日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神の恵みの管理者として」
民数記 18章8~10節
ペトロの手紙一 4章7~11節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
共々にペトロの手紙一を読み進み、御言葉を受けています。前回は、「人間の欲望にではなく神の御心に従って」生きるようにとの勧めをいただきました。イエス様の救いに与った者は、救われる前とは違った歩みへと導かれていきます。変えられていきます。その変化は、神様の御心に従うという方向性を持っています。自分の欲を満たすことよりも大切なことがあることを知ったからです。自分の命は神様から与えられたことを知り、その神様には目的があることを知らされたからです。その目的とは、私共が神様との親しい交わりに生きる者とされるということです。その御心に適った者としての典型的な姿は、神様に向かって「父よ」と呼んで祈るところに現れています。そしてまた、神様を賛美するところに現れています。この主の日の礼拝において、私共は神様の御心を聖書の言葉によって知らされ、私共は神様に祈り、神様を賛美します。その意味では、この礼拝においてこそ、私共のあるべき姿が現れていると言っても良いでしょう。一週間に一度のこの主の日の礼拝は、時間で考えれば一週間の内の1%程度のものです。しかし、この1%が他の99%の私共の時間、私共が過ごす日常の生活の方向性を決めます。この主の日の礼拝から押し出され、この主の日の礼拝へと帰ってくる。そのような生活サイクルの中で、私共の歩みは明確に「御国に向かっての歩み」へと整えられていきます。この主の日の礼拝は、確かにその一回一回が大切なのですけれど、同時に主の日の礼拝によって私共の人生の時間にリズムが与えられ、生活サイクルが形作られていく。このこともとても大切な意味を持っています。それはこのようなイメージで語ることが出来るでしょう。毎週の主の日の礼拝が一つの真珠であり、私共の人生はそれを数珠つなぎにした、長い真珠のネックレスのようになる。

2.終わりの時
 今、私は「御国に向かっての歩み」と申しました。私共の人生は、ただボーッと生きていても一年は一年として過ぎていきます。しかし、私共の人生は、ただ過去へ過ぎ去っていくだけのものではありません。私共は、確実に御国に向かって進んでいっている時を歩んでいます。行き先が分からなければ、時間はただ過ぎていくだけのものかもしれません。しかし、行き先を知らされている者にとって、時間はそこに向かって確実に近づいていることを示すものでもありましょう。
 私は「御国に向かって」「御国」という言葉を使いますけれど、これはキリスト教においては色々な言葉で言い表されます。終わりの時とも言いますし、終末と言うこともあります。また、救いの完成の時とも言いますし、復活の時とも言います。万物が新たにされる時、新しい天と新しい地が現れる時とも言います。そしてまた、イエス様が再び来られる時、再臨の時とも言われます。今朝与えられている御言葉の冒頭においては、「万物の終わり」の時という言い方がされています。「万物の終わり」の時という言葉は、この言葉だけを聞きますと、すべてが終わってしまう、すべてが滅んでしまう、といった恐ろしい時というイメージを持つかもしれません。しかし、今申しましたように、この「万物の終わり」の時というのは、ただすべての物が滅び、終わってしまうのではなくて、神様の救いが完成する、復活の命を与えられる、新しい天と地が始まる、完全に神様の御心が行われる世界が始まる、御国が完成する。そういう時でもあるわけです。恐ろしいだけではありませんし、喜びの時、歓喜の時でもあるわけです。滅びと救いは、神様の裁きの表と裏です。滅びはありますが、それからの救いもあります。「裁き」とはそういうものです。誰も滅びることがないのであれば、裁きとは言いません。裁きは確実にあります。しかし、イエス様はそこから私共を救う道を開いてくださいました。そして、救われた者は神の子とされて、救いの完成、イエス様に似た者にされるという、とてつもない恵みに与ることになります。

