富山鹿島町教会

礼拝説教

「召命」
イザヤ書 6章1〜8節
ルカによる福音書 5章1〜11節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共に与えられている御言葉は、シモン・ペトロが主イエスの弟子となった時の出来事を記しています。マタイによる福音書やマルコによる福音書では、主イエスが宣教を開始すると、いきなりシモン・ペトロを弟子としたことが記されておりますけれど、ルカによる福音書はそのような記し方はしておりません。シモン・ペトロはすでに、カファルナウムの会堂で主イエスの説教を聞いており、悪霊を追い出すのを見ております。そして又、自分の家でしゅうとめの熱がいやされるところ、大勢の病人達がいやされるのを見ております。そして、今日の場面です。
 主イエスがゲネサレト湖畔に立っていた時です。このゲネサレトの湖というのは、聖書の中でいくつもの呼び名を持っています。旧約では「キネレト湖」、マタイ・マルコ福音書では「ガリラヤ湖」、ヨハネでは「ティベリアス湖」と呼ばれています。主イエスが一人で居るのを見つけると、人々が集まってきて、主イエスの言葉を聞こうとしたのです。この時、主イエスはその日の漁を終えて帰ってきて網を洗っていたシモン・ペトロの舟に乗り、少し岸から離れるように頼み、そこから岸にいる人々に教えを語られたのです。ペトロは、その日の漁を終えたとはいえ、網を洗うという仕事をしていた訳です。突然の主イエスの申し出ですが、ペトロは断りませんでした。自分の姑を癒して頂いたという恩義も感じていたかもしれません。そもそも、安息日の午後に主イエスを自分の家に招く程ですから、ペトロも又主イエスの話を聞きたかったのに違いないと思うのです。そして、主イエスは小舟の上から岸にいる人々に話をされました。勿論、岸からあまり離れたら聞こえないわけで、岸から数メートルといったところだろうと思います。これは多分、大勢の人々に囲まれて話をするよりも、この方がずっと話しやすかったからだろうと思います。5人、10人と話すのならば、特に小舟に乗る必要はなかったと思いますけれど、50人、100人という人が自分を取り囲みますと、後ろの人には聞こえないということが起きるでしょう。それで、主イエスはペトロの舟に乗り、自分の話を聞きに来た人々全部に聞こえるように、お語りになったのでしょう。この時の話が、どのくらい続いたのかは判りません。しかし、その間中、ペトロは主イエスが話される同じ舟の上で、主イエスの言葉に耳を傾け、主イエスの語る姿を見ていたのです。
 ある説教者は、この時のペトロの位置はとても大切なことだったと言います。私もそう思います。説教は近くで聞く方が絶対に良いのです。どうも、どこの教会でも席は後ろの方から埋まっていくようですけれど、ぜひ、この教会は前から埋まっていく、そうなっていって欲しいと思います。多分、これは全ての説教者の思いではないかと思います。いつも後ろの方に座っている方は、ぜひ、一度、前に座って礼拝を守ってみて下さい。随分違った感じを受けるに違いないと思います。そうすると、この時のペトロの思いが少し分かるのではないかと思います。ペトロは、まさに間近に、それこそ唾が飛んでくるほどのところで主イエスを見、話を聞いたのです。主イエスの話が終わった時、ペトロは主イエスという方に対していよいよ深く信頼し、尊敬する思いに満たされていたのではないかと思うのです。

