富山鹿島町教会

礼拝説教

「とりなす者として」
出エジプト記 32章30〜35節
ルカによる福音書 5章17〜26節

小堀 康彦牧師

 私共は毎週ここに集い、主の日の礼拝をささげております。その際に、私共が心してわきまえておかなければならないことがあります。それは、私共がささげておりますこの礼拝は、一体誰と共にささげているのかということであります。勿論、聖霊なる神さまと共にです。このことは何よりも大切なことですが、それだけではないのです。この礼拝はプライベートなものではありません。パブリックなものです。公の礼拝です。それは、この礼拝は私共が各自で密室においてささげる礼拝とは違うということなのです。私共は今、ここにいる大勢の者と一緒に、共に礼拝をささげているのです。一人ではない。しかし、それだけだろうか。私共のささげる礼拝は、もっと大きな広がりを持っているのです。私共が祈りの中でいつも触れているように、今朝、ここに集うことの出来ない人々、病のため、高齢のため、仕事のためここに集うことの出来ない人々を覚え、それらの人々と共に私共は礼拝をささげているのです。しかし、それだけではない。今日の主の日の朝、世界中で礼拝がささげられています。多分、何億人という人達が、今、共に礼拝をささげているのです。それらの人達と共に、私共は礼拝しているのです。それは、心に思い描いてみるだけでも、なかなか壮大な光景ではないかと思います。神さまの御前に何億もの人々が礼拝をささげていてるのです。しかし、それだけではない。すでに天の父なる神様の御許に召された、代々の聖徒達、天上の天使達も又、私共と共に礼拝をささげているのであります。しかし、更にそれだけではないのです。未だ主イエスを知らず、それ故に礼拝に集うこともない多くの人々共に、それらの人々に代わって、それらの人々の為に、私共は礼拝をささげている。このことを忘れてはならないと思うのです。私共の礼拝は、主イエスを信じる者たちだけのものではないのです。未だ主イエスを知らず、それ故に礼拝に集うこともない多くの人々の為に、それらの人々に代わって礼拝をささげている。それは、「執りなしとしての礼拝」と言っても良いでしょう。私共は主イエスを知らない人の為に、それらの人に代わって、それらの人の分も礼拝している。私共はこのことを忘れてしまうことがあります。しかし、このことを忘れてしまいますと、私共の礼拝は、教会という存在は、大変小さなものになってしまうのではないか。そう思うのです。私共はこの礼拝の壮大さ、キリストの体なる教会の偉大さを忘れないようにしなければならないと思うのです。そうしないと、いつも自分の教会の中のこと、コップの中のことにばかり目が向いてしまうということになるのではないかと思うのです。私共は、神様に造られた全ての民が本来なすべき礼拝を、全ての被造物に代わって、それらを代表してささげているのであります。

 さて、今日与えられている御言葉は、主イエスが中風の人をいやしたという出来事が記されております。中風を患っている人が床に乗せられて、主イエスがおられる家まで運ばれて来ました。ところが、主イエスの教えを聞く為に、又、主イエスのいやしを求める為に集まって来ている大勢の人々の為に、中風の人を主イエスの前にまで運ぶことが出来ません。そこで、この人達のとった行動は、実に驚くべきものでした。ここで、「彼らのとった行動はどんなものだったのでしょうか。」とクイズにして出したい様なものです。何と彼らは屋根の上にのぼり、瓦をはがして、その人を主イエスの前につり降ろすという行動に出たのです。非常識と言えばそうかもしれません。しかし、この発想の自由さには実に目をみはるものがあります。私共ならどうでしょうか。せっかくここまで運んで来たのに、主イエスのもとまでは、とても行けそうもない。そこであきらめてしまうのではないでしょうか。或いは、人が居なくなるまで外で末という選択をするかもしれません。しかし、この時彼らはあきらめなかった。そして、屋根の上からつり降ろすということを思いついたのです。思いつくだけなら私共にもあるかもしれません。しかし、彼らはそれを実行したのです。床ごと運んで来たのですから、四人くらいの人だったと思いますけれど、床に載せたままの中風の人を屋根の上に上げるだけでも大変でしょう。更に中風の人が落ちない様に屋根からつり降ろす。実際にどのようにしたのかは判りませんけれど、これもなかなかのことだったと思います。気持ちを合わせて、細心の注意をはらって行いました。傾いたら中風の人は落ちてしまうのですから大変です。どうして、この人達はここまでしたのでしょうか。それは、何としてもこの中風の人に元気になってもらいたい。そう思ったからでしょう。この人達が、中風の人とどういう関係であったのかは判りません。家族であったのか、友人であったのか。いずれにしても、何としても、この中風の人に元気になってもらいたいという思いで一杯だったことは確かです。そして、何としても主イエスに会わせたい。主イエスに合わせさえすれば、主イエスならきっと癒して下さるに違いない。そんな主イエスに賭ける思いがあったのでしょう。瓦ははがされる。屋根の上から人がつり降ろされる。その場は、とても静寂とは言えない、騒然とした雰囲気になったことでしょう。しかし、この時主イエスは、この人たちを何と非常識なことをしているのかとお叱りになったのではないのです。20節を見ましょう。「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」とあります。ここで第一に注目しなければならないのが、「イエスはその人たちの信仰を見て」と記されていることです。主イエスが人をいやされる時は、たいてい「その人の信仰を見て」なのです。ところが、ここでは「その人たちの信仰を見て」です。「その人たち」とは、言うまでもなく、ここで中風の人を床ごと屋根からつり降ろしている人達のことでしょう。そして宣言されました。「人よ、」これは中風の人です。「あなたの罪は赦された。」ここで、この中風の人は何もしていないのです。主イエスのもとに来たのも、この中風の人が言い出したことなのか、それともこの床ごと屋根からつり降ろした人達なのか判りません。本人が何としても主イエスによって癒されたいと願ったのか、それともこの人を連れてきた人たちが何とかこの中風の人に元気になってもらいたいと思って連れて来たのか判りません。いずれにせよ、主イエスは、ここで中風の人の信仰を見たのではなく、屋根からつり降ろす人達の信仰を見て、罪の赦しの宣言をなされたのです。
 ここで注意が必要ですけれど、その人に代わっての「代理人の信仰」ということがあり得るのではないかということを思わされるのです。具体的に考えてみましょう。通常、洗礼は本人の信仰に基づいて授けられます。しかし、幼児洗礼は違います。両親の信仰に基づいて授けられるのです。しかし、この場合は、大人になって自分の口で信仰告白がなされることが前提となっています。しかしそうでない場合があります。自分の口で信仰を言い表すことが出来ない人が居るのです。例えば、重い知恵遅れの人の場合です。通常のように、主の祈りを覚え、使徒信条を覚え、教理的な学びをして、信仰を告白するということは出来ない。礼拝の場に、じっと座っているということさえ出来ないという人もいるでしょう。あるいは、老人性の痴ほうが出て、覚えるということが全く出来ない。そういう人もいるでしょう。そういう人に、教会は洗礼をどうして授けることが出来るのか。本人の意思が確認出来ないのだから、そう言う人のことは考えない。そう言う人には洗礼を授けないということにするのか。そういう考え方もあるでしょう。しかし、私はそうではないと思います。この中風の人を主イエスのもとに連れて来た人達の信仰を見て、主イエスは罪の赦しの宣言をされた。中風の人は、自分の力では主イエスのもとに来ることさえ出来なかったのです。一人では主イエスのもとに来ることの出来ない。そいう人を連れて来た、その人達の信仰を見て、主イエスは罪の赦しを宣言された。この意味は大変大きいと思うのです。もちろん、何でもかんでも代理人の信仰で良いという訳ではない。しかし、そういう可能性が主イエスによる救いの中には与えられているということを、私共は覚えておいて良いと思うのです。

