富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたの名はイスラエル」
創世記 32章2〜33節
ガラテヤの信徒への手紙 3章26〜29節

小堀 康彦牧師

 聖書は告げます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」私共は信仰によってキリストに結ばれ、洗礼を受けてキリストを着たのです。キリストのものとされているのです。最早、私共は神を知らず、それ故に神に従うこともない、神に敵対する者ではありません。神の子とされた、神の民の一員であり、アブラハムの子孫、新しいイスラエルなのです。アドベント第二の主の日、私共が心に刻むことはこのことです。私共は神の民であり、新しいイスラエルであり、アブラハムの子孫であり、神の祝福を受け継ぐ者であるということです。私共は皆、単独者として神様の御前に立っているのではありません。アブラハム以来の、神の民という雲のような証人達の群れの中に居るのです。この群れは、目に見える広がり、世界中にあるキリストの教会という広がりだけではありません。すでに天に召されたアブラハム以来の神の民に繋がる人々、そして私共の後に続く、まだ見ぬ兄弟姉妹を含めた、壮大な、おびただしい数の人々によって成り立っています。

 私共は今朝、神様によって初めてイスラエルという名を与えられた人、ヤコブに目を向けたいと思います。ヤコブが神様によってイスラエルと名のるようにと告げられたのは、ヤコブが神様と格闘をして、「祝福してくださるまでは離しません。」と言い、何としても神様の祝福を受け取ろうとした時でありました。実に、イスラエルとは、この神の祝福を受ける為に、「神と格闘する者」なのです。私共は、神の子とされています。神の民イスラエルの一員とされています。だったら、神の祝福を受けることになっているのではないか。何もそれを得る為に、神様と格闘することはないではないか。そんな必要はないだろう。果報は寝て待てと言うではないか。そう考える人がいるとするならば、残念ながらその人は聖書の信仰、神の民イスラエルの保持してきた信仰を正しく受け取っているとは言えません。聖書の神は生ける神です。この神様を信じ、この神の民とされた者は、この生ける神様との交わりに生きるのです。聖書の神様は機械仕掛けの神ではありません。神様を信じると言ったなら、自動的に祝福を次々と与えるという祝福製造マシンではないのです。もしそうであるならば、私共は御国を求めることも必要ありませんし、御心が天になるごとく地にもなるようにと祈る必要もないでしょう。祈らず、求めずとも「そうなることになっている」ということで済んでしまうでしょう。そうであるなら、祈りも必要ありませんし、そもそも信仰さえいらないということになるのではないでしょうか。しかし、「そういうことになっている。」そんなことで落ち着くわけにはいかないのが、私共の信仰の現実なのではないでしょうか。

 ヤコブが神様と格闘した場面を見てみましょう。彼は故郷を離れ20年間、母リベカの兄ラバンのもとにおりました。彼が故郷を離れなければならなかったのは、兄エサウをだまして、父イサクの祝福を受け継いでしまったからです。それから、20年が過ぎました。ヤコブは再び故郷に戻ることにしたのです。そこでの心配は、兄エサウの自分への怒りが解けているかどうかということでした。ヤコブは兄エサウのもとに使いの者を出しました。この使いの者の報告を聞いて、ヤコブは非常に恐れました。使いの者の報告は、「お兄様も、あなたを迎える為に400人のお供を連れて、こちらに来る途中です。」というものでした。400人の供の者という数にヤコブはおびえました。ヤコブはこの報告を聞いて、兄エサウは自分を攻めに来るのだ、復讐しに来るのだ、そう思ったのです。そう思ったヤコブが取った行動は二つです。一つは、自分の財産を二つに分けるというものでした。理由は、二つに分ければ、一つの組が攻撃を受けている間に、もう一つの組を逃がして助けることが出来ると考えたからです。いかにもヤコブらしい考えです。しかし、ヤコブがしたのはそれだけではありませんでした。ヤコブは祈ったのです。10〜14節にその時の祈りが記されています。
 この祈りには、いくつかの特徴がありますが、その内の二つを見てみます。
 第一に、この祈りには正直なヤコブの思いが表れています。ヤコブは、自分が兄エサウに殺されてしまうかもしれないと恐れている自分の思いを少しも隠しません。ヤコブは、自分はアブラハム・イサクの祝福を受け継いでいるから大丈夫、何の心配もない。そんな態度は取らないのです。どんなに危険な状態にあっても、乱されることのない心の平安。そのような心の平安こそ、信仰による悟りであると考えるならば、神の民イスラエルの信仰は、そのような悟りとは無縁です。このような時、「神様、助けて下さい。」そう祈るのが聖書の信仰なのです。平静を装うことなく、神様に祈り、願い、訴えるのです。ここに、神様との格闘が始まるのです。
 第二に、ヤコブのこの祈りの根拠は、神様がヤコブに与えた約束の言葉であるということです。ヤコブは言います。10節「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。」 13節「あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」これはヤコブが20年前故郷を離れる時に、ベテルにおいて神様がヤコブに与えられた約束です。ヤコブは、神様、あなたがこのように私に約束してくれたではありませんか、ですから、今、私を助けて下さい、そう祈るのです。ヤコブの祈りは、神様との約束、神様との契約、これに基づいてなされているのです。私共の祈りもそうなのです。主イエス・キリストを通して与えられた約束、これによって祈っているのです。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。(ヨハネによる福音書16章23節)」「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(ルカによる福音書11章9節)」「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコによる福音書11章24節)」挙げれば、きりがありません。
 私共は、この主イエス・キリストによって与えられた約束を根拠に祈っているのです。このことを忘れてはなりません。この神の約束を信じて祈る、この約束を信じるが故に、祈らないではおられないのであります。この神様の約束に根拠を持たない祈りは、まことに気まぐれになります。祈ってもどうなるか判らないけれども、一応祈っておこう。そんな祈りになりかねません。そのような祈りは、神の民イスラエルの祈りではないのです。自分の祈りに何の根拠も持たず、ただ自分の願いを口にしているだけです。そのような祈りでは、神様との格闘にはなりません。しかし、この神様の約束の言葉に基づく祈り、これを信じ、それ故に祈る祈りは、「神様、あなたは約束をしたではないか。あなたは、嘘をつくのか。あなたの正義はどこにあるのか。」そのような、神様との激しい、厳しいやり取りにならざるを得ないのであります。これは、まさに神様との格闘とでも言うべきものなのです。それは、この祈りに、祈る者の全てがかかっているからです。この時、ヤコブは自分の命、自分の家族の命、自分の全財産がかかっていたのです。この祈りは聞かれても、聞かれなくてもいい、そんなことではなかったのです。この祈りが聞かれなければ、もうダメだ。そういう所で、ヤコブは神様に向き合っているのです。
 ヤコブは神様を信頼していないというわけではないのです。11節を見ますと、「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。」とあります。ヤコブは、自分の20年を振り返って、神様の慈しみとまことに満ちたものであったことを本当に知っているのです。自分がそのような神様の慈しみとまことを受けるにふさわしい者ではないことも知っているのです。しかし、ヤコブはここで、更に主の祝福を、神の助けと守りを願い求めるのです。この祈りは、自分の持ち物も妻も子供も、みんなヤボクの渡しを渡らせてしまってから、一人となった夜にも続けられました。神様との格闘としての祈りです。

