日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「沈黙から賛美へ」
創世記 21章1~8節
ルカによる福音書 1章57~66節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
アドベント第2の主の日を迎えています。クリスマス・カードが届き始めました。昨日は4年ぶりに刑務所のクリスマスを行いました。コロナ禍のため、3年続けて刑務所のクリスマスは中止となっていました。少しづつ、コロナ前の状態に戻りつつあります。来週の主の日の午後には「子どものクリスマス会」が行われます。

2.洗礼者ヨハネが身ごもられた経緯
 今朝与えられた御言葉には、洗礼者ヨハネの誕生の記事が記されています。これはイエス様がお生まれになる半年前に起きた出来事です。洗礼者ヨハネが生まれ、それから半年後にイエス様がお生まれになりました。それは、イザヤ書40章3節或いはマラキ書3章1節で預言されているように、救い主・メシアであるイエス様に先立って、道を整える者が来ることになっていました。それが洗礼者ヨハネでした。
 エリサベトが洗礼者ヨハネを身ごもった経緯(いきさつ)は1章5~25節に記されています。そこを少し振り返っておきましょう。
 洗礼者ヨハネの父の名はザカリア。彼は祭司でした。そして、洗礼者ヨハネを身ごもったザカリアの妻であるエリサベトも祭司の家系の者でした。二人は6節で「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」と記されています。最高の賛辞です。ザカリアは祭司でしたし、妻のエリサベトも祭司の家の出身であり、二人とも幼い頃から神様を畏れ敬い、律法を守り、神様の御心に従って歩むことを当然のこととして育ってきたのでしょう。ところが、二人には子どもがありませんでした。しかも、既に二人とも年をとっていました。具体的に何歳であったとは記されておりませんので、はっきりしたことは分かりませんけれど、もう子どもが産めない年齢になっていたということですから、エリサベトは50歳代ではなかったかと思われます。そうすると、ザカリアは60歳代だったと推察出来ます。
 ザカリアが聖所に入って香を焚くという役割が当たったときのことでした。これは祭司であるザカリアにとって一生に一度有るか無いかの、大変重要な役割でした。高齢になり、祭司としてベテランの域に達していたザカリアでしたけれど、さすがに緊張したでしょう。そして、聖所で香を焚いていると、主の天使が現れたのです。ザカリアは「不安になり、恐怖の念に襲われ」ました。神様が御臨在される聖所、その中に入るというのは、役目に当たらなければ祭司でも入れません。その聖なる場所でザカリアは天使に出会ったのです。ザカリアは驚きましたし、恐ろしかったでしょう。そしてその時、天使はザカリアにこう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」それに対してザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えました。ザカリアはこの時、天使が告げる言葉の意味をきちんと考え、思い巡らし、受け止めることもなく、単純に「年を取った自分たち夫婦に、子どもが与えられるはずがない。」そう答えてしまったのです。彼は祭司でした。誰よりも神様の御業を信頼し、聖書に基づく神様の御心に対しても良く知っているはずの者でした。しかし、彼は天使の言葉を受け入れることが出来ませんでした。それに対して天使はこう告げました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」こうして、ザカリアは口が利けなくなってしまったのです。一方、エリサベトはこの後身ごもります。それが洗礼者ヨハネでした。

3.ザカリアの不信仰
 なぜ、「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と言われていたザカリアは、天使の告げることを感謝と喜びをもって受け取ることが出来なかったのでしょうか。そのことについて、御一緒に思い巡らしてみましょう。
