富山鹿島町教会

礼拝説教

「裁きは恵みの中に」
創世記 29章1〜30節
ガラテヤの信徒への手紙 6章1〜10節

小堀 康彦牧師

 アドベント第一の主の日を迎えております。クリスマスの飾りもなされ、アドベント・クランツのロウソクにも一本目に火がともされました。クリスマスの前、4回の主の日を含む日々をアドベントとして守る。それは、主イエスの御降誕に至るまでの神様の救いの歴史を思い起こすということであります。主イエスは、何の前置きも無く、突然来られたのではなく、その時に至るまでの長い歴史があるのです。それは、言い換えるなら、旧約の歴史は主イエス・キリストの御降誕という目的を持ったものであったということであります。このことはとても大切なことです。旧約の歴史というものは、単にイスラエル民族の歴史、民族史ということではないのです。神様の救いの歴史、救済史と呼ぶべきものなのです。そして、この神様による救済史というものがあるということを知った私共は、自分の人生も又、神様の救いの歴史として受け取ることが出来る、受け取り直すことが出来るということなのであります。
 私共の人生には、様々な出来事が起きます。そしてそれは、単なる偶然の連続に過ぎないようにも見えます。しかし、主イエス・キリストを知った今、私共はその全てがこのキリストを知る、キリストと共に生きる、そのことに向かって歩んできたものであることを知るのです。そして、更に、キリストを知った後の人生は、私共が神の国に入る為の日々、神の国に向かっての日々であることを知るのであります。私共の人生における様々な出来事は、その時には何のことだか判らない、ただつらいだけだったり、ただ早く終わればいい、過ぎてしまえばいい、そういうこともある。しかし、後になって、キリストを知った、キリストと共に生きるようになった、そこから見る時、それは必要な時であり、あのことがなければならなかった、そう受け取り直すことが出来るのではないでしょうか。そして、そのように自分の人生を受け取り直した時、そこにあるのは、あの時苦しかった、つらかった、あるいは楽しかったという思い出以上のものです。全ては神様の御手の中にあった。そして、それは慈しみとまことに満ちたものであったということなのではないでしょうか。私共の人生の全てが焼き尽くされても残るものがあるのです。それは私共の人生の結晶のようなもので、それが「神の慈しみとまこと」なのではないかと思うのであります。このアドベントの日々、私共が改めて受け取り直すのは、神の民の歴史であり、自分の人生の歴史であります。それを、神の慈しみとまことに満ちたものとして、受け取り直すということなのです。

