富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の赦しに生きる」
エズラ記 3章8〜13節
ルカによる福音書 7章36〜50節

小堀 康彦牧師

 主イエスはファリサイ派の人の招きを受けて、その人の家で食事をされておりました。食事を共にするということは、その人を受け入れる、親しい関係を持つということを意味しております。ルカによる福音書の今までの所でも、主イエスはシモン・ペトロの家で食事をされ、又、徴税人レビの家で食事をされたことが記されております。主イエスは彼ら受け入れ、親しい交わりへと招かれたのです。主イエスは罪人を招かれた。けれども、ファリサイ派の人々とは険悪な関係にあったと私共は考えがちであります。しんし、主イエスは求められればファリサイ派の人とも食事を共にされたのです。このことは、主イエスというお方が、どのような人をも受け入れ、どのような人をもご自分との交わりの中に生きるようにと招かれた方だということを意味しているのでしょう。このことは、とても大切なことです。今朝与えられている御言葉において、招いているのはファリサイ派の人です。主イエスは招かれている方です。しかし、主イエスがこの家で共に食事をした途端に、その関係は逆転します。主イエスがご自身との交わりの中に、ファリサイ派の人を招く、そういうことになったのです。主イエスというお方との関係は、いつもそうなのです。私共も自分で求めて、教会の門をくぐったのでしょう。しかし、教会に来てみると、求めていたのは私ではなく、私以上に、神様が、主イエスが、長い間私を求め、私を捜しておられたことに気付かされたのではないでしょうか。ファリサイ派の人は、ここで主イエスを招きました。しかし、この食事の席で招いているのは主イエスであり、この家の主人であるファリサイ派の人は、主イエスとの交わりへ、神様との新しい交わりへと招かれているのです。その主イエスによる招きの物語が、この食事の席に突然入ってきた一人の女性とのやりとりの中で告げられているのであります。

 37節、「この町に一人の罪深い女がいた。」とあります。一体、この女性はどんな罪を犯していた人なのか。多くの人が、様々な推測をしてきました。代表的なのは、売春婦ではなかったかというものです。聖書に書いてないのですから、こういう所はあまり想像力をたくましくしない方が良いと思いますけれど、いずれにせよ、この女性はその町では誰もが知っている罪を犯した女性であったということです。
 この女性が、食事をしている席に突然入ってきまして、主イエスに後ろから近づいて、泣きながら主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、更に足に接吻して、香油を塗ったというのです。当時の食事は、イスに座ってするような形ではなく、低いテーブルのまわりに、足を投げ出して、ヒジをついて横になる。そんな形で主イエスも食事をされていたはずです。その足もとに、女性が近づき、ハラハラと涙を流し、自分の髪の毛で主イエスの足をぬぐったのです。これは、異様な光景でしょう。今までなされていた会話も止み、その場に居合わせていた人々の目は、この女性の行為にくぎづけになったに違いありません。すると、女性は主イエスの足に接吻し、香油を塗り始めたのです。香油の香りが、その部屋いっぱいに広がりました。主イエスは、この女性のするがままになっていました。この女性の行為を止めることもされませんでした。主イエスは、この女性が、どうしてこのようなことをするのか、しないではいられなかったのか、その心をよく判ったのです。そして、その心を受け留められたのです。
 多分、この女性は主イエスとお会いするのは今回が初めてということではなかったのだと思います。主イエスが多くの人々をいやし、福音を告げていく中で、この女性との出会いもあったのでしょう。この女性の愛する人が、主イエスによって癒されたのかもしれません。あるいは、主イエスの告げる福音を聞き、自分も又、神様に愛されている者であるということを知らされた。私も生きていて良いのだ。私もこれで生きていける。そんな思いを抱いたのかもしれません。いずれにせよ、主イエスがこの町に来られ、今日はファリサイ派の人の家で食事をされていると聞いて、この女性はどうしても主イエスの元に来たい、会いたい。そう思って、ここに来たのでしょう。人々から罪の女と見られているこの女性にとって、ファリサイ派の人の家に行くということは、自分に向けられる冷たい視線も覚悟の上だったでしょう。それでも、主イエスにお会いしたい。そう思ったのです。最初から、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、香油を塗ろうと思っていた訳ではないだろうと思います。ただ、主イエスのお姿を見たら、自然に涙があふれてきたのでしょう。彼女には、主イエスにそうしないではいられない何かがあったのだと思います。主イエスは、その思いを受け止められました。だから、この女性の異様と思える行為も、お止めにならなかったのです。
 少し前の7章11節以下の所で、ナインという町で、主イエスが死んでいた青年を生き返らせた事がありました。この時には、一人息子が死んで泣いている婦人に、主イエスは「泣くな」と言われました。しかし、今回は自分の足を涙でぬぐう女性に「泣くな」とは言われませんでした。それは、ナインの町のやもめの涙は、死に打ちひしがれた悲しみの涙であり、今日の女性の涙は、感謝の涙、悔い改めの涙、喜びの涙だったからであります。主イエスは、この女性の思いを受け取られたのです。この女性は、主イエスとの交わりの中に招かれたのです。