 第一に、ザカリアは天使に出会うという想定外の状況の中で、気が動転して、恐ろしくて、天使が告げる言葉をちゃんと聞かなかった、聞けなかった、ということがあるのではないか思います。天使はまず、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と告げました。「恐れるな」と言われても、ザカリアは恐ろしかったでしょう。でも天使は、「あなたの願いは聞き入れられた」と告げたのです。この言葉を聞き逃してはなりません。妻エリサベトが子を産むのは、ザカリアたちが祈った祈りに神様が応えられたからだと言うのです。ですから、これはありがたいことで「感謝」しかなかったはずです。エリサベトもザカリアも、きっと結婚して5年、10年と「子が与えられるように」と祈ったことでしょう。しかし、子は与えられませんでした。そして、いつの間にか、この祈りを捧げることもなくなり、やがてこの祈りをしたことさえも忘れてしまっていたのではないでしょうか。しかし、神様は忘れてはいなかった。このことをザカリアは、きちんと聞けなかったということです。
 第二に、神様の御力よりも、自分の常識の方を優先してしまったということです。年をとった自分たちに子が与えられるはずがない。そう単純に思ってしまった。彼は祭司ですから、アブラハムとサラにイサクが与えられた話はよくよく知っていました。その時、アブラハムは100歳、サラは90歳でした。ザカリアは、アブラハムとサラに起きたイサクの誕生という出来事は知っていました。しかし、それが自分の人生に起きることだとは考えていなかった。アブラハムとサラの出来事は、遠い昔の話、聖書の中の話で、私の人生とは関係ない。そう考えていたのでしょう。もっとも、アブラハムとサラも「来年の今ごろには子が生まれている」と御使いに告げられたとき、とても信じられずに「そんなバカなことが起きるはずがない」と思って笑ってしまいました。その時天使によって告げられた言葉が、「主に不可能なことがあろうか。」でした。神様は私共の常識を越えて、事を起こされるお方です。
 第三に、ザカリアは神様が何をされようとしているのか、その御計画、その御心が何であるのか、それを本当に知ろうとしなかったということです。自分の妻エリサベトが男の子を産む。それは、一体どのような神様の御心の中での出来事なのか、天使はここでちゃんと告げているのです。ですから、それを聞かなければなりませんでした。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」と天使は告げました。これは神様の永遠の救いの御計画が今、発動される。遂に救い主が来られる。その備えをする者として子が与えられる、ということでした。祭司なら、この天使の言葉をちゃんと聞けば、分かったはずです。しかし、ザカリアは分かりませんでした。知ろうとしなかったからです。知ろうとしなければ分かるはずもありません。
 ザカリアは「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」と言われていましたけれど、決して完全な信仰者ではありませんでしたし、その信仰は、福音に出会って悔い改め、新しくされなければならないものだったということです。

4.ザカリアの沈黙①:神様の赦しの中で
 ザカリアは、このような経緯(いきさつ)で口が利けなくなりました。10ヶ月の間、口が利けなくなった。10ヶ月というのは短い時間ではありません。天使は「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げたわけですから、ザカリアが口を利けなくなったのは、ザカリアが天使の言葉を信じなかったから、神様の御業を受け入れなかったからです。しかし、これは単純に神様がザカリアに罰を与えたということではありません。そうではなくて、神様はザカリアに時間を与えました。天使が告げたことをしっかり聞き取り、思い巡らし、きちんと受け止め、神様がこれから何を為そうとしておられるのか、その神様の御心を受け入れ、その御心に従う者として歩んで行くための時間です。人は変えられていくのには時間が必要です。心の底から悔い改め、本当にそうだと納得し、御心に従って行く者に変えられていく。そのためには時間が必要です。人によってその時間の長さは違うでしょうが、私共がそれまで持っていた常識や、生き方、考え方が変えられていくのには、時間がかかるものだからです。