 ヤコブは、兄エサウから逃げる為に故郷を後にしました。杖一本以外何も持たず旅に出たのです。旅の始めに彼は夢を見ました。天に達する階段を上り下りする神の御使い達です。そして彼は神様の約束の言葉を受けました。「この土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなる。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、あなたを守り、必ず連れ帰る。あなたを決して見捨てない。」彼は、この神様の約束に押し出されるようにして、母リベカの兄ラバンの所まで、長い旅を続けました。やがて、ヤコブは伯父さんのラバンが住む土地に着きました。
 ヤコブは羊の群れに水を飲ませる井戸の傍らにいます。水を飲む前の羊の群れが三つ伏しています。ヤコブはその羊飼いに尋ねました。「皆さんはどちらの方ですか。」羊飼いは答えます。「ハランの者です。」ヤコブは尋ねます。「ナホルの息子のラバンを知っていますか。」羊飼いは答えます。「ええ、知っています。」ヤコブはやっと着いたのです。故郷を離れて800km。何も持たずに出た旅です。やっと着いた。ヤコブはどんなにほっとしたことでしょう。これで助かった。そんな思いだったのではないでしょうか。そこにラバンの娘ラケルが羊に水を飲ませにやって来ました。ヤコブは井戸の口にフタをしてあった石を転がし、羊に水を飲ませました。そして、11節「ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。」この時のヤコブの気持ちが良く表れています。ラケルにしてみれば驚いたことでしょう。見も知らずの人が、自分に口づけして泣いたのですから。しかし、この時ヤコブは、不安と恐れの旅が終わったと思って、嬉しくて、安心して、こうせざる得なかったのでしょう。ヤコブはラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを話しました。ラケルは父ラバンの所にヤコブのことを知らせに走りました。ラバンはヤコブのことを聞くと大喜びで走って迎えに行き、抱き締めました。多分、ラバンがヤコブを見たのはこの時が初めてだったのではないかと思います。ラバンの妹のリベカは、突然やって来たイサクの父であるアブラハムの僕によって、イサクの嫁に欲しいと言われて、そのままイサクの嫁になるためにラバン達の所から出て行きました。それは、もう60年も前のことだったのです。ラバンにしてみれば、800kmも離れた遠い土地に嫁に出した妹のリベカの子に会えるとは、思ってもいなかったでしょう。ラバンは本当に喜びました。ヤコブは、自分がどうして、こんな遠くまで来なければいけなかったのか、理由を話しました。兄エサウとの間のトラブルも話したことでしょう。母のリベカに兄のラバンの所に行くように言われたことも話したと思います。ヤコブは旅の途中でちょっとラバンの所に立ち寄ったという訳ではなかったからです。ラバンはヤコブを受け入れ、ヤコブはラバンの所に居ることになったのです。
 そうして、一ヶ月が過ぎました。ラバンはヤコブに言います。15節「お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」ヤコブはラバンの所に身を寄せたといっても、毎日何もしないでいる訳にはいきません。当然のこととして、羊飼いの仕事を手伝ったに違いありません。そうして、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎたのです。ラバンがこう切り出したのは当然です。ただ働きでは奴隷になります。身内の者にそれは出来ません。かと言って、報酬を決めれば使用人となります。ラバンにしてみれば、それも言い出しにくかったと思います。それで、ヤコブ自身にどうして欲しいのかと聞いたのです。ヤコブは二人いるラバンの娘のうち、妹のラケルと結婚することを条件に、7年間ラバンのもとで働くことを申し出ました。これは当時結婚する為には花嫁料、結納金を支払わねばなりませんでしたが、ヤコブにはお金がありませんでしたので、その分労働で支払うというものです。服務結婚という言い方もされます。当時、一般的になされていたものだと考えられています。しかし、7年というのは、かなり高価といいますか、破格の申し出だったと思います。通常は、もっと短い期間です。ラバンへの感謝の思いと、ラケルへの思いが、このような破格の申し出となったのでしょう。ラバンは勿論賛成します。こうして、ヤコブはラバンのもとで7年間働いたのです。20節「ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。」とあります。この時のヤコブの思いが現れている表現です。愛するラケルと結婚する為だ。ヤコブは楽しく働いたに違いありません。そして、ついに7年が過ぎました。やっとラケルと結婚する時を迎えたのです。ヤコブはどれ程この日を待ったことでしょう。婚宴の夜、二人は初めて夜を共にしました。ところが、朝になるとその女性は妹のラケルではなく、姉のレアだったのです。この日の朝のヤコブの驚き、怒り、混乱はどれ程であったろうかと思います。一体何が起きたのか、ヤコブは何が何だか判らない、そんな思いではなかったかと思います。当然、ヤコブはラバンの所に行き、どうしてこんなことをしたのかと訴えます。ところが、当のラバンは平気な顔をして、こう言うのです。26、27節「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」
 何ということか。ヤコブはだまされたのです。7年間、ヤコブをただ働きさせ、今になってヤコブを手放すことが惜しくなったのです。ヤコブとエサウの関係においては、ヤコブはエサウをだます側でした。しかし、ここではヤコブはだまされる側になったのです。ヤコブは妹のラケルと結婚する為に、更に7年、計14年もの間、ラバンのもとで働かねばなりませんでした。そして、それから更に6年、ヤコブはラバンのもとで、この時は報酬を得る形で働くことになったのです。計20年です。  私はこの話を読んで、長い間、ラバンは何て悪い人だと思っていました。確かに、ラバンはヤコブをだましたのです。悪い人に決まっています。しかし、自分が二人の娘の父であったらどうか。妹は美しく、容姿もいい。姉の方はパッとしない。妹のラケルの為には7年間もただ働きをしてもいいという男が現れた。姉のレアには、そんな男が現れそうもない。姉のレアは、男から見れば魅力はないかもしれないが、そんなに捨てたもんでもなかろうに。父ラバンとしてみれば、姉のレアが不憫で仕方がなかったのではないかと思うのです。細かいことですが、ラバンは、ヤコブが14年間働いた後でなければラケルと結婚させなかった訳ではないのです。28節「ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。」とあります。妹のラケルとの結婚もさせたのです。しかし、姉のレアも一緒に、そしてヤコブをもう7年間働かせたということなのです。