 しかし、これを見ていたファリサイ派の人の心は穏やかではありませんでした。この女性が、この町でも有名な罪の女だったからです。彼にしてみれば、こんな女が自分の家の中に入ってきたこと自体、とんでもないことだったでしょう。そして、心の中で思いました。39節「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」彼はファリサイ派です。このファリサイというのは、分ける、分離する、という言葉から生まれました。自分達は律法を守っており、それ故に清い者だ。律法を守らない汚れた者達とは違う。そういう思いの中で、汚れた者達と自分達を分ける、決して交わらない、そういう人達でした。彼らは、律法を守ることに熱心で、大変熱い宗教心を持っていたのです。彼らの立場からすれば、神の預言者とは、自分達以上に罪や汚れに敏感で、そういう人を決して赦さないはずだ。そう考えていたのです。ですから、主イエスがもし、本当に神様から遣わされた方ならば、この罪の女を退け、その罪を糾弾するはずだ。そう考えたのです。
 彼は、その思いを口にすることはありませんでしたけれど、主イエスはその心の動きを読み取ります。そして、このシモンというファリサイ派の人に向かって、一つのたとえ話をするのです。41〜42節「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは答えます。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」これは、ほとんど説明がいらない程、明らかな、当たり前の話でしょう。
 ジュースを買うのに100円借りたのを帳消しにしてもらった人と、5000万円の借金でもう首が回らなくなり、自殺しようとしていた所でその借金を帳消しにしてもらった人とでは、比べようがない。ジュース代の100円は借りたことさえ、忘れてしまうでしょう。しかし、5000万円の借金を助けられた人は、生涯、このことを忘れることは出来ないでしょう。あの人の方には足を向けて寝られない。そういう思いを生涯抱くだろうと思うのです。
 主イエスはここで、この罪の女性を、多く赦された方で、ファリサイ派のシモンを、少なく赦された方だと言われたのでしょうか。ここで借金にたとえられているのは、罪ということでしょう。帳消しにして下さるのは神様です。しかし、そもそも、罪の赦しというものに、多い、少ないということがあるのでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙3章10節で、有名な「正しい者はいない。一人もいない。」と申しました。私共の罪というものは、多い、少ないで量れるようなものではないと思うのです。とするならば、ここで、多い、少ないと言われているのは、意識の問題ということになるのではないでしょうか。同じように恐るべき罪を赦されておりながら、それを自分の存在の根底からの大きな赦しと受け取る者と、そうでない者とがいるということでしょう。それは、本人の罪の自覚の問題とも言えます。自分の罪を軽くしか考えない人は、赦しも又軽くしか受け取れない。しかし、自分の罪を本当に深く受け取る人は、赦しの恵みも又大きく、深く受け取るということなのでしょう。求道者の方と話をしていて、必ず受ける質問があります。それは、「人殺しをした人でも悔い改めたのなら、赦されるのですか。」というものです。自分が赦されるのは判る。しかし、人殺しはダメだろう。そう考えるわけです。そこには、罪を量で考えるということがあるのだと思うのです。罪を量で考える人は、必ず、罪の大きさを比較します。そして、あの人よりは自分はましだと思うのです。しかし、神様の罪の赦しというものは、人と比べようがない。私と神様、その一対一の関係の中で与えられるものなのです。主イエスはここで、ファリサイ派のシモンに対して、このたとえを語りながら、あなたは帳消しにしてもらう罪は少ないと思っているかもしれない、しかし、あなたの罪もこの罪の女と同じように大きく、赦されなければならないし、赦されるのだと告げられたのではないでしょうか。
 この罪の女は、主イエスと出会い、自分がその存在の根底から赦された、自分はこれで生きていける、そのように感じた。新しい命を受け取ったのです。だから、周囲の目も気にせず、主イエスに精一杯の愛をささげたのでしょう。主イエスを信じるということは、主イエスを愛するということです。
 使徒パウロも又、コリントの信徒への手紙一15章10節で「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と語っています。この「神の恵み」という言葉は「神の赦し」と言い換えても良いでしょう。パウロは、神様の赦しによって、新しい私が生まれた。その赦しの中で今の自分はある。そう考えていたのです。実に罪の赦しとは、そういうものなのです。一切の罪が赦され、神の子、神の僕としての新しい命がそこに生まれるのです。神様を愛し、主イエスを愛することが、自分の人生の全てとなる。そういう変化が起きるのであります。

 私共は今朝、主の食卓に招かれています。主イエスと共なる食事です。この食事に与る者は、一切の罪を赦された者として、主イエスとの交わりの中に生きるのです。主イエスは、この罪の女に向かって、「あなたの罪は赦された。」と告げ、更に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と告げられました。「安心して行きなさい。」と主イエスは告げられましたけれど、一体、この女性は、どこに行けば良いのでしょうか。彼女は、今までの罪の生活と決別し、新しい神の子としての歩みへと、新しく歩み出していく。その通りです。しかし、それだけでしょうか。彼女は、この主イエスと共なる食卓のある交わり、教会の交わりへと行くしかないのではないでしょうか。他に彼女が行くべき所はありません。私共この罪の女性と重なります。この主イエスの食卓に与る私共は、皆、この罪の赦しの宣言を主イエスから受けた罪の女に他ならないのでしょう。私共も又、「あなたの罪は赦された」との主の御声を聞き、新しく、主イエスを心より愛する者として、この一週も、主の御前に歩んでまいりたいのです。
 そしてまた、私共は、このファリサイ派のシモンとも重なります。私共の中にはこのファリサイ派のシモンのような罪への鈍さがあります。人と比べる愚かさがあります。しかし、主イエスはこのシモンも招かれたのです。主イエスは、このシモンも又、この悔い改めた罪の女のように、自らを誇ることなく、ただ神の赦しの中に生きることを求められた。私共も招かれています。ですから、この招きに感謝して、この招きにお応えするものとして歩んでいきたいのです。今、聖霊なる神様の導きを、心から願い、求めたいと思います。

[2005年9月4日]

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