 この時、神様はザカリアの口を利けなくしました。それはどうしてでしょう。多分、それはザカリアが「聞く」ということに集中できるようにするためだったのではないでしょうか。確かに、口が利けなくなるということは、とても不便なことだったでしょう。最初は、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかと思ったかもしれません。しかし、その不便さを超えて、ザカリアにどうしても必要なこと、つまり神様の言葉を聞き、思いを巡らし、その御心に従って行こうとする変化、つまりまことの悔い改めがザカリアの中で起きなければなりませんでした。口を利く、話すという行為は、能動的なものです。自分が主体となります。しかし、この時ザカリアに必要だったこと、神様がザカリアに求めたこと、それは「聞くこと」でした。「聞く」という行為は、受け身の行為です。話し続けていたら、私共は聞くことは出来ません。天使に語りかけられたとき、ザカリアは天使の言葉をきちんと聞くことが出来ませんでした。また、その言葉について思い巡らすことも出来ませんでした。そして、すぐに「どうしてそんなことがあろうか」と結論を出しました。この御言葉に対しての姿勢こそが、問題でした。神様がここでザカリアに求めたのは、徹底的に聞くことでした。そのために、神様はザカリアの口を利けないようにされました。それは、ちゃんと聞くことが出来るようにと手助けをされたということです。神様はこのようにして、彼を悔い改めへと導かれました。口を利けなくするという、一見神様の裁きのように見える出来事の中に、ザカリアを赦し、愛し、訓練し、導き、なおも御自身の御業のために用いようとされる神様の御心が現れています。神様の御心は単純ではありません。裁きの中に赦しがあり、愛がある。神様の愛は、私共にとって都合の良いこととは限りません。私共にとって、どうしてこんな目に遭うのかというような出来事の中にも、神様の愛と恵みと真実はあります。そこに目が開かれていかなければなりません。

  5.ザカリアの沈黙②:御心を悟るために
ザカリアにとって、この口が利けなかった10ヶ月間ほど、神様の御業を自分の体で受け止め、神様が生きて働いていることを知らされ、そして、天使ガブリエルが告げた言葉を繰り返し繰り返し思い巡らしたときはなかったでしょう。ザカリアは祭司でしたから、旧約の御言葉を知っていたはずです。その自分の持てる知識を総動員して、神様の御心がどこにあるのか、神様は何をされようとしているのか、自分の生まれてくる息子には一体どんな役割が与えられているのか。そのことを、何度も何度も思い巡らし、そして、遂に確信と言っても良いところにたどり着きました。それが、あふれる賛美の言葉としてザカリアの口から出て来ました。68節以下にありますザカリアの賛歌がそれです。この歌については、今は触れません。来週、そこから御言葉を受けます。
 この10ヶ月間の沈黙、それは神様に強いられた黙想の時と言っても良いでしょう。ザカリアは10ヶ月間、ひたすら聞き続けました。思いを巡らし続けました。ザカリアがそこではっきり知らされたことは、天使が告げた言葉が意味していることでした。それは、遂に神様の救いの御業が発動される。救い主・メシア、キリストが来られる。私の子は、そのお方のために準備する、備えをする者として、この世に生まれ出てくる。そのことをザカリアは確信するに至りました。そして、同時に自分に与えられた責任、この子を神様に捧げられた者として育んでいくという決断と覚悟も与えられました。
 私共は御言葉と相対するときに、あまりに急ぎすぎているのかもしれません。すぐにはよく分からない御言葉にも出会ったとき、私共はどうしているでしょうか。調べるのも良いでしょう。でも、その時分からないのなら、分からないままにしておいても良いのです。分かる時が来ますから、その時まで取って置いたら良いのです。神様の御心についても同じです。どうして、こんなことになってしまったのか、御心がよく分からないときがあります。そのような時の方が多いでしょう。そのような時、結論を急がない。自分が納得出来るような理屈を付けて無理に納得しない。きっと神様はこのようにされようとして、私にこんな試練を与えられたんだ。だから、きっとこうなる。このようなストーリーを勝手に作るのはやめた方が良いです。きっとこうなる、なんて分かりません。そうならなかったら、またまた「神様の御心はどこにあるのか」と悩み始めます。分からないことは分からないのですから、そのまま受け入れるしかありません。神様が意図されていたことが、ずっと後になってから分かることだって少なくありません。急がないこと。そして、自分の考えや感覚や時間の長さに神様を押し込めないことです。神様は自由なのですから。

6.この子の名はヨハネ