 ここで、ヤコブと格闘された神様は、「祝福してくださるまでは離しません。」というヤコブのしつこさに、ついに負けてヤコブを祝福されたのです。そして、ヤコブにイスラエルの名を与えられたのです。イスラエル、それは生ける神様と格闘するような、神様との生き生きとした交わりの中に生きる民なのです。
 しかし、神様がヤコブに負けるというのは何か変ではないでしょうか。天地を造られた神様が、どうしてヤコブに負けるのでしょう。ここで私は、一つの主イエスの物語を思い起こします。マルコによる福音書7章24〜30節にある話です。あるギリシャ人の女が、自分の幼い娘が汚れた霊に取りつかれ、主イエスのもとにその悪霊を追い出してくれるように頼んだ時のことです。主イエスは、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と言われました。つまり、神の子供であるイスラエルの為に神様の恵みを与える今の時に、小犬であるギリシャ人に神様の恵みを分け与えることは出来ないと言われたのです。この時の主イエスのお答えは、神様の救いの時、秩序、順番ということを告げたのだと思います。つまり、まだ異邦人が救いに与る時は来ていない。そう言われたのだと思います。ところが、この女性は黙っていませんでした。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」この女性は、「私は異邦人です。神の民ではありません。今、神様の救いに与ることは出来ないのかもしれません。しかし、異邦人であっても、神様の救いと無縁なわけではないでしょう。私は娘のために、簡単に引き下がるわけには行かないのです。何としてもイエス様、この娘を助けてください。」そう、食い下がったと言うことなのでしょう。この言葉の中には、ヤコブの「祝福してくださらなければ、あなたを離しません。」という思いと同じものが表れています。主イエスは、この女性の願いを聞き入れたのです。主イエスにおいて現れた私共の神様は、このようなヤコブの信仰のあり方、イスラエルの信仰のあり方を喜ぶ方なのです。そして、喜んで負けて下さる方なのです。
 そしてまた、何よりも主イエス・キリストご自身が、ゲツセマネの園において、十字架の上において、神様と格闘して下さったのであります。全ての罪人の罪を赦して下さるようにと、主イエス・キリストご自身が命がけで神様と格闘して下さり、神様は主イエスの祈りを聞き入れて下さったのであります。神の独り子主イエス・キリストと父なる神様との間にあるこの激しい生ける交わり。この交わりの中に共に生きるようにと招かれたのが私共、神の民、新しきイスラエルなのであります。

 ヤコブは神様との夜通しの格闘の末、神様からの祝福を受けました。32節に「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」とあります。夜が過ぎ、ヤコブの上に太陽が昇ったのです。朝日がヤコブを照らします。神の民イスラエルは、夜を過ごさねばならない時があります。不安と恐れと苦しみの時を過ごさなければならない時があります。しかし、その時こそ、私共は神様と本当に四つに組んで格闘しなければならない時なのでしょう。そして、神様の約束の言葉を信じ、自らの苦しみを正直に申し上げ、「あなたが祝福して下さるまで、あなたを離しません。」と神様ご自身と取り組む者には、必ず朝が来る。神様の祝福を受けた者として、朝日に輝くのです。主イエス・キリストがクリスマスにお生まれになったように、神様のあわれみの時は満ち、朝が来るのです。私共は神の光を受け輝くのです。ヤコブは腿を痛めて足を引きずりました。しかし、その痛めた足は神様との生ける交わりの証しでありました。私共も様々な傷を持っている。しかし、それは神様との深い交わりを示すものなのす。お腹の手術の跡をなぞれば、あの手術の前の日の夜の祈りを思い起こす。そして、主の守りを再び覚えるのでしょう。体の傷だけではありません。私共の人生に刻まれた様々な傷。それは、キリストの光に照らし出された時、神様との生ける交わりの確かな「しるし」以外の何物でもないのです。私共はイスラエル、神の民、神様との生ける交わりに生きる者なのですから。

[2006年12月10日]

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