  3.万物の終わりを知っている
私共はその日が来ることを知っています。それが何時なのかは父なる神様だけが知っておられることです。私共はその時が何時なのかは知りません。しかし、その時が来ることを知っている。だから、知っている者として相応しく地上の歩みを為していきなさいと、聖書は勧めているわけです。
 この「知っている」ということですが、「ただ知識として知っている」ということと、「本当に知っている」「自分の人生を根本から変えるようなあり方で知っている」ということとは、同じ「知っている」と言っても随分違うのではないかと思います。例えば、子どもは大切だ、命は尊い、ということは誰もが知っています。しかし、我が子が与えられますと、その大切な子を、尊い命を何としても守らなければならないと思います。そして、そのことに自分の時間とエネルギーを注いでいきます。
 この「万物の終わり」の日についても同じです。キリスト者は、みんなこのことを知っています。しかし、だからみんなが「この日」を心に刻んで生きているかといえば、そうとも言えません。そんな先のことではなくて、目の前の毎日のことに忙しくてそれどころではない。そう思っている人もいるかもしれません。或いは、二千年しても来ていないのだから、自分が生きている間は来ないだろう、と思っている人もいるでしょう。そのような人にとって、「終わりの時はいずれ来るだろうけれど…。」といったものでしかなくなります。それでは、自分の生き方を決定づける知識にはなりません。
 しかし、聖書はここで「万物の終わりが迫っています。」と告げています。「遠い将来そうなるでしょう」ということではなくて、「その時は迫っています。すぐそこです。もう来ています。」と告げています。確かに、その日がいつ来るのかは父なる神様だけが御存知のことで、私共には知りようがありません。しかし、遠い将来に来るということではなくて、もうそこに来ている、そのことを知っている者として「今という時を生きなさい」と聖書は告げています。それは、その時がいつ来ても良いように、この世の物に心を奪われることなく、神様の御前に健やかに、きちんと生きなさい、ということです。
 主の日の度ごとにここに集って私共は礼拝を捧げています。その時、私共は神様の御前に立ちます。イエス様の憐れみ、イエス様の十字架の御業を信頼して、一切の罪を赦していただく者として立ちます。そして、その心をもってここからそれぞれの場所に遣わされて、次の主の日まで歩んで行きます。そのような歩みを為す私共は、イエス様が何時来られても良いように日々の歩みを整えつつ歩むということになるでしょう。ペトロは、そのことを私共に求め、勧めているのです。宗教改革者カルヴァンが大切にした言葉で言えば「コーラム・デオ」、つまり「神の御前で」です。終わりの時が来ることをはっきりと弁えている者は、神様の御前に生きる。そこに、私共の人生を貫く太い芯のようなものが出来てくるのでしょう。
 以下、神の御前に生きる私共は具体的にどのように歩んで行くのか、ということについて聖書は記しています。5つありますが、順に見ていきましょう。

4.身を慎んで
 第一に、「思慮深く、身を慎んで」ということです。これは、前回見た3節にあるような「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけ」ることから遠ざかることです。勿論これだけではありません。これは私共が良く馴染んでいる言葉で言えば、十戒に従って生きるということになりましょう。私共は喜んで神様が与えてくださった戒めに従います。嫌々ではありません。喜んでです。それは、十戒は神様が私共に与えてくださった、愛の言葉だからです。神様を愛し、また神様に愛されていることを知りませんと、十戒は自分を縛り付ける鬱陶しいものにしか聞こえないかもしれません。しかし、神様との間に愛の交わりを与えられた者には、十戒ははっきりと愛の言葉として聞こえます。十戒は、私のイメージを申し上げるならば、御国に向かう道に備えられたガードレールのようなものです。これがなければ、私共は何が罪であるかも分からずに、平気で罪を犯して、千尋の谷底に落ちてしまうでしょう。それは丁度、お母さんやお父さんが、「危ないからあの柵の向こうに行っちゃダメだよ。」と言うのに似ています。それでも、言いつけを守らずに柵の向こうに行ってしまうことがあるかもしれません。すると、危ない目に遭って、「やっぱり言いつけを守っておけば良かった。」と思うのでしょう。今、ガードレールの外は千尋の谷というイメージでお話ししましたけれど、千尋の谷なら分かりやすいのですけれど、実際に私共に見える風景としては、どこまでも続いている綺麗なお花畑ということもあるでしょう。それでついつい、ガードレールを越えて外に出てしまう。そして、一度越えてしまうと、どんどん道から離れていってしまい、戻る道が分からなくなってしまう。そのうちに、自分が御国に向かって歩んでいた旅人であることさえも忘れてしまう。そのお花畑は、自分の欲を満たす魅力に満ちた花で埋め尽くされている。富であったり、名声であったり、自尊心を満足させてくれたり、そんな花に囲まれている内に、人は霊的に眠りこけてしまう。自分が何者であるかを忘れてしまう。そのようなイメージでも良かろうと思います。気をつけなければなりません。
 ところで、終末がすぐに来るなら、日常の生活を真面目にやっても意味がないではないかと言う人がこの時代に現れました。しかし、健全なキリストの教会は、イエス様がすぐに来られるのだからこそ、いつ来られても良いように備えて、キリスト者として健やかに、しっかり歩もう。そう教えてきました。それは今も変わりません。

