富山鹿島町教会

礼拝説教

「頼るべき方は誰か」
エレミヤ書 17章9〜18節
ルカによる福音書 12章13〜21節

小堀 康彦牧師

 主イエスのまわりには、多くの群衆が集まっておりました。主イエスは彼らに向かって語ります。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。本当に恐るべき方は、地獄に投げ込む権威を持っている方。あなたがたの髪の毛一本まで数え、あなたがたの全てを知り尽くし、全てをその御手の中に置かれている方。」「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」主イエスは、私共がまことの命に生きる為の道、死を超えた命について群衆に向かって語られたのです。ところが、その話が一段落すると、群衆の中の一人が主イエスに向かってこう言ったのです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」皆さんはどう思われるでしょうか。今イエス様から、死を超えたまことの命に至る道を聞いたばかりです。その場にいた群衆の多くも、「今はそういう話をしている所ではないだろう。」そう思ったのではないかと思うのです。今は、そんな話ではなくて、もっと大切な話を主イエスから聞かなければならない時ではないか。そう思ったと思うのです。しかし、この人にとって、遺産を分けてもらえるかどうか、この問題がいつも頭から離れない、いつも心を占領していることだったのでしょう。だから、何を聞いても、いつもその問題に心が行ってしまう。たとえ主イエスの話を聞いていても、心はそこに行ってしまう。そういうことだったのではないかと思うのです。こういうことは、私共にもよく判るのではないでしょうか。具体的に困難な問題にぶつかりますと、私共もいつもそのことが頭から離れない。何をしていても、ふと気が付くとそのことを考えてしまっている。そういうことがあるのであります。
 当時の遺産の分け方というのは、長男にほとんどいってしまいます。そして長男が、他の兄弟たちに分けるというようなことであったようです。この人は長男ではなかったのでしょう。そして、長男は自分に遺産を分けようとしてくれない。自分にも遺産をもらう権利はあるはずだと、この人は思っていたのでしょう。当時の教師、ラビと呼ばれる律法学者達は、日常のあらゆる問題について相談を受け、律法をもとにこうしなさい、こうすることが律法にかなっていると指示する、それが一般になされていることだったのです。この相談の内容というのは、離婚の問題から、隣の家との土地の境界線をめぐる問題、子供の教育の相談、そしてこの人のように遺産相続をめぐる問題、日常のありとあらゆる問題が持ち込まれてきました。ですから、この人にしてみれば、他の教師たちがしているように、主イエスもこの自分の相続をめぐる問題を、きっと神様の名によって裁定してくれるに違いない、そうしてくれるのが当然のことだと思っていたのでしょう。

 ところが、主イエスの応えはこの人が期待していたものと全く違ったものでした。14節「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」主イエスはそのように応えたのです。そんな問題は私は知らん。そんな言い方であります。このような主イエスの姿に出会いますと、私共はいささか動揺いたします。もっと優しく言ってくれても良いではないか。イエス様は冷たいのではないか。そんな風に感じるのです。確かに、この時の主イエスの言い方は少しも優しくありません。主イエスは愛の人です。まことの愛を知る為には、主イエスを見るしかありません。それは本当のことです。しかし、愛というのは、何でもかんでも受け入れ、いつでも誰にでも優しくしているということとは違うのでありましょう。
 主イエスがここでこの人を突き放すように語られている理由は、この人がこの遺産相続の問題にいつも心を奪われているような今の状態ではダメだ、その心の向きを遺産相続の問題から神様の方に向けなければならない、そうしなければこの人の救いはない、そうお考えになったからだろうと思うのであります。そして主イエスは更にこう告げられました。15節「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」まるで、この遺産相続のことを話した人は貪欲な人だと人々の前で告げたようなもので、これを言われた人は面白くなかったと思います。たとえそう思われようと、主イエスは遺産相続の問題に心を奪われているこの人の根本には、貪欲の罪があると指摘されたのであります。貪欲の罪。それは「もっと欲しい」と思う心であります。これにはキリがありません。私共は信仰において「足ることを知る」ということを学びませんと、いつもこの貪欲という罪に支配されてしまうのであります。この罪から無縁で生きられる人はいません。多分、この人は主イエスがこのように言われたということは、この人にとってこの遺産相続の問題は、これがなければ食べていけないというようなせっぱ詰まった問題ではなかったのではないでしょうか。別に、今生活するのに困っている訳ではない。しかし、遺産が入ってくれば、もっといい。みすみす、自分のものと出来るはずのものを手放すことは出来ない。そんな心の動きだったのではないでしょうか。だから主イエスは、貪欲に注意せよ、用心せよ、と言われたのだと思います。
 私はあまり、あれが欲しいとか、これが欲しいとか思わない方だと思います。着るものにしても、妻が見るに見かねて新しい物を買いなさいと言って、一緒に買い物に行かない限り何年でも同じ物を着ています。しかし、前任地の舞鶴におりました時、少し釣りを覚えました。最初は、竿もリールも安物で良かったのですが、やり始めますと、この釣りにはやっぱりこの竿がいい、このポイントで釣るにはもっとこんな竿の方がいい。どんどん増えてしまうのです。結局いつも使う竿は決まっていてそればかり使うのですが、新しい竿が出たとなると、買いたくなってしまう。これはもう貪欲の罪に支配されてしまっていたと思うしかありません。人は、そんなものを一つや二つは持っているものなのでしょう。多くの牧師にとって、本も又、貪欲になってしまうものの一つなのかもしれません。別に、それによって生活に支障をきたすということがないのなら、何も目くじらを立てるほどのことではないと思いますけれど、それによって心が支配され、心を神様に向けられない程になりますと、それは問題であります。

