富山鹿島町教会

礼拝説教

「忠実な僕として」
イザヤ書 1章21〜31節
ルカによる福音書 12章35〜48節

小堀 康彦牧師

 私共は、信仰告白において「主の再び来たり給うを待ち望む」と告白しています。十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られたあの主イエスが再び来られる。そのことを信じ、その日を待ち望みつつ、私共はこの地上の生涯を歩んでいるのであります。その歩みにおいて、何よりも求められていることは、忠実な僕であるということであります。特別な能力でも、斬新な企てでもありません。忠実であるということです。主イエスによって委ねられた務め、主を礼拝し主の御名を宣べ伝えていくこと、神と人を愛し、神と人とに仕えるその務めに忠実であるということであります。
 主イエスは、今朝与えられた御言葉において、腰に帯を締め、ともし火をともして、婚宴から帰って来る主人を待っている僕のたとえ話を語られました。目を覚まして主人を迎えることが出来た僕は、主人によって食事の席に着かせてもらい、給仕までしてくれるというのであります。この主人というのは、言うまでもなく、主イエスご自身でありましょう。そして、婚宴から帰って来るというのは、主が再び来られる時、主の再臨の時のことを言っていると考えて良いと思います。当時の結婚式のお祝いの宴は、現代のように二、三時間で終わるというようなものではありません。何日も続くのです。祝いの客は、最初から最後まで居る人もいるでしょうし、途中で帰る人もいる。ですから、婚宴に出かけた主人は、初めから、帰りは何時と決まっている訳ではないのです。婚宴に行った主人は何時になったら帰って来るのか判りません。真夜中かもしれないし、夜明け頃になるかもしれない。或いは次の日になるのかもしれない。何時になるのか判らないのです。ですから、いつ帰ってこられても良いように、僕は備えていなければならないのです。主イエスは40節で「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と言われました。主人が、主イエスが、何時に来るのか判っているのならば、その時刻まで眠っていて、その直前になったら起き出せば良いのです。しかし、何時帰ってくるのか判らない。思いがけない時に来る。だから、いつでも目を覚まして、待っていなければならないのです。
 「腰に帯を締め」というのは、いつでも動き出せるように備えをしてということです。「ともし火をともして」というのも同じことでしょう。何時主人が帰ってきても、足下を照らすともし火を備えておいて大丈夫な備えをしておくということであります。

 しかし、そう言われても、主イエスは二千年間来なかった。だから、自分の目が黒いうちには来ないだろう。何となく、そんな気分になってしまう所が私共の中にはあるのではないかと思います。そうするとどうなるのか。主イエスは次に別のたとえを話されます。45〜46節に「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」とあります。どうせ、いつ帰ってくるのか判らないのだから、自分の好き勝手にする。やりたい放題のことをする。そういうことが起きるかもしれない。しかしそうなると、主人は思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰すると主イエスは言われるのです。ここで言われていることは、主イエスが再び来られることを忘れた教会の姿ではないかと思います。主イエスが主人であるのに、まるで教会が、あるいは教会を委ねられた者、牧師、あるいは長老会と言っても良いかもしれませんが、そういう人が主イエスの代わりに主人のようにふるまい始めるということであります。主イエスは、決してそのようなことは赦されないと言われたのであります。ここには、主イエスの深い私共人間に対しての洞察があります。私共には、主イエスに代わって、自分が主人になってしまおうという誘惑が常にあるのであります。そのことを、主イエスは良く知っておられたのです。
 牧師がまるで教祖にでもなったかのようにふるまい始める。そういうことが起こり得るのです。悲しいことですが、開拓伝道した牧師が、あんなに素晴らしい牧師だったのに、晩年になってどうしてあんな事を言ったりしたりするのだろうか。人が変わってしまった。その様な話しを聴くことがあるのです。他人事ではありません。私自身が、そのようにならない保証など、どこにもないのです。牧師も長老会も、主イエスによって委ねられた管理人に過ぎません。管理人は僕であって、主人ではないのです。管理人に求められることは、主人に対して忠実であるということです。管理人が僕たちに重んじられるべき所があるとするならば、ただ主イエスに対して忠実であるという所においてなのでありましょう。管理人は何よりもこの点において僕達の模範となるべき者であるということなのでありましょう。48節後半「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」という主イエスの言葉。これは、教会において責任を持つ者が本当に心に刻んでおかなければならないものなのだとおもいます。しかしこの言葉は、教会に責任を持った者だけが心に刻んでおけばよいという言葉ではありません。私共は皆、信仰を与えられました、神様に向かって「父よ」と呼びまつることが許される者とされたのです。これは、大変な恵みを既に与えられているということでありましょう。信仰与えられた私共は、信仰を与えられていない人々よりも、神様から多くのものを求められているのです。主なる神様に忠実でなければならないということが求められている者なのです。

