富山鹿島町教会

礼拝説教

「約束された収穫」
詩編 126編1〜6節
ルカによる福音書 10章1〜12節

小堀 康彦牧師

 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」詩編126編5節の御言葉です。私の心に残る聖句の一つです。この聖句には、一つの思い出があります。神学校の夏期伝道で四国の教会に遣わされました時、昨年天に召されました当時神学校の学長であられた松永希久夫先生から、この聖句を記した葉書が届いたのです。もう、20年以上も前のことです。その時以来、私は牧師の務めとは種を蒔くこと、時が良くても悪くても、御言葉の種を蒔くことであると心に刻みました。
 種を蒔く人は、なぜ涙してまでも種を蒔くのでしょうか。それは必ず収穫の時が来る、収穫することが出来ると信じるからでしょう。「蒔かぬ種は生えぬ」とも言います。種を蒔くから収穫がある。収穫の為には種を蒔かねばならない。当たり前のことであります。種蒔く人は、収穫を期待し、それを信じて蒔くのです。もし、収穫を期待し、収穫を信じていないのであれば、それは種を蒔いているのではなく、種を捨てていると言うべきだろうと思います。私共は御言葉の種を蒔くのであって、捨てているのでは、断じてないのであります。

 この詩編126編を少し見てみましょう。1〜2節「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と。」とあります。この詩編は、ユダヤの民がバビロン捕囚から解放される直前、あるいは直後に書かれたものであると考えられています。紀元前587年、ユダ王国は当時の世界帝国バビロニアによって滅ぼされました。そして、政治・経済・文化・産業の主だった人々は皆バビロンに連れて行かれたのです。いわゆるバビロン捕囚です。それから50年、紀元前538年にバビロニア帝国を滅ぼしたペルシャの王クロスによって、バビロンに捕囚されていたユダヤの民は解放されました。この1、2節で言われているのは、その時のことです。50年もたてば、最初にバビロンに連れて行かれた人々の多くは、もう異国の地バビロンで生涯を閉じていたでしょう。バビロンにいたのは、第二世代、あるいは第三世代の人々であったと思います。彼らは祖国に帰ってくることになりました。しかし、それは単純にうれしいとだけ言っていられる状況ではなかったのです。50年の間に祖国は荒れ果てていました。都エルサレムの城壁は崩れ、主を失った神殿は荒れたままでした。これを再建していかねばならなかったのです。そういう時に生まれたのが、5、6節の言葉「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」だったのです。
 種は、大切な食糧です。粉にしてパンを焼くことが出来る。しかし、それを蒔くのです。50年というのは短い時間ではありません。すでに彼らにはバビロンでの生活があったのです。どうもバビロン捕囚という響きからでしょうか、バビロン捕囚にあった人々はバビロンで奴隷のような扱いを受けていたと思っている人が多いのですが、そうではありません。バビロンは自分の国造りに有効な人々を連れて行ったのです。彼らには仕事があったし、それに見合ったそれなりの生活があったのです。ですから、バビロンから戻った人々は、そのバビロンでの生活を捨てて来なければならなかったのであり、イスラエルに戻って生活基盤を立て直し、その上で祖国の再建という大きな事業に取り組まねばならなかったのです。それは、まさに「涙と共に種を蒔く」という業であったのです。しかし、彼らには希望がありました。この種蒔きは、必ず神様によって報いられる。必ず収穫が与えられる。その日を目指して、彼らは祖国の再建という業に励んだのです。

