富山鹿島町教会

礼拝説教

「種まきのたとえ」
民数記 11章1〜20節
ルカによる福音書 8章1〜15節

小堀 康彦牧師

 今朝与えられております御言葉は、「種蒔きのたとえ」です。まことに印象深いたとえ話です。一度聞いたら忘れられない話です。多分、主イエスの時代の日常の生活から取った話でしょう。ある人が種を蒔く。すると、ある種は道端に落ち、ある種は石地に落ち、ある種は茨の中に落ち、ある種は良い土地に落ちた、というのです。多分、麦の種でしょう。当時の麦の種の蒔き方は、直蒔きと申しますか、農夫が手に種を持ちまして、種をパーッと蒔くのです。均等に蒔くには、かなり技術のいることであったと思いますけれど、ウネを作って、穴をあけて、そこに種を入れていくというような仕方ではありませんので、畑の外に出てしまう種もあったのだろうと思います。畑の外の道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまう。石地に落ちた種は、芽は出るが水気がないので枯れてしまう。茨の中に落ちた種は、茨が押しかぶさって実らない。ただ、良い土地に落ちた種だけが百倍の実を結ぶというのです。
 そして、主イエスご自身が、このたとえ話の説明をされております。この種というのは、神の言葉であるというのです。とすれば、この種蒔く人とは、伝道者のことであると考えて良いだろうと思います。4種類の地に落ちた種が語られますが、実りをつけるのは4番目の良い土地に落ちた種だけです。道端も石地も茨の地に落ちた種も、実りをつけることは出来ませんでした。私共は、このたとえ話を聞いて、しばしば、自分達の為す伝道の業が、なかなか実りを結ばないという現実と重ねて理解しようとします。神の言葉を語っても、伝道しても、ちっとも実を結ばない、伝道が進展しない、洗礼者が与えられない。それは、神の言葉を聞いても受け入れようとしない人が悪いのだ。そう考える。これは、全く的をはずした理解とは言えない所があります。私が伝道者として歩みながら、最も大きな壁として感じていることは、まさにこの福音を聞く人の耳、心のあり様の問題なのです。
 私が伝道者として歩み始めた20年前、「伝道したい」その一心で神学校を卒業しました。毎週の説教、祈祷会の準備をするだけで、一週間は、あっという間に過ぎてしまいました。しかし、いつも話を聞いている人は同じ人です。当たり前と言えば、当たり前なのですけれど、いつも同じ人。求道者がいない。私は伝道したくてしたくてしょうがないのです。しばらくして、車で2時間ほど離れた町から来られている人が、自宅で集会をしたいと申し出られました。私は喜んで、聖書の話をしに行きました。車で2時間というのは、少しも苦になりませんでした。聖書の話が出来る。それだけでうれしかったのです。しかし、その集会から教会に、礼拝に来る人は生まれませんでした。集会を開き、聖書の話をしたら、教会に来る人が生まれ、洗礼者が与えられる。そう簡単にはいかないのです。その後も、いくつもの集会を開いてきました。多い時は、日曜日の礼拝と水曜日の祈祷会を除いて、年間250回ぐらい、聖書を読み、説く、集会を開いてきました。
 そこで判ってきたことは、神の言葉というものは、それを聞いて判るというまで、かなり時間がかかるものだということでした。この時間がかかるというのは、人によっても違うでしょうけれど、50回、100回という単位で聖書を説かれ続けないと、判らない。神の言葉に対しての耳が出来ていないのです。それは当たり前の話であって、罪と言われても、神様と言われても、そんなことは考えたこともなく生きてきた人にとって、説明を受けた所でチンプンカンプン。あるいは、説明を受けて頭では判っても、心がついていかない。自分のことだとは思えない。この聖書の言葉が自分のことを言っているのだということが判るまでに、それは大変時間がかかるものなのです。この時間が問題で、人は皆、急いでおりますので、数回話を聞いて良く判らないと、もう結構ですということになる。あるいは、話を聞き続けている内に、家の人がおもしろくない顔をし始める。家の人の反対を押し切ってまで、聖書の話を聞き続けようとは思わない。それで、やっと礼拝に来てくれるようになり、洗礼ということになっても(ここまで行き着く人は、集会に来られた人の10分の1くらいでしょうか。)、その後で様々な困難がその人を襲う。礼拝どころじゃない。まことに、当たり前の様に礼拝に集う一人のキリスト者が誕生するまで、どれ程の種を蒔き続けたことだろうかと思うのです。それが、私共の日本での伝道の現実であります。10年その地で伝道し続けて、なお一人の受洗者も与えられない。そのような伝道者は少なくないのです。

