富山鹿島町教会

礼拝説教

「安息日論争」
出エジプト記 31章12〜18節
ルカによる福音書 6章1〜11節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共に与えられております御言葉は、安息日をめぐる主イエスと律法学者・ファリサイ派の人々との論争の場面です。ことの成り行きはこういうことでした。ある安息日に主イエスの弟子達が、麦畑を通っていかれる時に麦の穂を摘んで食べたのです。これは、特に珍しいことをしたのではなく、日常的な行為であったと考えられます。今の人はあまりやらないかもしれませんが、ある程度年配の農村で育った方には、自分も学校の帰り道にこれと同じことをしたという思い出を持っている人もいると思います。麦の穂を摘んで、手でもんでカラを取り、口にほおばると、ちょうどガムを食べるような感じになるのだそうです。主イエスの弟子達も、何ということはなく、いつものように、ついやってしまったということなのでしょう。ところが、それをファリサイ派の人々が見ていたのです。彼らは、主イエスにくってかかって言ったのです。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか。」
 多分、私共の多くは、この時ファリサイ派の人々が何をそんなに怒っているのか判らないのではないかと思います。この背景には、当時のユダヤにおける律法主義的生活習慣というものがあるのです。主イエスの弟子達がしたことは、安息日でなければ、何の問題もなかったことなのです。しかし、この日は安息日だった。当時、安息日にしてはいけないリストというものがあったのです。それは、39種類の規定からなり、それはさらに6つの細則に分かれておりました。つまり234のしてはいけないリストがあったのです。弟子達のしたことは、麦の収穫という労働であり、麦の穂を手でもむのは、脱穀したということになる。つまり、二つの労働をしたことになるのであって、立派な安息日規定違反ということになる。ファリサイ派の人々はそう主張したのです。この感覚は、正直な所私などにはよく判りません。何をそんなつまらないことに目くじらを立てるのか。そんな風に思ってしまいます。しかし、当時の律法主義者の人々にとっては、この234の安息日規定こそ、自分達が救いに与る為に、完全に守らなければいけないことを教えていたし、実践していたのです。この234の規定には、安息日に歩いて良い距離や食事の用意の仕方(これは火を使ってはいけないのです)から文字を書くことの禁止まで含まれておりました。井戸に落ちた家畜を助けるのも、その井戸の水が浅くてすぐ死ぬようなことがない場合はダメ。もちろん、店を開けて商売するなんていうのは、もってのほかです。私共は、こんなファリサイ派の人々の言うことなど放っておいたら良いと考えるかもしれませんが、ことはそれ程簡単なことではありませんでした。11節には「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」とありますが、この場面と同じことを記しているマルコによる福音書3章6節には、この時に「人々は主イエスを殺そうと相談し始めた」と記しています。実に、この安息日をめぐる論争こそ、主イエスが十字架にかけられることになったきっかけ、出発点だったのです。