 説教が終わり、主イエスの口から出た言葉は、まったく意外なものでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われたのです。この時の時刻までは判りません。しかし、漁師であるペトロが漁を終えて帰ってきて、その後始末として網を洗っていた時から始まって、教えを語られるのが終わった時なのですから、もう日もだいぶ高くなっていたに違いないのです。もう昼近くになっていたかもしれません。こんなに日が高くなってから漁をするなどというのは、漁師のペトロの常識から言うと、まったく話にならない、馬鹿げたことだったのです。富山に来てからはまだ一度も行っていないのですが、私の趣味は舞鶴で覚えた釣りです。釣りたい魚にもよりますけれど、日が高くなってからはあまり釣れません。これは常識です。ですから、釣り人は、まだ夜が明けない内に家を出るのです。そして、東の空がほんのり白くなってくると同時に竿を出すのです。ところが、何故なのかは判りませんが、釣れない日は何をやっても釣れないのです。釣り人は、それを「今日は潮が悪い」などと言います。決して、自分の腕が悪いとは言いません。この日、ペトロは夜通し漁をしたのですが、何もとれなかった。ペトロはプロです。その私が夜通し漁をしたけれども、何もとれなかった。それなのに、こんなに日が高くなって漁をしても、魚がとれるはずがない。それがプロの漁師としてのペトロの思いでありました。それがペトロの言葉の中に表れています。5節「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」これは、主イエスの言葉に対してのプロの漁師としてのペトロの批判の意味が込められていると思います。「何を言っているのですか、私は夜を徹して漁をしたのにちっとも獲れなかった。こんな日は、何をやっても駄目なのです。しかも、もうこんなに日が高くなっています。無駄ですよ。」そんなニュアンスだと思います。ところが、この時ペトロは自分のプロとしての判断を横に置くのです。そして、主イエスが言われた通りに、ただ「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言って、網を降ろしたのです。結果は、網が破れそうになる程の大漁でした。ペトロは驚きました。驚いたというよりも、畏れたと言った方が良いでしょう。今まで何度か聞いた主イエスの説教、そして悪霊を追い出し、病人をいやされた主イエスのみ業、そして今、目の前に起きている船が沈みそうになる程のあり得ない大漁。ペトロの頭の中には、この方はただの人ではない。聖なる方。そんな思いがわき上がってきたに違いありません。そして、ペトロは、主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」そう言うのです。
 これは、ペトロの悔い改めの言葉です。ペトロは主イエスの言葉と業によって、主イエスが聖なる方であることを思い知ったのです。そしてその時、口に出たのがこの言葉でした。悔い改めとは、この聖なる方との出会いの中で起きるものなのであります。自分の心の中をのぞき込んで起きることではないのです。ペトロは主イエスの言葉と主イエスによる不思議な出来事によって、この聖なる方との出会いを与えられたのでした。これは、今も同じでしょう。私共は言葉だけでは、なかなか聖なる方との出会いという所にまで至りません。どこか頭で納得するという所を超えられない所があります。しかし、それが出来事となる時、告げられていた言葉の真実を思い知らされ、聖なる方の御前に引き出され、自らの罪を悔い改めるということが起きるのであります。それが、洗礼を受けるきっかけとなる人もいるでしょうし、洗礼を受けてからの信仰の歩みにおける大切な節目となることもあるでしょう。いずれにせよ、私共の神様は生きて働かれる全能の父なる神様なのでありますから、実際に私共の人生の中に出来事を起こすというあり方で、私共と出会っていかれるのであります。御言葉と出来事の結合であります。どちらか一方ではないのです。そこに生まれるのが「証し」というものなのであります。

 この時、ペトロは聖なる方の前に居る自分を見出しました。そして、自らの罪を示されます。この時、ペトロは何の自信も誇りもありません。「ああ、もうダメだ。」そんな思いでなかったかと思います。しかし、そのようなペトロに、主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」という、召命を与えたのです。この主イエスの召命によって、ペトロは全く新しい人生を歩む者となった。生まれ変わったのであります。ペトロはこの主イエスの言葉によって、主イエスの召命によって、全てを捨てて、主イエスに従う者となったのです。使徒ペトロの誕生の瞬間です。
 この様な記事を読むと、ペトロは全てを捨てたと言うが、自分は捨てられるだろうかと心配する人が居ます。時々、そんな質問を受けることがあります。私はそう言う方に「あなたは、全てを捨てるようにという召命を神さまから受けたのですか。」と逆に聞くのです。すると、「そんな召命は受けていない。」と応えられる。「だったらそんな心配する必要はないでしょう。」と私は答えるのです。全てを捨てて従うように召された者は、その時には何の不安もなく捨てるものですし、そのような召命を受けていない者は、全てを捨てることはないのです。召命というものは、皆一人一人違うのです。私共は自分に与えられた召命に忠実であればよいのです。ただ、こう言うことは出来るでしょう。主イエスに従うということは、何も捨てないということはあり得ないことです。神様の召命は人によって違うのですから、全てのキリスト者が皆、同じ様に捨てる訳ではありません。しかし、それぞれが、自分に与えられた召命に従って生きる時、何かを捨てるということは必ず起きるのです。私共は、毎週ここに集っているということは、この時間を神様にささげ、この時間に出来る何かを捨てているということでしょう。主イエスに従って何かを選び取るということは、それ以外の何かを捨てるということになるのであります。
 ペトロは主イエスに対して、「わたしから離れてください。」そう言いました。しかし、主イエスの答えは、「それでは、あなたから離れよう。もう二度と会うことはない。」というものではありませんでした。そうではなくて、「あなたは人間をとる漁師になる。」というものでした。これは、私はあなたから離れない。いつも共にいる。そして、あなたは私と共に、私の業に仕える者として生きるのだ。そう言われたということです。