5.よく祈る
 第二に、「よく祈る」ことです。これは特に説明は要らないかもしれません。神様の御前にあることを覚えて歩む者は、祈ることなしに歩むことはありません。祈りは、私共と父なる神様・イエス様との具体的な交わりの時です。祈りの中で、私共は様々なお願いをします。その祈りは、自分自身や自分の家族や身のまわりの人のためだけではありません。教会のため、困窮している人のため、神様の御業のため、そして神様の正義が為されるようにと広がっていきます。これを「執り成しの祈り」といいます。この祈りはどこまでも広がっていき、キリがありません。それは、この執り成しの祈りは、私共に注がれるイエス様の愛によって生まれ、私共に与えられる祈りだからです。私共の内側から湧き上がってくるというよりも、聖霊なる神様によって与えられ、導かれていく祈りです。この祈りに終わりはありません。しかし、私共の持っている時間には限りがありますので、私共はすべてを「祈りきる」ことは出来ません。私共の祈りは、その意味ではいつもどこか途中で終えなければなりません。そして、私共の祈りは神様の愛と憐れみの御心を信頼して為されるものですから、すべての祈りは神様に委ねるというところへと私共を導きます。
 この「祈り」についてもう一つだけ申し上げますと、私共の祈りは「主の祈り」によって導かれ、主の祈りによって生み出され、主の祈りへと帰着していきます。私共は御国を知っています。そこから現実の世界を見ますと、御名があがめられていない現実があります。御心が為されていない現実があります。パンが与えられていない現実があります。赦し合うことの出来ない現実があります。だから、私共は祈らなければならないのです。御国においては為されることが、この地上では為されていないからです。

6.愛と持てなし
 第三に、「心を込めて愛し合う」ことです。これも説明を必要としないでしょう。神様は私共が互いに愛し合うことを求めておられる。このことは、明らかなことだからです。愛の交わりのただ中に、イエス様はおられます。
 第四に、「もてなし合う」ことです。これは、教会員がお互いにお茶に招いてもてなし合うということを言っているのではありません。当時は現代のようにホテルや旅館がどこにでもあるわけではありません。徒歩で為される旅の道中には、獣もいれば、追いはぎもいます。この時代の旅は、とても危険でした。そのような状況の中で、キリスト者たちは互いに旅人を招いて、もてなすことを大切な業として為してきました。知らない人を自分の家に泊めるのは心配だったでしょう。しかし、キリスト者たちは旅人に食料や水を与え、泊まる所も提供しました。それがここで言われている「もてなす」ということです。キリスト者たちはそのように伝道者たちを「もてなし」ました。ペトロもパウロもそのようにして伝道の旅を続けました。そして、聖書は普通の信徒たちに対してもそのように為すことを勧めているわけです。こうして、キリスト者たちは教会から教会へと目指していけば、安全に旅が出来るようになりました。これが後に、中世における巡礼の旅に繋がっていきます。