 主イエスは、安息日に麦の穂を取って食べた弟子達に対するファリサイ派の人々の抗議に対して、サムエル記上21章に記されている出来事を引いて反論されました。つまり、ダビデがサウルに追われて逃げていた時に、神様に供えられていたパン、これは祭司しか食べることが許されていないものでしたが、これをダビデと供の者達は祭司からもらい受けて食べた。ダビデが神に選ばれた王であるが故にそれが許されたとするなら、私こそ安息日の主であり、安息日こそ、私の為にあるのだと言われたのです。この発言は、私こそ神であり、神の御心を行う者であるという宣言であったと言って良いと思います。この安息日に対しての姿勢は、主イエスの新しい信仰の姿勢、主イエスによってもたらされる救いの秩序と結びついているのです。この安息日論争は、この直前にある、断食についての論争ともつながっています。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と主イエスが言われた新しい革袋、つまり新しい信仰のあり方は、何よりも安息日の守り方において現れるからであります。新しい革袋が必要なのは、新しいぶどう酒が備えられたからでしょう。主イエスによって、新しいぶどう酒、新しい信仰、新しい救いの秩序が与えられたのです。新しいぶどう酒という新しい救いの内容こそ、主イエス・キリストによってもたらされた、罪の赦し・体の甦り、永遠の命という福音に他ならないのであります。この福音を入れる器は、律法主義というものではないのです。
 さて、他の安息日にもトラブルが起きました。主イエスが右の手の萎えた人をいやされたのです。しかも、この時、主イエスはそれを会堂で行ったのです。律法学者もファリサイ派の人々も、主イエスを訴える口実を見つけようと注目している時に、その考えを見抜いて、わざわざ彼らの目の前で主イエスはいやしをなさったのです。そして、こう言われたのです。9節「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」これは意図的であり、まことに挑戦的な言葉であり行為でした。主イエスは何も安息日などどうでも良いと言われたのではないのです。実際、主イエスは安息日には会堂に入って教えられたのです。安息日の礼拝を無視するなどということはなかったのです。ただ、神様が安息日を恵みの律法として与えられた、その意図を取り違えていないか。安息日は何もしない。それが目的ではないだろう。そう指摘されたのだと思うのです。

 そもそも、律法学者やファリサイ派の人々はどうして234もの規定を作り、これを守ることに全ての思いを集中していたのでしょうか。その背後には、神様を恐れ、怯える、そういう思いがあったのではないでしょうか。完璧に律法を守らなければ救われない、裁かれる。そんな思いが彼らを支配していたのではないでしょうか。しかし、律法とは本来そのようなものとして受け取られべきものではなかったのです。神様が、愛する神の民を救いへと伴っていくために教えて下さった、愛の言葉に他ならないはずなのです。律法は、何よりも喜びの中で受け止められていかなければならないものだったはずなのです。それを恐れの言葉にしている。そこに問題があったのではないでしょうか。
 十戒の第四の戒が安息日の規定ですが、これが定められた理由として記されているのは、神様が六日間で天地を創り、七日目に休まれたということです。つまり、安息日を守るということは、神様の創造の御業のリズムを自分の生活のリズムとして、神様の御心を自分の心として生きる、それを目的とした戒なのであります。私共は放っておけば、神様のことなど考えない。自分のことしか考えない。そういう者です。ですから、一週間に一度、神様の御業に感謝して、その日一日を神様におささげする。そして、神様の創造のみ業の中に生かされていることを覚え、喜び、感謝を捧げる。それが安息日を守るということだったはずなのです。右の手が萎えた人がいる。当時の安息日の規定で言えば、これは緊急の病気ではない。命に別状がある訳ではないので、安息日が終わってからいやさなければならない。そういうことだったでしょう。しかし、主イエスはあえてここで癒されたのです。それは、安息日というのは、神様のリズムと私共のリズムを合わせる為のものであり、それは何よりも神様の御心と私共の心とが一つになる為の日ではないか。であるなら、この目の前にいる右の手の萎えた人をあわれんでいやしてやることこそ、神様の御心と一つにされた者の業ではないのか。主イエスは、そう言われているのであります。