 この二人の姉妹を一緒に妻にしたヤコブの家庭は大変なことになりました。ヤコブの思いはラケルにあります。それが判っているのですから、レアとしては本当につらかったと思います。レアは子供を産んで、夫の思いを自分の方に向けさせるしかなかったのです。レアは、ルベン・シメオン・レビ・ユダと、4人の男の子を次々に産みます。ところが、ラケルには子供が与えられません。ラケルは、自分の女の召使いによって子供を得ようとします。そして、ダンとナフタリという二人の子を得ました。こうなると、姉のレアの方も女の召使いでヤコブの子を得ようとします。そしてガドとアシェルという二人を得ます。更にレアは、イサカル、ゼブルンを産みます。これで10人です。そして、最後にやっとラケルにも子が与えられました。それがヨセフです。そして、更にもう一人、ベニヤミンが与えられたのです。全部で12人です。
 レアとラケル、更にそれぞれの女の召使いまで巻き込んだ出産争い。ヤコブの家は、決して平穏な家庭という訳にはいかなかったと思います。ヤコブにしてみれば、ラバンが自分をだまさなければ、ラケルと二人で幸せな家庭を築き、こんな目に遭わなかったという思いもあったかもしれません。しかし、それを言うなら、そもそもヤコブがエサウをだまさなかったのなら、故郷を800kmも離れたこんな所にまで来ることもなかったのです。

 しかし、今朝、私共はこの出来事を新しく受け取り直さなければいけません。確かに、ヤコブがエサウをだまさなければ、ヤコブの苦しい旅も、それからの20年間のラバンのもとでの日々もありませんでした。そして、ラバンがヤコブをだまさなければ、ヤコブはラケルともっと平和な日々を過ごすことが出来たでしょう。しかし、その結果与えられたのがヤコブの12人の息子達なのです。言うまでもなく、この12人はイスラエルの12部族となっていくのです。神様の「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなる。」という約束の一歩がここに始まったのです。この12人がいなければ、イスラエルの12部族はなく、ダビデもおらず、主イエスの誕生へもつながっていかないのです。
 ヤコブがエサウをだましたことは悪いことです。ヤコブはラバンにだまされるということによって、その報いを受けたのではないでしょうか。ヤコブにしてみれば、それは神様の裁きを受けたと言っても良いような日々であったかもしれません。しかし、それはヤコブが「エサウをだました」ということに対して、本当に悔い改めるのに必要な時でもあったのではないでしょうか。人は、自分が同じ目に遭わなければ判らないという鈍さを持っているものですから。そして何よりも、そのつらい、しんどい日々の出来事をも用いて、ヤコブがエサウをだまし、ラバンがヤコブをだますという「悪」を用いて、神様は約束を成就され、救いの歴史を前進させられたのです。神様の裁きは、神様の慈しみとまことの表れなのだと思う。これは、主イエス・キリストと結ばれることによって明らかにされる神様の秘義なのです。イエス・キリストの救いへと繋がることによって「新しい意味」を与えられることなのです。ヤコブは神の民の始めの一人として数えられる者となりました。これこそ、ヤコブの栄光です。私共もそうなのです。愚かな過ちがあり、しんどい日々があり、悲しみがあり、嘆きがある。しかし、私共も神の民の一人に加えられている。私共の人生が、神様の救いの御業の前進に用いられている。これこそが、私共の人生の栄光なのです。
 私共は、今から聖餐に与ります。この聖餐において、私共の命がキリストの命に結ばれていることを知るのです。そして、この聖餐において、私共は何者であり、どこに向かって生きている者であるかを知るのです。私共の人生の苦しみや嘆きの意味は、多くの場合、私共には隠されています。しかし、この聖餐は、それが明らかにされる日が来ることを教えます。私共の人生には、神様の目的があり、意味があり、私共の人生の全ては、私共の思いを超えた神様の御手の中にあるのです。旧約の歴史が、クリスマスへと集中していくように、私共の人生の全てが、終末において明らかになる神様の救いの御業の成就に向かって、位置を与えられているのです。このことを、心から感謝したいと思うのです。

[2006年12月3日]

メッセージ へもどる。