富山鹿島町教会

礼拝説教

「悪い時代の中にあっても」
イザヤ書 1章2〜20節
ルカによる福音書 9章37〜43節

小堀 康彦牧師

 山の上で主イエスの姿は、モーセとエリヤと共に、栄光に輝く聖なる方としての姿に変わりました。そして、それを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と申しました。ペトロは、本当に「私たちがここにいるのは素晴らしい」ことだと思ったのです。彼はこの素晴らしい光景を見て、この聖なる山で、この素晴らしい体験と共に生きていきたいと思ったのではないでしょうか。どの宗教にも、このような聖なる体験とも言うべきものがあるものです。キリスト教の歴史の中でも、たくさんあります。しかし、ペトロ達はその山にとどまることを許されなかったのです。次の日には、彼らは主イエスと共に山を下りなければならなかったのです。そして、山を下りるとそこには、今までと同じ様に大勢の群衆が主イエスを待っていたのです。病気におかされ、悪霊に取りつかれ、苦しみの中に生き、主イエスに救いを求める大勢の人々が待っていたのです。主イエスも弟子達も、聖なる山の上にとどまることはしなかったのです。それが父なる神様の御心だったからです。私共は山の上に教会を建てないのです。街の中に、人々の生活の中に教会を建ててきましたし、これからもそうしていくのです。それは、どこまでも、この世界に生きる人々と共に歩む為であります。私共はそのような者として召されているからです。