 ただ、ここで私共が注意しなければいけないのは、安息日などどうでも良いとは主イエスは決してお考えになってはいなかったということです。安息日を守ることは、十戒に示されている御心でありますから、これが無意味であるということは、あり得ないのです。問題は、この守り方にあったのです。
 私共キリストの教会は安息日を土曜日から日曜日に変えました。それは、主イエスの復活を記念して守ることになった訳ですが、その心は十戒の第四の戒を守るということに変わりはないのです。私共は、この日を何よりも神様の御業、主イエス・キリストの救いの御業に感謝する日として、神様にささげるのであります。
 律法学者やファリサイ派の人々は十戒を守って生きる生活のカギは、この第四の戒である安息日を厳格に守ることであると考えました。この着目点は正しかったと思います。十戒というのは、○○してはいけない、という形で記されていますが、二つだけ、第四の戒「安息日を覚えてこれを聖とせよ。」と、第五の戒「父と母を敬え。」だけは、○○せよという形で記されています。特に安息日を守るというのは、他の戒に比べて、大変判りやすいのです。第一の戒が「あなたは、わたしのほか何ものをも神としてはならない。」が十戒の中で最も大切であることは言うまでもないことですが、これは具体的にはどういうことなのかということで、第二の戒以降が展開されている訳です。この中で、安息日の規定が生活の中で最も判りやすいのです。ですから、この安息日を守るという一点に、バビロン捕囚から解放されて新しい出発をした人々は集中していったのです。「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守った。」という言葉があります。安息日を守る中で、ユダヤ人は神の民であり続けることが出来たということであります。これは正しいと思います。私共もその点では同じでしょう。主の日の礼拝を守ることにおいて、神の民であり続けることが出来るのであります。これは間違いのないことです。そして、このことを新しく大切なこととして、受け取り直したのが、改革派であり、ピューリタンだったのです。私共は、その伝統に立つ者です。
 キリストの教会は、その出発からして、ユダヤ教の人々とは違うあり方で主の日を守ったのです。初代教会の人々のことを考えますと、日曜日というのは休みではありませんでした。日曜日が休みになるのは、ローマ帝国においてキリスト教が国教となるということと結びついています。4世紀になってからです。それまでは日曜日は休みではない。ということは、キリストの教会はその初めから日曜日をユダヤ教のいう安息日、何もしない日として守ることは出来なかったのです。多分、日曜日の礼拝は仕事の始まる前の早朝か、仕事が終わってからの夜であったに違いないのです。そして、その礼拝を守ることを何よりも喜びとし、そこに集中して生きる命の群があった。この主の日の礼拝こそ、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋となったのであります。このキリスト者が圧倒的に少数である日本においては、初代教会と同じ様な事情があるのではないかと私は思います。
 私が尊敬する婦人牧師に、三好静子、吉岡適子という二人の方がいます。先の大戦が始まった頃に、京都の綾部市の純農村地帯にある物部村に開拓伝道をされ、生涯その一つの教会に仕えられた伝道者です。三好先生はすでに天に召され、吉岡先生も引退されました。現在、20名程の方々が礼拝を守っています。この教会の礼拝は朝の8時から始まります。これでも、少し遅くなりました。農村ですので、日曜日には地域の共同作業が入るのです。「村用」と言います。その村に住む以上、それに出ない訳にはいかない。それで、礼拝を守ってからそれらの仕事に行くようにと、朝の早い時間に礼拝を守るようになったというのです。教会学校は、大人の礼拝の後にやるのです。私共にとって安息日とは、何よりも喜びの礼拝をささげる日なのでありましょう。安息日の主である、主イエス・キリストに感謝をささげ、主の御手の中で始められる新しい一週間を、感謝をもって受け取るのであります。私共にとって安息日は、何もしない日ではなく、神様の為に精一杯お仕えする日なのでありましょう。それが、私共の本当の休息なのであります。
 私共の教会は現在、夕礼拝をしています。朝と同じ説教がなされています。聖餐も守られています。ですから、これは第一礼拝、第二礼拝と呼んでも良いものです。朝の礼拝に仕事で来ることの出来ない人は、夕礼拝に集って欲しいのです。御言葉に与ることなく安息日を過ごすなどということがないようにして欲しいのです。安易に用がある、仕事があると言って、礼拝を軽んじて欲しくないのです。それは、主の安息日の戦いをムダにしてしまうことになるのです。何としても主の日の礼拝を守る。それが私共にとっての安息日を覚えて聖とするということなのです。私共が主の日の礼拝を守るのではない。私共が主の日の礼拝によって「神の民として」守られるのです。ここに私共の命があるのであります。

[2005年6月19日]

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