 この種蒔きの業に励むというたとえは、何もこの時の神の民の歩みだけではありません。おおよそ神様を信じ、神様の御業にお仕えしようとする者は、いつの時代でも、どの場所においても、この種蒔きのような業に励む者なのであります。先程、私は牧師の仕事とは種蒔きだと申しました。それは教会も同じことでしょう。御言葉の種を蒔く為に建てられているのが教会です。私は、生涯、種蒔きで終わっても良いと思っているのです。自分が蒔いた種の収穫を、自分でしなくても良いと思っているのです。私の次の人、あるいは次の次の人、いや、もっとずっとずっと後になって収穫があっても、それで良いと思っています。実際、私が収穫の喜びを味わわせていただく時、それは洗礼を施すときでありますが、その収穫は私が蒔いた種ではない場合がほとんどなのです。他の人が何年も何十年も前に蒔いた種が芽を出し、実を結び、たまたま私が刈り入れをしたというに過ぎません。神様の業とはそういうものなのです。だから、私共が種を蒔くのは、自分でそれを収穫することがなかったとしても、それは、少しもムダなことではないのです。ここで大切なこと、求められることは、信仰なのです。私共の蒔いた種は、やがて必ず大きな収穫を生むことになるということを、信じることが出来るかどうかということなのであります。  ここで「種蒔きのたとえ」を思い起こすことも出来るでしょう。蒔いた種が、全て実をつけるとは限らない。道ばたや石地やいばらの地に落ちた種は実をつけることはないからです。しかし、良い地に落ちた種は種を蒔いた人の思いを超えて、芽を出し、成長し、やがて実をつける。私共はそのことを信じて良いのであります。そもそも、私共が種を蒔くとき、道ばた・石地・茨の地と判っていて、わざとそのような場所に種を蒔く人は居ないでしょう。この地は、良い地と信じて種を蒔くのです。その地が良い地なのか石地なのか、そんなことは種を蒔く前から判っているなどということはないのです。だから、私共はいつでも、どこでも、誰に対しても、誠実に丁寧に真剣に種を蒔くのであります。
 私共は種を蒔きます。しかし、種を成長させ、実をつけさせる力は、私共にはないのです。しかし、この私共には実をつけさせる力がないということは、本当に大きな慰めなのです。私共は自分で何でも出来て、最後まで自分でやって、そしてその成果を出して、そういう中で充実感を持つことが出来るかもしれません。しかし、それではどこまでも「小さな私の器」を超えることは出来ません。しかし、種に芽を出させ、実をつけさせることが出来、そうしてくださるのが神様だとしたら、私共は自分の小さな能力を超えた、大きなそして確かな収穫を期待し、信じることが出来るのではないでしょうか。ここに私共の慰めがあるのだと思います。

 さて、主イエスの言葉に聞いてみましょう。10章1節に「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」とあります。私共は、主イエスに特別に選ばれた使徒が12人であったことを知っています。9章1節以下に記されていた記事です。ところがここで、十二使徒とは別に72人を主イエスは改めて任命しています。実は、この72人を選んだという記事は、このルカにしかないのです。マタイ・マルコ・ヨハネは記していません。ですから、ここにはルカ独特の視点があるのだろうと思います。この72人とはずいぶん多いのではないかと感じる人もいるでしょう。この72という数字は、全世界を表していると考えられています。写本から分析すれば、この72という数字は70であるかもしれないのです。有力な写本は、70人と72人と両方あるからです。しかし、意味は変わりません。70だとすれば、完全数でしょう。つまり、全ての人々に向かって遣わされる為に十分な、完全な人々が選ばれたということになります。72とすれば、当時考えられていた世界の民族の数ということになります。いずれにせよ、主イエスは全世界に向かって福音を伝える為に必要な、そして十分な弟子達をここで選び、遣わされたということなのです。
 そして、彼らは二人ずつ組になって遣わされました。実は、この主イエスの教えは初代教会においても受け継がれて、使徒言行録にはその記録が記されています。つまり、「バルナバとサウロ」「ユダとシラス」「バルナバとマルコ」「パウロとシラス」「テモテとシラス」「テモテとエラスト」という二人一組になって伝道者達は遣わされたのです。どうして二人一組にして、主イエスは遣わされたのでしょうか。いろいろなことが考えられます。一つは当時の旅は徒歩で行く訳で、ケガ・病気になった時には一人ではどうしようもなかったということがあるでしょう。あるいは、治安も決して良いとは言えないわけで、追いはぎ・盗賊の類も多かった。だから、一人より二人の方が安全であるという実際上のことがあったと思います。しかし、もっと大切なことは、この二人一組ということには、この弟子達が告げていく内容と関係があったと思います。彼らが告げていくのは神の福音、神の愛であります。愛は交わりの中にあります。神の愛を伝える者は、その愛に生きている、生かされている、その証しがどうしても不可欠のことだったということではないかと思うのです。これは難しいことではなくて、トヨタの車のセールスマンが、ホンダの車に乗っていたのでは話にならないということと同じだと思います。主イエスに遣わされた二人の弟子達は、その交わりの中に、伝える神の愛の真実を証ししていなければならないということなのです。

