富山鹿島町教会

礼拝説教

「幸いな人」
イザヤ書 55章1〜6節
ルカによる福音書 6章20〜23節

小堀 康彦牧師

 山の上で12人の使徒達を選び立てられた主イエスは、山を下り、そこにいた大勢の人々をいやされました。そして、弟子達にこう語り始められました。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。」不思議な言葉です。私共が聖書を開いて、この言葉に最初に出会った時、なる程その通りだと思った人はいないだろうと思います。一体何を言っているのか判らない。そんな、困惑した思いを持つのではないかと思います。貧しい人、飢えている人、泣いている人が幸いであるはずがないからです。しかし、この言葉を主イエスが語られた時、この言葉をその場で聞いた人々も同じ様に困惑したのでしょうか。私にはそうは思えないのです。この言葉を主イエスの口から聞いた人々は、きっと、「ああ、自分は幸いな者だ。」そう感じることが出来たのではないか。そう思うのであります。
 主イエスのこの言葉を聞いた人々は、20節を見ますと、「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」とありますから、第一に主イエスの弟子達であったことは明らかです。それは、12使徒を含む、それより多い人々でした。しかしそれだけではなく、その周りにいた、主イエスにいやしを求めに来た人々も、この主イエスの言葉を聞いたに違いないと思います。その人々は、実際に貧しい人々であり、飢えている人々であり、泣いている人々だったのではないかと思うのです。その人々を前にして、そういう人々に向かって、主イエスは、「貧しい人々は幸いである。今飢えている人々は幸いである。今泣いている人々は幸いである。」そう告げられたのです。そして、それを聞いた人々は、「ああ、私は幸いな者だ。もう大丈夫だ。」そう思ったに違いないのです。どうしてか。それは、この言葉は主イエスによる祝福の言葉だったからです。彼らは、ここで主イエスの祝福を受けたのです。祝福を受ける。それは、祝福を与える者に力があり、その祝福の言葉は出来事となるということなのです。彼らはこのことを良く知っていたのです。何故なら、彼らはイスラエル人だったからです。アブラハム・イサク・ヤコブと続く彼らの先祖達の系譜。このヤコブがイスラエルなのですが、この系譜は神さまの祝福を受け継ぐ者の系譜なのです。彼らは、神の祝福を受け取り、それを伝えていく者として神さまに立てられた民だったからです。

 私はよく求道者の方から、「祝福とはどういうことですか。」という質問を受けます。確かに、この「祝福」という言葉は現代の日本の社会の中で、教会以外の所ではまず日常的に使われる言葉ではありません。だから、良く判らない。しかし、祝福と正反対の呪いということならどうでしょうか。これなら何となく判るのではないでしょうか。おどろおどろしい言葉ですけれど、「お前を呪ってやる。」とか、「この家は呪われている。」といったセリフは、映画やテレビの中でも使われます。祝福というのは、その正反対と考えていただいたら良いと思います。呪いは判るけれども、祝福は判らない。私はくわしく調べたことはありませんけれど、ここに、日本の宗教土壌と言いますか、日本の宗教のあり様、宗教と私共との関わりというものが示されているように思えてならないのです。日本の宗教は、呪いや祟りから逃れるというところで機能してきたのではないかと思うのです。だから祝福を知らない、祝福が判らない。と言うことになってしまうのではないかと思うのです。祝福を知らない民。だから、この主イエスの言葉が判らないのではないかと思う。呪いの言葉を受けたら誰でもいい気持ちにはならないでしょう。しかし、その正反対に祝福の言葉を受けたらどうでしょうか。しかもその言葉を告げた方は、今、自分達の前で多くの人をいやし、力ある方であることがはっきりしている。とすれば、この時この主イエスの言葉を受けた人々は、「ああ、自分は本当に幸いな者になれる。もう大丈夫だ。」そう思えたのではないでしょうか。

 私共に、今朝与えられた神様の言葉は、この主イエスの祝福の言葉です。今朝、私共は、二千年前主イエスからこの祝福の言葉を受けた人々と同じ祝福を受け取る者として、ここに集められているのです。私共は主イエスの祝福を受け取り、その幸いの中に生きる者として召されているのです。主イエスの祝福。それは単にそれを受けて気分が良くなる、そういうことではありません。主イエスの祝福は、それを受けた者が本当にその言葉の中に生き切ることが出来る力を与えるものであります。主イエスが、「貧しい人々は幸いである」、そう言い切って下さった以上、幸いなのであり、貧しくても幸いの中に生きることが出来るようになるのであります。
 貧しさ、それはいつの時代でも私共の心をむしばむものであります。誰だって貧しくありたくない。豊かになりたい。そう思います。しかし、貧しいというのはどこかで線が引けるのでしょうか。現代の日本は、世界でも有数の豊かな国です。現在の私共の生活は、同じ日本のほんの50年前と比べても、比較することが出来ない程に豊かになりました。誰もが車を乗り回し、蛇口をひねればお湯が出ます。牧師の生活も又、豊かになりました。私が神学校に入る時には、きっと生活に困るだろうから、その時には学習塾でもやって生活しなければならないだろうと思っておりました。しかし、そのようなことは一度もなく、ダイエットをしなければならない程に太ってしまいました。
 貧しい人々は幸いである。主イエスはそう言われました。しかし、この言葉をきちんと受け取ろうとすると、「私共は本当に貧しいのか」という問いも又、生まれてくるのではないでしょうか。そうは言っても、自分は貧しい。住宅のローンもあるし、教育費だって大変だ。そう言う方もおられるでしょう。しかし、ここで主イエスが言われた貧しさというのは、年収いくらまでの人であるといって線を引くことが出来るものではない、そんなことをしても意味のない、愚かなことであることは言うまでもありません。そもそも、主イエスはここで、「あなたがたは貧しいから、幸いである。」と言われているのではないのです。貧しいということが、この主イエスの祝福を受ける条件となっている訳ではないのです。この事はとても大切です。「貧しさ」ということを一般化して、全ての貧しい人に対して、あなたは幸いだと言っているわけではないのです。そうではなくて、主イエスはこの時、現に目の前にいる人を見て、「あなたがたは貧しいね。しかし、幸いです。大丈夫です。何故なら、神の国はあなたがたのものだからです。」そう告げられたのです。貧しいというのは、主イエスの祝福を受ける条件ではなく、まさに、主イエスの祝福を受ける人々の実際の姿なのです。