 しかし、主イエスはここでそのような伝道の困難さをお語りになられたのでしょうか。そうではないと思います。主イエスも伝道の困難さを良く知っておられました。いや、主イエスこそが、最も深く、私共の心のかたくなさを知っておられた方なのです。人をいやし、数々の奇跡をなさいました。確かにその時には、多くの人が集まった。しかし、主イエスが十字架におかかりになられた時、弟子達は皆、主イエスを捨てて、逃げてしまっていた。私は、この種蒔きのたとえの中の種蒔く人とは、第一には、他でもない主イエスご自身なのではないかと思います。主イエス程、神の言葉を語り続けながら、少しも実ることのない現実を、味わい尽くされた方はないと思います。しかし、主イエスはこのたとえ話の中で、良い土地に落ちる種があり、それは百倍の実を結ぶようになる、この希望を確信しておられるのであります。どうして、主イエスはこのような明るい希望を、確信を持って告げることが出来たのか。それは、主イエスは神の言葉の力というものを良く知っていたからなのだと思うのです。蒔かれた種としての神の言葉は、その人の中で成長し、それを聞いた人の思いを超えて、その人を造り変え、多くの実りをもたらす。それが主イエスの確信でありました。そして、事実、神の言葉は実り、全世界にキリストの教会が建ち、この富山の地にも実りをもたらしているのであります。確かに、私共の置かれている伝道の現実は、なかなか厳しいものがあります。しかし、私共は、主イエスと共に、この神の言葉の力というものに、もう一歩、深く信頼を寄せたいと思うのです。そうでなければ、私共は種を蒔き続けることが出来なくなってしまうのではないでしょうか。伝道は神様の御業です。この当たり前のことを、心に刻みたいと思います。