 さて、主イエスは二人ずつ組にして弟子達を遣わされるに際して、いくつかのことを語られましたが、今日は、その初めの言葉に注目したいと思います。2節「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われました。ここでまず注目すべきは、「収穫は多い」という主イエスの言葉です。これは、主イエスの約束と言って良いでしょう。収穫は多いのです。この主の約束があるから、私共は安心して種蒔きに精を出すことが出来るのだと思うのです。私共に求められているのは、まずこの主イエスの約束を信じるということでしょう。
 次に、主イエスは「働き手が少ない」と言われました。収穫は多いのだけれど、それを収穫する為の人手が少ない、人手が足りないと言われたのです。これは、いつの時代でも同じだと思います。収穫には人手がいるのです。種を蒔くことを考えたら、その何倍も、何十倍もの人手が必要なのです。ここで、皆さんはどのような情景をイメージするでしょうか。私は、主イエスが収穫は多いと言われたのは、見渡す限り色づいた稲穂が頭を垂れている、そういうイメージではなかったかと思うのです。少しの田んぼに、ちょこっとの稲穂があるのではないのです。これなら、数人であっても時間をかけて刈り入れれば何とかなります。しかし、見渡す限りの収穫ならどうでしょう。その見渡す限りの田んぼを前に、鎌を持った数人が収穫しようと立っている。これでは何日してもラチが明かない。だから、主イエスは「収穫は多い、しかし、働き人が少ない。」と言われたのでしょう。こう言っても良いかもしれません。収穫は多い。しかし、人手が少ないから、その人手の分しか収穫することが出来ない。だったらどうするのか。主イエスは言われます。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」主に願いなさい。それは、祈りなさいということでしょう。どうでしょうか、私共は、いつも収穫を祈っているのではないでしょうか。キリストを信じる人が増えますように、洗礼者が与えられるように、そう祈っているのではないでしょうか。しかし、主イエスは、そうではなくて、働き人を送って下さるように祈りなさいと言われたのです。私共は、心を一つにして、この「働き人を送って下さい」と祈りを合わせたいと思うのです。働き人さえ与えられれば、収穫は多いのですから、その分だけ刈り入れることが出来るのです。しかしここで、「働き人を送って下さい」と祈りなさいと言われているのであって、「あなたが働き人になりなさい」と言われているのではないのです。「あなたは、もっと頑張って働かなければいけません。」そう言われているのではないのです。良いですか。私達が頑張って何とかしましょうという世界ではないのです。大切なのは、いつも神様の業なのです。神様が事を起こし、神様が実りを与え、神様が収穫を与えて下さるのです。私共のするのは、種を蒔くことと、刈り取ることだけなのです。そして、それも、自分達で頑張ってではなくて、働き人をも神様が送って下さると言われているのです。私共は、いつも自分の持っている力に頼ろうとします。そして、それで出来る範囲のことをしようとします。もちろん、私共は、自分で出来ないことまで背伸びをしてすることはないのです。しかし良いですか。神様の福音を伝え、神の愛を伝えるという神様の御業にお仕えするということは、どこまでも神様に主導権があるのであって、私共の能力や計画の中に、神様を押し込めるようなことがあってはならないのです。これが、神の自由に生きるということです。自分の力や能力という限界をも超えさせていただいて、神様の与える自由の中で、種を蒔き、働き人を与えて下さるように願い、祈り求めるのです。神様はここで、私共を本当の自由へと招いて下さっているのです。
 今の時代は、そこでも、ここでも、成果主義です。成果が上がらなければ、すぐに能力がないと言われます。ですから失敗も出来ません。そのような考え方が、いつの間にか教会の中にさえ入ってくるということがあるのだろうと思います。しかし、主イエスが収穫は多いと約束して下さっているのですから、私共の種蒔きに失敗はないのです。何という慰めでしょう。たとえ、私共の目の黒い内にその収穫を見ることがないとしても、必ず主の御手の中で収穫の時が来るのです。だから、安心して種を蒔けば良いのです。そして、収穫の為には、働き人を送って下さるようにと、主に祈れば良いのです。人手がない。大変だ。手が回らない。だったら、働き人を与えられるように祈れば良いのです。必ず、働き人は与えられます。そして、収穫の働き人に見合った収穫が備えられるのです。
 私共の種蒔きは、神の国を、神の愛を伝えることです。それには、言葉も必要ですが、神の国の恵みの中に生きている、神の愛の中に生かされているという事実が、もっと大切なのです。そこには、キリストの香りとも言うべきものが放たれていくからです。そのキリストの香りこそが、人々をキリストへと招いていくのでありましょう。
 この一週間、それぞれ遣われた場において、福音の種を蒔き、神の国の証し人として生かされ、収穫の働き人を祈り求めつつ、歩ませていただきたいと、心から願うのであります。

[2006年5月14日]

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