 問題は、私共が主イエスの祝福を必要としない程に富んでいるのか、それとも、主イエスの祝福を必要とする貧しさの中にいるのかということであります。もし、主イエスの祝福を必要とする程の貧しさの中にいるのなら、もう心配はない。主イエスの祝福が私共をつつみ、私共をまことに幸いな者として下さる。この主イエスの祝福を、ただ信じて、喜んで受ければ良いのであります。
 主イエスが与えられる祝福によってもたらされる幸い。それは、神の国によって保証されるものです。私共は豊かになれば幸いになれるという錯覚を抱くことがあります。親であれば、子供に少しでも収入の多い職業に就かせたいと思い、勉強させる。これは自然な心の動きでしょう。これを否定するつもりはありません。しかし、収入が多く豊かになれば人は幸いになれると考えるのは、全くの迷信です。この迷信は、現代の日本において最も広くゆきわたっているものでしょう。この迷信の背後には、お金の神、マモンがいます。私共は、この「貧しい人々は幸いである」という、主イエスの祝福の言葉によって、このマモンの呪いから解き放たれるのです。
 私共の幸い、それは富にあるのではなく、神の国にあるのです。主イエスは、「貧しい人々は幸いである、あなたがたは豊かになる。」とは言われなかったのです。豊かさ、富の中にまことの幸いはあるのではなく、神の国にこそまことの幸いがあることを示して下さったのです。神の国の幸い、それは、神様の心を自分の心として生きることの出来る幸いであり、神様を我が父よと呼び、神様との親しい交わりの中に生きる幸いであり、神様の持つ無尽蔵の富、永遠の命、尽きぬ愛、ゆるがぬ平安、輝く希望、あふれる喜び、それらを受け取るということであります。

 私共は、皆、貧しいのであります。愛において貧しいのです。信仰において貧しいのです。喜ぶことにおいて貧しいのです。主イエスの祝福を必要とする貧しさの中にあるのです。「貧しい人々は幸いである」との、主イエスの言葉は、改めて、私共に自らの貧しさを示しているのです。
 私は貧しさということを思う時、いつも一人の人の言葉を思い起こすのです。それは、宗教改革者、マルチン・ルターの言葉です。彼が亡くなる二日前に書き残した言葉、「私は、乞食だ。それは本当だ。」という言葉です。聖書が判るには神の奇跡を待つしかない。自分は、その神の奇跡をひたすら待つ乞食だ、という意味であります。ルターも又、自らの貧しさを本当に知っていたのです。聖書の豊かさ、それは神の国の豊かさにも通じるものでしょう。その豊かさの前に、自らはただ乞食のようにそのあわれみを求めるしかない。ルターは、聖書博士でした。当時ヨーロッパに数える程しかいなかった聖書の専門家でした。しかし、彼は自らの貧しさを知らされ、聖書に向かい続けたのです。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。」との言葉を思い起こさざるを得ません。
 先週、ロンドンで同時多発テロが起きました。これも、私共の世界の貧しさ、愛の貧しさを示しているのでしょう。日本と中国、韓国、北朝鮮との関係においてもそうであります。そんな大きなことでなくても、私共の日常の歩みの中で、私共はまことに愛において貧しい者であることを告白せざるを得ないのではないでしょうか。夫婦の関係において、親子の関係において、神様のあわれみを願い、愛が増し加えられるようにと祈らざるを得ない、私共なのであります。しかし、そのような私共に向かって、主イエスは今日、「あなたがた、貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。」と、祝福して下さっているのであります。神の国が、神様の御支配が、私共をつつむ。それ故、主のあわれみの中で、私共が愛において富む者とされていくことを、愛に満たされていくことを、笑うようになることを、信じて良いのであります。
 私が牧師として思うのは、牧師とは何よりもこの主イエス・キリストの祝福を告げていく者であるということであります。病気の人を問安をし、教会員の家を訪ねていく。そこでは必ず祈りをささげるのです。その祈りは、時と場合によって様々でありますけれど、結局の所、主の祝福を祈り求めるのであります。この人に、この家に、主の祝福があるように、貧しい者は幸いであると言われた主イエスの祝福がここにも注がれるように、「主よ、ここに、あなたの愛する貧しい者がいるのです。祝福して下さい。」そう祈るのであります。
 私共は礼拝のたびごとに、祝福を受けてここから遣わされていきます。多くの教会で祝祷と訳されている言葉を、私共は祝福と訳しています。この訳の方が良いと思います。祝福を受けるということは、そうなるか、ならないか判らないけれども、というようなものではないのです。主の祝福は、それを受けた以上、そうなるのです。祝福とは、そういうものなのです。私共は祝福を受けた者として、新しい一週間の歩みへと遣わされていくのです。それは、主イエスの祝福を身に帯び、それ故に、主イエスの祝福を告げていく者として歩むということに他ならないのです。自分も含め、貧しさの中にあるあなたの上に、主イエス・キリストの祝福がある。そのことを信じ、祈り求め、それを告げる者として歩むのであります。

[2005年7月10日]

メッセージ へもどる。