした。その時以来、彼の人生は旅そのものでした。このアブラハムの歩みに、その後のすべての神の民のありようが示されています。勿論、文字通り旅をし続けるということではありません。そうではなくて、やがて自分たちが迎えられる天の御国、約束の地を目指して歩む者だということです。

4.肉の欲を避ける
 この「旅人」「寄留者」であることをよく弁えるのは、「魂に戦いを挑む肉の欲」と言われている「この世の誘惑」を避け、これに飲み込まれないようにするためです。ここで「肉の欲」とありますのは、性欲・食欲といった肉体の欲だけを指しているわけではありません。ガラテヤの信徒への手紙5章16節以下に具体的にこれを挙げているところがありますので見てみましょう。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。… 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と記されています。今、一つ一つを見る時間はありません。ただ、ここに挙げられているのは様々な欲、食欲・性欲・出世欲・独占欲・自己顕示欲等々、みんな私共が持っているものです。しかし、それに引きずられて行ってしまった場合、私共は神様から離れてしまう。それが問題なのです。欲も神様が与えてくださったものですから、欲そのものが悪いわけではありません。もし欲というものを完全に否定したら、人間は生きていけません。一番分かりやすいのは、食欲が全くなくなったら大変です。私共は生きられないでしょう。食べることは絶対に必要だからです。お金だって必要です。しかし、それが人生の目的、生きる目的のようになってしまっては道を間違える。御国への道を踏み外してしまうことになるということです。正しい欲というものだってあります。「聖なる欲」とでも言うべきものです。もっと神様を知りたい。聖書を知りたい。もっと神様の御心に従って生きたい。もっと伝道したい。これらは良いものです。欲がすべて悪いわけではありません。でも、肉の欲に引きずられしまっては、御国への道を踏み外してしまうということです。

5.異教徒に囲まれて
 この手紙を受け取った人たちは、現代の日本に生きるキリスト者ととても良く似ていた所があります。それは、キリスト者が周りにはほとんどいないという状況です。そういう状況の中で、この手紙を受け取った人たちはキリスト者として生きていました。そういう中で、キリスト者たちを「悪人呼ばわり」する人さえいました。この「悪人呼ばわり」されることの代表的なことを三つあげます。一つは、キリスト者は不信心な者、不信仰な者だという批判です。ギリシャ・ローマの社会は自然宗教の多神教です。その神様の祭りが町を挙げて行われるわけです。けれども、キリスト者は偶像礼拝をしません。それで、地域の和を乱す者だ、不信心な者たちだと非難されました。また、キリスト教会は聖餐を重んじておりました。当時は聖餐をする時にはキリスト者以外は出ていってもらうことになっていました。そこで、扉を閉めた中で何がされているのか。キリストの血を飲み、キリストの体を食べるという儀式をしているらしい。人の血を飲み、肉を食べるとは何と恐ろしい者たちだ、という非難です。そしてまた、礼拝の中で「平和の挨拶」というものがあります。ローマ・カトリック教会では今でもあります。これは日本では会釈をしたり握手をするくらいのものですが、ヨーロッパではハグをします。そこで、キリスト者は隣の者とキスをするそうだ。何とふしだらな者たちか。そのような誤解に基づく非難が、この手紙が書かれた時代にもありましたし、それから数百年経っても為されておりました。知らないということは、このような悪口を言われるものなのですね。今の日本でもそれほど違わないかもしれません。これはかなり地域差があります。キリスト教の学校があるかないかで、その差は大きいでしょう。特に、統一教会のニュースが連日テレビから流れますと、「キリスト教は危ない。」そんな風評が立って、キリスト者が家族や親戚から「大丈夫か。危ないからやめろ。」と忠告されるようなことさえ起きているようです。困ったものです。

6.神の僕として
 ではそういう環境の中で、キリスト者はどのように生きれば良いのか。聖書が告げることはとても単純です。「立派に生活しなさい」ということです。日々の生活の中で、周りの人から後ろ指を指されるようなことはしない。キリスト教を知らない人から見ても「立派なもんだ」と言われるような生活をしなさいということです。理由ははっきりしています。「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」この「訪れの日」というのは、神様が訪れる日ということです。神様が訪れて、その人に信仰を与え、神様をあがめるようになる。だから、今、自分を悪人呼ばわりする人がいても、腐らず、投げやりにならず、立派な行いをし続けなさい、と告げます。これは11節の最初に「あなたがたに勧めます」と言われているように、このようにしなさいと勧めているわけですけれど、この「勧める」という言葉は「慰める」とも訳せる言葉です。つまり、ペトロは「立派な行い」をしなさいと勧めるのですが、その立派な行いを見て、「異教徒」たちもやがて「神様をあがめるようになる」という、慰めと一つになっているわけです。
 私共は、家族や友人がイエス様を信じて、救いに与ったら良いなと思い、願い、祈っています。だったら、立派な行いをその人の前でし続けたら良いのです。  しかしそうは言っても、親しい仲だからこそ、ついつい甘えも出ますし、そうそう立派なことをやっていられない。そう思われるでしょう。ここで大切なことは、「立派なことを言いなさい」と勧められているのではなくて、「立派な行いをするように」と勧められていることです。私共は、立派なことを言えるのです。しかし、立派なことは中々行えない。どうしてでしょうか。それは「立派なことを言う」のと「立派な行いをする」のでは、その姿勢が全く違うからです。「立派なことを言う」のは、上から物を言うといいますか、相手より自分を上にしてしまうようなことになりがちです。まして、未信者の身内に信仰の話をする時など、往々にしてそうなりがちです。「私は知っている。あなたは知らない。だからダメなんだ。」といった感じです。しかし「立派な行い」というのは、その正反対のことです。「立派な行い」とは、相手に仕えることだからです。仕えるというのは、自分が低くなることです。ここに主イエス・キリストに倣うキリスト者の姿があります。立派なことを言っても福音は伝わりません。しかし、仕えるという愛の業によって、キリストの福音は説得力を持ち、伝わっていくということです。それが16節の最後にあります「神の僕として行動しなさい。」ということです。私共は自由です。しかし、その自由を「悪事を覆い隠す手だて」としてはいけません。「自由なんだから、何もしても良いではないか。」というようなあり方で自由を用いるのではなくて、その自由を「神の僕として行動」するため、相手に仕えるために用いなさいということです。