 主イエスはここで、一つのたとえ話をされました。16節以下にある話です。ある金持ちの畑が豊作だった。あまりに豊作で、それをしまっておく場所もない程でした。そこで、この金持ちは、倉を新しく、大きくいたします。そして、その新しい大きな倉に豊作だった穀物を入れ、財産を入れ、そして安心するのです。これで、もう何年先までも生きていける、もう大丈夫。食べて、飲んで、楽しもう。そう、自分に言うのです。小見出しにもありますように、このたとえ話は、昔から「愚かな金持ちのたとえ」と言われてきました。しかし、一体この金持ちのどこが「愚か」だというのでしょうか。この金持ちがしていることは、私共が普通に考え、普通にしていることではないでしょうか。たくさんの収穫があったら、倉に入れて将来に備えるのは当たり前のことでしょう。来年も豊作とは限らない。凶作かもしれない。だから、豊作の年に蓄えをする。当たり前のことです。これの一体どこが「愚か」と言われなければならないことなのでしょうか。このたとえの最後で、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と言われました。「お前が用意した物は、いったいだれのものか。」と神様は言われる。金持ちは、当然、自分のものだと思っていたものです。実は、このたとえ話において、この翻訳においては表れていないのですが、原文においては、「私の」という言葉が頻繁に出て来ているのです。「私の作物」「私の倉」「私の穀物」「私の財産」そして「自分に言ってやる」という所は「私の魂に言おう。」です。この金持ちは、自分の命を含めて、全ては自分のものと考えていた。そしてそのことこそが、神様に「愚か」と言われている所なのであります。命も、富も、食べ物も、全ては神様のものなのであります。それを知らずに、全てを自分のもの、自分でどうにでも出来るものと考えてしまう。それが「愚か」なのであり、それが貪欲の罪の根本に潜んでいるものなのだと、主イエスは告げられたのであります。私共の命は神様のものであります。神様が私共に命を与え、今日も生きよと日毎の糧を与えて下さっている。神様がその必要の全てを備えて下さり、富を与えて下さった。とするならば、私共は自分の命も富も、本来の所有者である神様の為に用いる、神様に献げるべきものとして用いる。このことを忘れる時、私共は自らの貪欲の罪に支配されてしまうということなのであります。
 このたとえ話を読んで、将来の為に蓄えるということはいけないことなのかと考える人がいるかもしれません。生命保険も、貯金もいらない、してはいけない。そんなことを主イエスは言われているのではないのです。別に、主イエスは「アリとキリギリス」の話をここでされているのではないのです。アリでもキリギリスでもダメなのです。あの話は、結局、自分の人生を自分でどうするかという話でしょう。そうではなくて、私共の人生は神様の御手の中にある。このことを私共が生きる上での根本に据えておかなければならないということなのです。そして、その根本の所に立つ時、私共は富からも貪欲からも自由になることが出来るということなのであります。

 主イエスは最後に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と言われました。神の前に豊かになる。それは、信仰において豊かになるということでしょう。信仰の豊かな人は、神様の恵みの中に生かされていることをよく知っている人です。そしてその人は、自分の富からも自由になることが出来る人なのです。  私は牧師として生きていて、いつも難しいと思っていることは、献金というものを教えることなのです。先日も、週報にありますように、教会で結婚式を挙げたいという人が来られ、それを受け入れることにしました。そこで、日程や準備会の話をして、最後にお礼はいくらすれば良いのでしょうか、という話になりました。いつでも、必ずこの話が出るのです。教会によっては、結婚式はこれだけ、葬式はこれだけ、と決めている所もあるようですけれど、私はそれは間違いだと思っているのです。教会は献金以外は受け取らないのです。そして献金である以上、それはその人が神様との間で決めることです。献金に相場などというものはありません。あってはならないのです。私はいつも、1000円で結構、1000万円で結構、と答えることにしています。そうすると、必ず、それでは困ると言われる。本当に困るのでしょう。それは教会に来ていない人だから困る訳ではなくて、教会員だって困ることなのでしょう。でも私は、本当に困ったら良いと思っているのです。神の前に豊かになる、自分の富から自由になる、その為のとても大切なチャンスを牧師が奪ってはならないと考えるからです。
 私共の命も富も時間も、全ては神様のものです。それは何と素敵なことでしょう。私共は明日を知りません。だから不安になるということなのでしょう。だから、先立つものを用意しておかなければということになる。しかし、私共が知り得ない明日は、神様の御手の中にあるのです。私共にとって、先立つものは金ではなくて、神様なのです。私共の人生の全ての局面において、先だって下さっている神様。その神様の御手の中に、私共の人生の昨日も今日も明日も、死んで後も、全てがあるのです。私共の為にその独り子さえ惜しまずに与えられた、その父なる神様の御手の中にあるのです。だから、安心して良いのです。委ねて良いのです。その大安心の中で、私共は自分をしばっている貪欲や富の誘惑からも自由にされていくのでしょう。いつも心が向いてしまう問題からも自由にされ、心を神様に向けることが出来るのであります。この自由の中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。

[2007年1月14日]

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