ザカリアがこの神様の御心を受け入れ、我が子のこれからの歩みについて父親として責任を負っていくという覚悟、それが現れたのがこの赤ちゃんが生まれて8日目に名前を付ける時でした。イスラエルの男の子は産まれると8日目に割礼を受け、名前を付けられることになっていました(創世記17章12節)。そして、このようなときには親戚の叔父さんたちも集まってきていて、一族の長老のような人が出て来て息子の名前を決める。この時、人々はこの子の名を「ザカリア」と付けようとしました。その時、エリサベトが待ったをかけます。60節「ところが、母は、『いいえ、名はヨハネとしなければなりません』と言った。」エリサベトは毅然として告げました。彼女の声は凜とした響きをもっていたことでしょう。この子は神様の御業によって生まれてきた子です。天使は「その子をヨハネと名付けなさい。」と告げました。ですから、ヨハネ以外の名前を付けることは出来ません。もし別の名前を付けたのならば、「この子は神様の御業によって与えられた子ではない」ということを表明することになってしまいます。神様の御心を受け入れないということを意味するからです。アブラハムとサラは、息子をイサクと名付けました。神様にそう名付けるように命じられたからです。マリアとヨセフは息子をイエスと名付けました。天使によってそう名付けるように命じられていたからです。イサクもイエス様も洗礼者ヨハネも、神様の不思議な御業によって与えられた子だったからです。
 当時、母親には自分の子に名前を付ける権利はほとんど認められておりませんでしたので、エリサベトの言葉に親戚の人たちは驚いただろうと思います。そして、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない。」と言って、ヨハネと名付けることに反対します。ここには「女は黙っていろ。お前の出る幕ではない。」といったニュアンスがありました。そして、父であるザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねます。すると、ザカリアは字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書きました。ザカリアが本当に悔い改めて、神様の御心を受け入れ、神様の御計画に従ってこの子を育てていく、その決意と覚悟がこの時はっきり表されました。神様もそのことを認めます。そして、ザカリアの舌はほどけ、口が開きます。するとザカリアは、たちまち神様を賛美し始めたのです。

7.賛美があふれた
 10ヶ月の沈黙後、ザカリアの口からあふれ出た言葉は、神様への賛美でした。何と美しいことでしょう。私共は「主を賛美するために創造され」(詩編102編19節)ました。ザカリアは、本来の自分を取り戻したのです。神様が創造してくださったその目的に合致した者へと変えられました。私共は神様を賛美する時、最も深いところで神様の御心に適った者となります。それは、神の国が完成されたときの私共の姿の先取りでもあります。
 私共の口は、しばしば愚痴や不平や不満の言葉であふれてしまいます。そのような時、私共は黙ることが必要なのでしょう。10ヶ月間も黙っているわけにはいかないでしょうけれど、とりあえず黙る。そして、聞く。聖書に聞く。御言葉に聞く。そして、思いを巡らす。
 それは、神様との交わりにおいて必要なだけではなくて、愛する者との交わりにおいても必要なことです。私共は相手が何を思っているのか、伝えようとしているのか、そのことをよくよく聞く前に、自分の思いを相手にぶつけしまうことの何と多いことか。アドベントの日々を歩む中で、私共は黙ること、聞くこと、思い巡らすことの大切さを改めて心に刻みたいと思います。そして、イエス様が私のために来てくださった出来事を、その恵みを、しっかり受けとめたいと思うのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
あなた様は今朝、私共があなた様の御言葉をきちんと聞くようにと促してくださいました。ありがとうございます。忙しい日々の生活の中で、御言葉にしっかり聞くことをおろそかにしていたことを知らされ、悔いるものです。どうか、私共の霊の耳を開いてくださり、あなた様の御声を聞き取ることが出来るように導いてださい。そして、あなた様の御心に喜んで従って行くことが出来る者にしていってください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2023年12月10日]