 さて、このたとえ話を読む時、私共は、自分をどの種だと考えるでしょうか。私の経験で申しますと、10人いれば10人の人が、「自分は石地か茨の地だと思う。」と答えます。道端と答える人もほとんど居ません。牧師と一緒に聖書を読んでいる訳ですから、道端ではないのです。しかし、自分は良い土地で、何があっても忍耐して、御言葉を心に宿し、これに従って生きることが出来ると言い切る人にも、あまり会ったことはありません。皆さんはどうでしょうか。試練にあっても身を引かないか、あるいは、人生の思い煩い、富の誘惑、快楽、そういったものに心を引かれ、神の言葉から離れてしまうことはないと言い切れるか。これを言い切れる人は、いないでしょう。私共は、まことに弱い存在だからです。
 先程、旧約の民数記をお読みいたしました。出エジプトの旅の途中で、ろくな食べ物がない、そう言って、神様に不平・不満をぶつけたのです。過越の出来事、海の奇跡、そして食べ物がないといえばマナを与えられ続けた人々です。しかし、どんなに素晴らしい神様の恵みの業にも慣れてしまう。「マナしかない。肉が食べたい。」と言い出すのです。多く神様の救いの業に与っていながら、こうなのです。これはまさに、石地・茨の地の典型と言えるのではないでしょうか。私共は、自分の姿をここに見るような思いがするのです。しかしそれにも関わらず、もし自分が石地や茨の地だと思う人には、本当にそれで良いのですかと、私は問わなければなりません。何故なら、本当にそれであったら、実を結ばないことになるからです。本当に実を結ばなくて良いのですか?救われなくて良いのですか?ということです。そう問うならば、「イヤ、私も良い土地になりたいと思う。」そう答えるのではないでしょうか。私もそうです。良い土地になって、百倍もの実を結びたいのです。
 そもそも、主イエスはここで、神の言葉を聞く人には、道端、石地、茨の地、良い土地という4種類の人がいると言われているのではないと思うのです。もし、そうであるのならば、良い土地でない人は、実を結ばないことになるのであって、救われないことになってしまいます。ここで、先程私が、神の言葉を聞く耳が出来るのには時間がかかるのですと言ったことを思い出して下さい。私共は、元々は皆、石地や茨の地どころか、道端だったのではないでしょうか。神様の言葉を聞いても、ちっとも判らないので、忘れてしまう。心にとめることもない。そういう人間だったのではないでしょうか。思い出して下さい。私共が自覚的に教会に集うようになる以前に、私共は一度も聖書の言葉に触れたことはないでしょうか。きっと、どこかで、触れていたはずです。それは本の中であったかもしれませんし、友人からの言葉であったかもしれません。しかし、それを心にとめることはなかったのではないですか。しかし今、私共は、このようにして神の言葉を求め、礼拝に集っている。確かに、私共は変えられてきているのです。石地か茨の地か判りませんけれど、神の言葉が芽を出し、わずかながらでも私共の中で根を張る。そこまで変えられてきているのです。とするならば、私共はこれから良い土地へと変えられていく。そのことを望み、期待して良いのであります。
 今日は、谷光子姉妹が信仰告白をします。両親が教会員で幼児洗礼を受けています。教会学校にも来ていました。しかし、今まで、きちんと神の言葉を受け入れて生きてきた訳ではない。語られた神の言葉に対して、それを心に宿し、これに従って生きようとはされていなかったのでしょう。だから、今まで信仰告白をしなかった。出来なかったのです。しかし、変えられたのです。これから、生涯、神の言葉と共に生きようと志されたのです。まだ良い土地になったとは言えないかもしれません。これから罪との戦いが始まります。しかし、ここまで変えられたことは、確かなことなのです。これをしてくれたのは神様です。そして、この神様の業が、これからもずっと生涯を通してこの姉妹の上に為され続けることを信じ、期待して良いのであります。
 人には、神の言葉に対して4種類の対応をする人がいるのではなくて、四つの段階がある。そう考えて良いのではないでしょうか。そして、主イエスは、私共の全ての人が、良い土地になることを求めておられるし、期待されているのです。では、この四つの地の違いは何でしょうか。良い土地と、他の三つの地とでは、何が違うのでしょうか。私は、違いはただ一つだと思います。それは、良い土地は耕されているけれど、他の地は耕されていないということです。畑の横の道端だって、耕されれば、良い土地になるのです。耕される。それは、砕かれるということであります。生まれつきの私が、砕かれなければならないのです。神様のクワ、神様のスキによって、硬くかたまった私共の心が打ち砕かれ、神様に向かって、神様の言葉に向かって、柔らかく開かれ、受け入れる心に変えられていかなければならないのです。では、私共の心を神様に向かって造り変えていく、神様のクワ、神様のスキとは何でしょうか。私は神の言葉だと思います。神の言葉は「種」であると同時に、神様のクワ、神様のスキなのです。つまり、神の言葉を語り伝えるということは、ただ種を蒔いているというだけではなくて、神様に対してかたくなな心を打ち砕き、それを耕し、神様の良い土地に変えていくという業なのであります。
 伝道とは、そういう業です。伝道集会は大切ですけれども、一回の集会で、一回御言葉を聞いただけで心が変えられる程、私共の心は簡単ではないのです。時間がかかるのです。しかし、自分を造り変えて下さった神様の御業に生かされ、その神の言葉の力を信じる者は、その時間をいとわず、種を蒔き続けるのです。なかなか実りが与えられないように見えるこの業に、生涯を賭けるのです。生涯をかけて一人の人を神様の御許に連れてくることが出来たなら、ただその一つのことによってだけでも、その人の生涯は神様の御前に大きな意味を持つことになるのです。伝道とは、それ程大きな祝福に満ちた栄光の業なのです。この業に仕えることの出来ることの栄光を思い、喜びをもって、神の言葉を伝えてまいりたい。そう、心から願うのであります。

[2005年9月11日]

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