 ところがここで、この主イエスの罪の赦しの宣言を聞いて、共に喜ぶことが出来ない人がいました。その場に居合わせた、ファリサイ派の人達と律法学者達でした。17節を見ますと、この人達の中にはエルサレムから来た人がいたと記されております。この「エルサレムから来た人」というのが問題です。多分、この人達は、ガリラヤの地方で最近話題になっているイエスという人物がどういう人物であるのか、エルサレムの教えに反していることを語っていないかどうか、それを確かめる為にやって来たのだと思います。この人達は主イエスの罪の赦しの宣言を聞いて思いました。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったい誰が罪を赦すことが出来るのか。」この考えは正しいのです。もし、主イエスが神でなかったのならば、この考えは100%正しいのです。主イエスはこの人達の考えを見抜いてこう言われました。23,24節「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいのでしょうか。もし、主イエスが神様でなかったのなら、単なるペテン師だったのなら、「あなたの罪は赦された」と言う方が明らかに易しいのです。何故なら、罪が赦されたかどうかは確かめようがないからです。口先だけ出来ることになるからです。しかし、「起きて歩け」というのは、すぐに目の前でその通りになるかどうかが判ってしまうのですから、口先だけでは出来ません。ペテン師なら、すぐに化けの皮がはがれてしまうことになります。しかし、もし主イエスが神の子なら、まことの神であられるならば、これはどちらも同じ様に易しいことなのです。主イエスは、この中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。すると、この人は立ち上がり、家に帰ったのです。これは、主イエスがまことの神であること、つまり罪の赦しを与えることの出来る方であることを示すしるしとなりました。この中風の人は、中風をいやされ、罪も赦され、全く新しくされて家に帰ったのです。この主イエスの救いに与った者の新しさを、聖書は短く「神を賛美しながら家に帰って行った。」と記しているのです。今まで、この人の口は不平や不満でいっぱいだったと思います。どうして、自分だけこんな中風になってしまったのか。それが自然な私共の姿でしょう。しかし、主イエスの救いに与り、この人の口には神様への賛美があふれてきたのです。神様を賛美すること。それは神様の救いに与り、新しくされた者の「しるし」なのです。そして、その出来事を見ていた人々も又、神様を賛美し始めたのです。一人の人の救いは、それだけで終わらない。人々をその喜び、神賛美へと招いていくのです。
 多分、残念なことですが、この人々の賛美の声の中に、律法学者とファリサイ派の人々の声は入っていなかったのでしょう。この時から、主イエスと彼らとの間には、深い溝、対立というものが生じてしまったのです。そしてこれは、やがて主イエスの十字架へとつながっていくことになるのです。
 一人の中風の者が救われるようにと、心と体とを使って主イエスのもとに運んだ人々。一方、中風の人がいやされても素直に喜ぶことの出来ない律法学者やファリサイ派の人々。この対比は、私共がどのようなキリスト者として歩むべきなのか、又、この教会がどのような存在として、この地に立てられているのかを示しているように思います。私共は人々をキリストのもとに招く為に、とりなす者として生きる為に召された者なのであります。その使命を果たす為に、あきらめず、必要ならば発想の転換もし、大胆に一歩を踏み出していきたいと思うのです。主イエスのもとに連れて来れば、主イエスが必ず何とかして下さる。そのことを信じ、出来る限りのことを為してまいりたいと思うのであります。

[2005年5月8日]

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