 主イエスと三人の弟子達、ペトロとヤコブとヨハネとが山を下りて来ますと、多分、他の9人の弟子達は山の下で待っていたのでしょう。その弟子達が追い出せなかった悪霊につかれた男の子の父親が、主イエスに大声で助けを求めました。この父親は、この一人息子を何としても助けたかったのです。そして、主イエスを追いかけてここまで来たのでしょう。ところが主イエスがおられない。山に登られていたからです。そこで、弟子達に悪霊を追い出してもらうよう願いましたが、弟子達はその悪霊を追い出せなかったというのです。9章の最初の所を見ると、主イエスの弟子達はすでに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」とを主イエスから授かっておりました。ところが、この時弟子達はこの悪霊を追い出すことが出来なかったのです。どうしてでしょうか。主イエスはこの時、41節「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と言われました。「よこしまな時代」とは、口語訳では「曲がった時代」と訳されていました。曲がっている。まっすぐじゃない。何よりも神様に対してまっすぐじゃないのです。だから不信仰なのです。神様に対して全き信頼を持つことが出来ないのです。
 この言葉は誰に向けられた言葉なのでしょうか。私は第一に、この言葉は弟子達に向けられた言葉なのだと思います。私共は「イエス様が言う通りだ。今も不信仰な時代、曲がった時代だ、本当に困ったものだ。」そんなのんきなことを言ってはいられないのです。この言葉が、第一に弟子達に向けられたとするならば、それは私共に向けられた主イエスの言葉でもあるからです。どうして、主イエスは弟子達に向かって、「なんと信仰のない、よこしまな、曲がった時代だ。」と言われたのでしょうか。それは、弟子達にはすでに悪霊を追い出す力と権能、賜物を与えているにもかかわらず、それをちゃんと使うことが出来なかったからでしょう。その原因は、信仰がないからだ、神様に対してまっすぐでないからだと言われたのです。神様に対してまっすぐでない。それは、神様の力を信頼して、これに委ねる以上に、自分の力や能力や見通しに頼るということなのではないでしょうか。弟子達は9章の始めで、主イエスから与えられた力と権能をもって病を癒したのです。彼らには成功体験があったのです。自分たちは出来る。そういう自信もあったに違いない。しかし、そけが問題だったのではないでしょうか。いつの間にか、神様に対して真っ直ぐに、ただ神様を頼り、神様だけを信頼するということを忘れ、自分に力があるかのような錯覚をしてしまったのではないでしょうか。主イエスは、それを非難し、嘆かれたのだと思うのです。
 それでは神様に対して真っ直ぐであるとは、どういうことなのでしょうか。私共は信仰が与えられています。それにもかかわらず、信仰を持っていない人と同じ様に考え、見通し、行動するということがあるのではないでしょうか。信仰を持っているということ、人間の知恵・この世の知恵とはどういう関係にあるのでしょうか。これは大変難しい問題です。ただ、神様を信頼する。それは、人間の知恵を全て捨てるということなのでしょうか。しかし、私共がこの地上に生きている以上、この社会の流れ、動き、人間の知恵、そういうものと無縁ではあり得ないのです。何でもいいからただお祈りさえしていればいい。そういうことではないのだろうと思うのです。
 具体的に考えてみましょう。先週、私共は金沢キリスト教会の田口先生を招いて、伝道研修会を開きました。田口先生はアウトリーチ法という一つの伝道の方法を私共に教えて下さいました。アウトリーチ法というのは、こういうことです。一人の人が教会に初めて来た。その人に、誰一人声をかけない教会と、何人もの人に声をかけられ、その週のうちに5人もの人から、良く来られましたとのハガキが届く教会。あなたは、どちらの教会に行きたいですか。そういう話です。こういう話を聞くと、まるで会社がやっている営業の仕方や顧客管理とどう違うかと思う人がいると思います。その通りなのです。会社の営業や顧客管理と違わないのです。それと同じ知恵なのです。しかし、それを支えている動機、それをやる思いが全く違うのです。一人の人が教会に来た。この出来事をどう見るのかということです。どんな人であっても、この教会の玄関を入った人は、神様が送って下さった方だと私共は信じる。この信仰があるかどうかなのです。この信仰があるならば、この神様が使わされたゲストに対して、私共は最善を尽くして、主イエスの愛と恵みとを伝えなければならないでしょう。そこに知恵が生まれ、工夫が生まれる。その一つが、アウトリーチ法というものなのでしょう。当然、その全ての業の背後には、祈りが積み重ねられていかねばならないことは、言うまでもないことです。私共は、具体的な人間の知恵による「方法」を信じるのではないのです。ただ、神様の御業だけがなることを信じるのです。そして、その為に精一杯の、出来るかぎりの貧しい業を献げたいのです。神様は必ず、私共を用いて下さり、救いの出来事を起こして下さると信じるからです。もし、神様の業を信じると言いながら、大変だから、面倒だからということで、なすべきこと、出来ることをしないのなら、それは「なんと信仰のない、曲がった時代なのか。」という主イエスの言葉を、私共は聞かなければならないのではないかと思うのです。主を信じるのです。だから喜んで、私共の小さな、貧しい業を精一杯献げていきたいのです。自分に与えられている賜物を献げたいのです。
 弟子達には、主イエスの力と権能が与えられていたのです。しかし、それを十分に用いることが出来なかった。だから、主イエスは「なんと不信仰な、よこしまな、曲がった時代か。」との嘆きを口にされたのであります。私共にも、実に多くの豊かな賜物が与えられているのです。しかし、それが十分に神様に向かって献げられているかどうか、点検しなければならないと思います。献げることを拒もうとする心、それもまた曲がった心なのでしょう。神様のことよりも、自分のことを考えているからです。神様に対してまっすぐであること。それが私共にとって何より大切なことなのでしょう。この世の知恵も用いなければなりません。しかし、その知恵に頼るのではないのです。この世の知恵は、自分が得をする為にあります。しかし、私共がその知恵を用いるのは、神様の御業のために自分を献げる為にあるのです。