 主イエスが再び来られるということを忘れた者が、自分が主人のように振るまい始めるということは、主イエスが再び来られるということを忘れた信仰は、実に緊張感のない、弛緩した、だらしのない、身勝手なものになってしまうということなのでありましょう。主が再び来られる。このことをしっかり心に刻む者は、その日に向かって、日々の信仰の歩みを整えます。いつ主が来られても良いように、祈りつつ、愛の業に励みます。そして、この地上における報いを望まないのです。何故なら、報いは、主イエスが来られる時に与えられることを知っているからです。しかし、主が再び来られることを忘れた信仰者は、この地上における報いしか求めることが出来なくなります。いわゆる現世利益です。キリスト教が、現世利益を求める宗教ではないという理由がここにあります。現世利益を求める傾向が強いこの日本にあっては、キリスト教を信じたらどんな良いことがあるのか、どんな利益があるのか、そのように問われることも少なくありません。中には、キリスト教を信じたら、事業に成功する、病気も治る、受験もうまくいく、そのように語る牧師がいない訳ではありません。勿論、そういうこともあるだろうとも思います。しかし、主イエスが私共に約束して下さっていることは、そういうことではないのです。私共が求めるのは、そういうことではないのです。主イエスが約束して下さっているのは、私共が主イエスが来られることを真実に待ち望みつつ、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えて生きるならば、忠実な主イエスの僕として歩むならば、主イエスが来られる時に大いなる報いを受けるということなのであります。大いなる報いです。ですから、私共はこの地上における報いを求める必要がない者とされているということなのであります。

 では、主イエスが来られる時に与えられる大いなる報いとは何なのでしょうか。それは、主人が僕である私共を、主ご自身が給仕をしてくださる食事の席に着かせてくださるということでなのす。これは、神の国の食卓に招かれるということです。ここで私共は、聖餐の食卓を思い起こすことが出来るでしょう。実に、聖餐の交わりは、神の国の食卓の先取りなのです。私共は、主イエスが給仕をしてくださる食卓に、代々の聖徒達と共に与るのです。もちろん、これは一つのイメージです。この食事をすることだけが報いではありません。この食卓のイメージに示された、神様と、主イエス・キリストと、代々の聖徒達との親しい交わり、永遠の命の交わりに招かれるということ、それこそが私共に与えられると約束されている大いなる報いなのであります。
 聖餐において、私共の教会においては長老達がパンを配り、盃を配ります。これは長老達が皆さんに給仕をしているということなのです。長老達は、主イエスによって管理人として立てられた者です。それは、この聖餐における給仕の姿に示されているように、仕える者として立てられているということなのであります。忠実な管理人とは、偉そうに主人のようにふるまう者ではなく、忠実な僕として仕える者に他ならないのです。

 この主人が給仕をする神の国の食卓でありますが、この主人の姿は、ヨハネによる福音書13章にあります、主イエスが弟子たちの足を洗われた洗足の出来事を思い起こさせます。サンダル履きが普通であった主イエスの時代、外から戻って家に入る時、奴隷が主人の足を洗いました。ところが、主イエスは最後の晩餐の時、弟子達の足を洗われたのです。まことに畏れ多いことであります。ペトロは思わず、「わたしの足など、決して洗わないでください。」と言ってしまう程でした。ペトロは、主イエスが突然何をされ始めたのか、理解出来なかったのだと思います。私共とて、十分その時の主イエスが為されたことの意味を知っている訳ではありません。しかし、今日の御言葉との関連で言うならば、主イエスは弟子達の足を洗うことによって、神の国の食卓の交わりをお示しになったということなのではないかと思うのであります。主イエスが私共の足を洗い、主イエスが私共に給仕をして下さる。まことに畏れ多いことであります。しかし、主イエスがそのようにすると言っておられる。そして、そのような栄光ある食卓に招かれるというのが、私共に備えられている大いなる報いなのであります。この主イエスが約束して下さっている報いが、どんなに恵みに満ちたものであるかを知るならば、私共は、最早、この地上での報いなど求めることはなくなるのではないかと思うのです。そして、この主イエスが来られる時に与えられる大いなる報いを心に刻みつける為に、主イエスは聖餐を制定して下さったのであります。私共は聖餐に与るたびに、私共に備えられている神の国の食卓という報いに、心を向けるのであります。
 私共は実に眠りこけやすいのです。いつでも主イエスが再び来られる日に心を向けていることが出来ない。そういう弱さを持っているのです。残念なことでありますが、信仰を与えられ、洗礼を受けたのに、いつの間にか礼拝で見ることがなくなってしまう人が出る。信仰が眠りこけてしまうのです。これは誰もが持っている弱さなのです。だから、私共は日曜のたびごとにここに集い、主の言葉に耳を傾け、聖餐に与り、心と体を神の国に向け直すということをしなければならないのでしょう。そうでないと、いつの間にかこの世が全てであり、そして自分の人生において、自分自身が主人になってしまうということが起きる。主イエスの僕であることを忘れてしまうということが起きてしまうのであります。