 「召命」、これは召して命じると書く、キリスト教独特の言葉です。しかし、とても大切な言葉です。今日の所ではペトロが主イエスの弟子となる召命を受けました。しかし、聖書には、この様な召命の記事がたくさん記されています。先程お読みいたしました、イザヤ書6章も、預言者イザヤが預言者としての召命を受けた所です。今、全てを見ていく時間がありませんけれど、有名な所だけでも、アブラハムの召命、モーセの召命、ダビデの召命、サムエルの召命、イザヤの召命、エレミヤの召命、パウロの召命と、たくさん記されています。おおよそ、神様の御業に用いられる者は、全て神様の召命を受けて立てられるのであります。この召命というものは、神様によって与えられます。牧師とは皆、牧師としての召命を受けた者なのです。言葉と出来事をもって、神様に迫られ、これに逆らうことが出来なくて、全てを捨てて牧師の道へと歩み出した者です。これは、なかなか説明して判っていただくのが難しい。一人一人違いますが、皆、言葉と出来事をもって迫られるのです。私が会社を辞めて、神学校に入った時、ある信徒の方から、「会社で大変なことがあったの?」と聞かれて困ったことを覚えています。「いいえ、召命を受けたのです。」としか答えようがない。献身は転職ではないのです。もちろん、与えられた言葉と出来事がある訳ですから、それを話せば良いのですが、話し始めれば30分はかかってしまう。とても立ち話で話せることではありません。牧師は、皆、聖書に記されている召命の記事を他人事として読むことは出来ない。自分も又、これと同じことがあった。ここには、自分と同じ人が居る。そういう風にしか読めないのです。
 私が卒業した神学校では、教授たちから「荒野の神学校生活」と言われていました。それは楽しいことがちっとも無いという意味ではなく、毎日、自分の召命が試される、そういう場であるということでした。召命という言葉を一度も聞かずに一日を過ごすことはない。そういう日々です。入学式で語られるのも自分の召命に忠実に歩みなさいということですし、毎日のチャペルでの礼拝でもそうです。そして、今はもう退かれたある旧約の教授は、授業の度毎に、「神学校を辞めるのは、早い方が良いですよ。」と言うのです。「若いのだから、まだやり直せますから。」そう言うのです。もちろん、意地悪で言っているのではありません。召命を受けていない者が牧師になるということは、これ程神様をないがしろにすることはない。よく、自分の召命を吟味しなさいということだったのでしょう。 しかし、召命を吟味し、召命に忠実に生きる。それは、何も牧師だけのことではありません。全てのキリスト者は、召命を受けてキリスト者となったのです。主婦としての召命を受けている人がいる。技術者として召命を受けている人がいる。学校の教師として召命を受けている人がいる。皆、神様からの召命を受けて、それぞれの場に遣わされ、生かされているのです。教会の長老も執事も奏楽者もCSの教師も、皆、召命を受けて励んでいるのでしょう。教会というのは、その面で見れば、召命を受けた者の共同体ということも出来るだろうと思います。ここに、自発的に集まって形作られるボランティア団体とは違う所があります。自分達で集まってきたというよりも、神様によって召されて集められた者の群ということであります。そして、各々が自分に与えられた召命に忠実に生きるとき、生き生きと喜びをもって主に仕える群れとしての教会が建ち上がっていくのでありましょう。

 この大漁の記事は、ヨハネによる福音書の21章にも復活の主イエスと弟子達の出会いの場面として記されています。これについては、一回の出来事が、復活の主イエスの所と、召命の所とに記されていると考える人もいます。しかし、私はこのペトロ達の召命の場面での出来事が、復活の主イエスとの出会いの所で、再び繰り返されたのだと考えています。復活を信じられなかった弟子達が、再び漁師に戻って漁をする。しかし、夜通し漁をしたが何もとれなかった。そこに主イエスが姿を現し、網を打ちなさいと弟子達に命じる。弟子達が網を打つと、網を引き上げられない程の大漁だった。弟子達は網を引き上げながら、その網を上げる手応えの中で「ああ、これと同じことがあった。」そう、この最初の主イエスとの出会いの時を思い起こしたのではないかと思うのです。この主イエスに召された時の出来事というのは、そのように、弟子達にとって、生涯、忘れることの出来ない出来事であったのだと思うのです。私共も、そうでしょう。自分がキリスト者として生きるように主イエスに召し出された時のこと。それは、決して忘れることの出来ない、決定的な出来事なのです。どうか、その時のことを忘れることなく、生涯、自分に与えられた召命に忠実な者として、主の御前に歩んでいただきたい。そう願うのであります。

[2005年4月17日]

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