 第二に、この「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」という言葉は、この悪霊につかれた一人息子の父親を含めた、主イエスのもとに来た多くの群衆にも向けられていると思います。彼らは何を求め、何の為に主イエスのもとに来たのか。自分の痛み、苦しみから助けてもらう為でしょう。しかしそこには、自分を助けてくれるなら何でも良い。別に主イエスでなくても良い。神様というものは、自分に利益をもたらす方、自分にとって良いことをしてくれさえすれば良い。そんな思いが満ちていたのではないでしょうか。まして、そこには自分の罪を悔いる思いも、神様に対して曲がっている心をまっすぐにしたいという願いも、見ることは出来なかったのではないでしょうか。そこにあるのは、どこまでも、自分の願いであり、自分の利益であり、自分の平安を求めるというものだったのではないでしょうか。しかし、私共が神様の御前に集う時、何より大切なのは、「神様に造られた者として、本来の神の子、神の僕としての姿を回復させて欲しい。」そう願い、祈ることであり、「この様々な嘆きと悲惨が満ちているこの世界を、まっすぐな社会にして欲しい。」そう願い、祈ることでしょう。それがない所で、ただ自分に都合の良い神様の業だけを求めるなら、それも又不信仰な、曲がった時代と言われざるを得ないのであります。

 さて、主イエスは続けてこう言われました。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」この言葉は、まるで主イエスが、弟子達や群衆に対して、「あなた方のような、不信仰な、曲がった人達と共にいるのは、耐えられない。いつまで一緒にいなければならないのか。ああ、もうイヤだ。」そう言っているようにも聞こえます。主イエスを自分に引きつけて、自分と同じ所で主イエスを理解しようとすると、こう聞こえてしまうのだろうと思います。そして、「イエス様も大変だったのだな。自分と同じだ。自分も良く、こんな奴らと一緒にやってられない」と思う。それと同じだ、と考えかねないのです。確かに、注解者の中にはそのように読む人もいるのです。しかし、そうではないと私は思います。何故なら、主イエスはこの直後に二度目の受難予告をされているのです。44節に「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」とあります。つまり、主イエスはご自身の十字架への道をはっきりと自覚されており、そのような状況の中でこの言葉を告げておられれるのです。主イエスは、我慢が出来ないほどにイヤな奴のために十字架にお架かりになろうとしていたのでしょうか。そうではないと思います。主イエスはちっとも判らない弟子達に対して、「自分はもうあなた方とこのように一緒にいることは出来ないのだ。それなのに、あなた方は、まだ神様を全く信頼して、神様に向かってまっすぐになっていない。そんなことでどうするのだ。」そう言われたのではないでしょうか。主イエスは、決して我慢出来ない程に嫌な者の為に十字架におかかりになられたのではない。主イエスは弟子達を愛し、弟子達に期待していたのです。その期待を裏切るばかりの弟子達を見て、群衆を見て、嘆いておられるのであります。だからこのような言葉が主イエスの口から出たのです。
 主イエスは今、私共を愛し、そして私共に期待しておられます。確かに、私共は今も主イエスを嘆かせてばかりいるのかもしれません。しかし、私共はこの主イエスの嘆きを知り、主イエスの私共に対しての期待を知っているのです。だから、何としても期待に応えたいと思うのではないでしょうか。主イエスの期待に応えるというのは、何か難しいことをすることではないのです。神様を全く信頼して、神様に対してまっすぐにあるということ、主イエスが私共に与えて下さっている賜物を献げ、主の御業にお仕えするということなのです。今の時代も不信仰で曲がっていることにはかわりありません。しかし、その時代の中にあって、私共は信仰を与えられました。私共は、神様に対してまっすぐであることが期待されているのです。自分の願いや利益よりも、主の救いの御業が現れることを第一に願うことが出来る者とされているし、そうすることを期待されているのです。自分の力を超えた神様の御業を信じることが出来る者として召されている。実にここに、私共の存在意義があるのであります。
 使徒パウロは、このことについてフィリピの信徒への手紙2章12〜16節において記しています。少し長いですが読んでみましょう。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」私共は、自分という存在が、どれ程大きいかということを、本当のところでまだ十分に知らないのかもしれません。この時代の中にあって、キリストを信じる者として立てられているということは、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝いているということなのであります。「星のように輝いて」いるのです。人が何と言おうと、神様の目から見ればそうなのであります。これはまことに驚くべき光栄ではないでしょうか。この恵みの事実を心から感謝したいと思う。

[2006年3月19日]

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