7.皇帝を敬い、制度に従う
 キリストに倣って、仕える者として歩む。神の僕として行動する。私共はこの世においては旅人であり、寄留者ですけれど、それはこの社会に対して無責任な者として生きるということを意味しません。「旅の恥はかき捨て」というあり方は、御国を目指す旅人しての私共には全く当てはまりません。私共はこの社会の一員として、責任を果たしていく。そうでなければ、この世界に対して、神様の愛を証ししていくことは出来ないからです。悪口を言われている中で、社会の一員としての責任さえ果たすことがなかったならば、どうして私共の語ることに耳を傾けてくれるでしょうか。
 昨日、一昨日と、北陸学院大学のバイブル・セミナーに行ってきました。人数は多くはありませんでしたけれど、とてもよく話を聞いてくれました。北陸学院は1885年メアリー・ヘッセルというアメリカ長老教会の教育宣教師によって始められました。137年前のことです。金沢教会を建てたトマス・ウィン宣教師の要請によって、教育宣教師が派遣されて始まりました。アメリカの長老教会はキリスト教の伝道と共に、教育をもってその地の人々に仕える事によって福音を証しするという意図を持って、教育宣教師を送りました。そして、北陸学院は神様の愛と恵みと真実を教育という場において、証しし続けてきました。この137年の間に、学校を取り巻く環境は、様々な時代の波によって相当な変化を強いられました。そして、今は少子化の波の中で、大変ご苦労をされていると聞いています。しかし、その働きはとても大きなものがあります。教会と同じように、北陸学院も時代の波に翻弄されることはありました。その時代の波の一つは、何度も政府が変わり、法律が変わったということです。変わっていく制度の中で、北陸学院も変わらなければならないことも多くありました。しかし、主を証しするために、変わっていく制度に対応して変わり続けました。こんな制度ではやっていられないと短気を起こすことはありませんでした。そう言いたい時は何度もあったでしょう。しかし、すべては「主のため」でした。
 13節に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」とあります。ここで見落としてはならないのは「主のために」という言葉です。13~14節は、現代では評判が良くない所です。「すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」何か、体制主義、保守主義を勧めているように聞こえるでしょう。ここでの統治者や皇帝というのは、キリスト教を擁護してくれるような統治者や皇帝という意味ではありません。たとえ、そうではない統治者や皇帝であってもです。同じことがローマの信徒への手紙13章1節にも記されています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」という御言葉です。この御言葉も現代では評判が良くありません。「だからどんな政府であっても支持しなければならない」というように受け取るからでしょう。しかし、そのようにこの御言葉を受け止めるのは間違いです。少なくとも、現代の日本は民主主義国家ですから、言論の自由もあり、政府を批判することは何の問題もありません。ただ、ここで心に留めたいことは、統治者を悪者にすることによって、みんなあいつが悪い、あいつが無能だからダメなんだと言って溜飲を下げる。まるで、自分が偉い者であるかのように、自分には責任がないかのように、思い違いをしないということです。

8.すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ
ここで聖書は、ただ皇帝や総督、統治者に対してだけ従えと言っているのではなくて、17節「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」と告げています。皇帝だけを敬って従えと言っているのではありません。敬うのはすべての人をです。自分より社会的な地位が低い人、貧しい人、弱い人、国籍や人種が違う人、どんな人をも敬いなさいと言うのです。当然、そこにはキリスト教の信仰をまだ持っていない人も含まれます。これが「立派な行い」に結びつきます。弱い人、小さい人、ハンデがある人、そのような人を同じように敬う。「敬う」というと、何か重い感じがするかもしれません。最近はリスペクトという言葉を若い人たちはよく使いますが、これが「敬う」です。相手を敬う、尊重する、リスペクトするということがなければ、その人との間に愛の交わりを形作ることは出来ません。相手をリスペクトしなければ、その人の話は聞かないし、その人がどう考えているかなんて興味も湧きません。そこに愛は生まれないでしょう。敬われるべきは、皇帝だけではありません。皇帝は敬われるべき多くの人の中の一人に過ぎないということです。どうして、すべての人が敬われなければならないのでしょうか。理由ははっきりしています。それは、人は皆、神様に造られ、神様に愛されている一人ひとりだからです。そして、人は愛の交わりを形作るものとして神様に造られたからです。
 そして、兄弟(=キリスト者、教会員)を愛する。そして、教会というキリストの体、キリストの愛が満ちた交わりを形作っていく。
 そして、神様を畏れる。畏れるのは神様だけです。皇帝を恐れることはありません。ここにキリスト者の自由があります。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 あなた様は今朝、私共に御言葉を与えてくださり、御国への旅人として、私共がどのように歩んで行けば良いのかを教えてくださいました。ありがとうございます。肉の欲に支配されることなく、あなた様を畏れ敬い、健やかに良き業に励む者であらしめてください。私共をあなた様の救いの恵みの証人として立たせ、遣わし、用いてください。キリストに倣って、私共が出会う一人ひとりを重んじ、それに仕え、愛の交わりを形作っていくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2023年11月12日]