 さて、今まで私はこの主イエスのたとえが、主イエスが来られる時のことを告げていると語ってきました。しかし、この主のたとえには、もう一つの側面があるのです。それは私共の死であります。私共は時が来れば必ず死にます。しかし、私共は死によって全てが終わる訳ではないのです。私共が歩んで来た生涯のあり様によって、神様の御前に裁きを受けなければならないのです。不忠実な者として厳しく罰せられるのか、忠実な僕として神の国の食卓に招かれるのかということが起きるということなのであります。主イエスはいつ来られるのか判らない、思いがけない時に来られると言われてもピンと来ない人でも、あなたの死はいつ来るのか判らない、思いがけない時にやって来る、だから、その日に備えて、主の御前にその歩みを整えておきなさいというのでしたら判るのではないでしょうか。その意味で、私共はこの主の日の礼拝のたびごとに、自分の死への備えをしていると言っても良いのだろうと思うのです。
 私がまだ神学校に入る前、会社で働いていた時、3年程の期間でしたけれど、その時に仕事の都合で礼拝に出席出来ない日が2、3回ありました。その時に、私の心にふっと思い浮かんだことがありました。それは、今週主イエスが来られたらどうしようというものでした。先週までちゃんと礼拝に行っていたのだから大丈夫だという思いと、やっぱり眠りこけた者として裁かれるのかな、しかしそれは困るなという思いでした。牧師になってから、何人かの牧師にこの話をしたことがあります。皆、そんなに神経質になって考えることはないのではないかと言いました。私もその通りだと思います。いちいち、今週、主イエスが来たらどうしようなどと考えていたら身がもたないでしょう。しかしそれ以上に、私共の信仰の歩みは、そんなにビクビクしながら歩んでいくものではないだろうということなのです。私もそう思います。礼拝出席が私共の信仰が目を覚ましていることの全てではありません。礼拝に集いたくても、それが出来なくなる時が必ずやってくるのですから。しかし、それにも関わらず、私はあの時に、心にふっと浮かんできた思いを忘れることは出来ません。目を覚まして、忠実な僕として生涯を歩み通したい。主が来られる、主の御前に立つ、そのことを忘れたような生き方は決してすまい。洗礼を受けて、10年も経たない、20代の時にそう思った。その思いは真実であったと思っています。あの頃、私はまだ自分がやがて死ぬということを、きちんと受けとめることは出来ませんでした。まだ若かったのです。牧師になり、今まで何人もの方々の葬式を行ってきました。愛する者の死にも立ち会ってきました。そして自分も年をとってきました。死というものが、若い時より少し身近になってきた。そうであればこそ、いよいよ、この忠実な僕として歩み通したいという願いは、強く、固いものになってきました。しかし同時に、不忠実な管理人になってしまう誘惑の強さも又知るようになりました。自分の心の奥底から湧き上がってくるどす黒い思いです。そうであればこそ「主よ守り給え」、そう祈らずにはおれないのであります。忠実な僕として歩み通すということは、実に聖霊なる神様の不思議な守り無くして全うすることは出来ないことなのでありましょう。そして、主イエスがこのように忠実な僕として生きることを私共にお求めになったということは、主イエス・キリストご自身が、私共の祈りに応えて聖霊を注ぎ、この道を全う出来るように導こうとされているということなのであります。私共は、この主イエスの救いの決意、私共を守り、支え、導こうとされる御心を信じて良いのであります。この主イエスに全てを委ねて良いのであります。この主イエスの守りと支えと導きを信じ、この一週間も、心を神の国に向けて、眠りこけることなく、忠実な僕としての歩みを主の御前に為してまいりたいと、心から願うのであります。

[2007年1月28日]

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