7.賜物の管理者
 第五に、神様が与えてくださった賜物を生かして仕え合うということです。10節に「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とあります。教会はキリスト者がそれぞれ、神様から与えられた賜物を捧げることによって成り立っています。この主の日の礼拝にしても、週報を作る人がいます。そこに記す献金を処理している人がいます。奏楽者がいます。司式者がいます。献金奉仕者がいて、説教者がいます。また、お掃除をする人がいます。この礼拝のために祈っている人がいます。ストーブを点ける人がいて、ストーブに灯油を入れる人がいます。それを買ってくる人がいます。目に見えない多くの奉仕者がいて、この主の日の礼拝が守られているわけです。礼拝に限りません。教会の営みはすべて、様々な奉仕者による賜物が組み合わされ、捧げられて、一つの業となっています。
 ここで大切なことは、自分に与えられている賜物、神様から授かっている賜物が何であるのかをちゃんと自覚するということです。それは「自分はこれが出来る」と、自分を誇ることではありません。すべては神様が授けてくださったものなのですから、神様を誇るのなら分かりますが、自分を誇るのはお門違いです。私共はただ神様が与えてくださった賜物の管理者として、神様の御心に適うようにその賜物を喜んで捧げるだけです。11節に「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」とありますように、それぞれが神様が与えてくださった賜物に応じて捧げる。そのように申しますと、「自分にはそんな賜物はありません。」と言う人が必ずいます。それは謙遜でしょうか。しかし、それが本当に謙遜なのか、単に怠惰なだけなのか、神様に捧げることが面倒なのか、自分のためだけに用いたいのか、それぞれが神様の御前できちんと吟味しなければなりません。そもそも、神様は他の人に誇れる賜物を私共にお与えになるのではなく、御自身の御業に用いるのに十分な賜物を与えられます。ですから、立派に出来なくも、人から大した者だと言われることがなくても、そんなことは実につまらないこと、どうでもよいことです。富も、知恵も、能力も、時間も、すべては神様が与えてくださったものです。それを自分のためだけに用いてはなりません。それでは、神様が与えてくださったどんな良い賜物であっても腐ってしまいます。
 それでもなお、「自分には捧げる賜物が何もない」と思われるなら、このことをしっかり心に刻んでおいてください。神様が喜ばれる第一の奉仕は、礼拝を捧げること。そして、次に喜ばれる奉仕は、祈ることであり、賛美することです。この賜物を神様から与えれていないキリスト者は一人もおりません。

  8.神の栄光のために
 私共がキリスト者として、神様の御心に従い、神様の御業に仕えるために賜物を捧げるのは、11節「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」とありますように、神様が栄光を受けるためです。栄光を受けるのは私ではありません。神様です。「ただ神にのみ栄光あれ」です。
 ここでペトロは、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」と語るやいなや、「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」と神様を賛美しました。私は、ここにペトロの肉声の響きがあると思っています。当時の手紙は口述筆記です。ペトロが語ったことを、書記が文字にします。ペトロはこの時、眼差しを天に向けました。イエス・キリストを通して栄光を受ける神様に眼差しを向けました。そうしたら、思わず「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」と賛美しないではいられなかった。神の御前に生きたペトロの心がここに現れています。神様から自分に与えられた賜物を捧げ、神様の栄光のために自分が用いられる。何という喜び、何と光栄なことか。ペトロはこの心をもって、地上の生涯をイエス様が再び来られる最後の日に向かって、一日一日歩んでいきました。それがキリスト者です。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉を通して、私共が最後の日を目指して、御国を目指して、神様の御前に歩んでいくことを勧めてくださいました。私共はこの世の様々な誘惑の中を歩んでいきますが、どうか私共の歩みが右にも左にもそれることなく、健やかなキリスト者として、真っ直ぐに御国への道を歩んでいくことが出来ますように。聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。私共の唇に、祈りと賛美をいつも備えてください。愛の業に励み、あなた様からいただいてる賜物を、あなた様に捧げつつ歩む者であらしめてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2024年2月11日]