富山鹿島町教会

礼拝説教

「神に招かれた者」
イザヤ書 57章14〜21節
ルカによる福音書 14章1〜14節

小堀 康彦牧師

 世の中の常識と教会の常識というものには、少しズレているところがあります。その一つに、教会という所には上座、下座というものがないということがあります。そのような感性がないのです。そのような所で生きている牧師という人間は、おおよそ席の順番というものに気を遣いません。しかし、世の中の全てが教会である訳ではありませんので、教会の外の会合で指定された席があればそこに座ります。どうして教会には、上座も下座もないのか。理由は簡単です。上座は神様がおられる天しかないからです。天の父なる神様の御前にあって、私共は赦された罪人でしかないからです。この礼拝の場が、そのことを最も良く表しております。どうも、教会に初めて来られた方は一番後ろの方にお座りになるようですけれど、私はぜひ前の方に座っていただきたいと思っています。前の方が集中出来るからです。私共の教会は、長老の方が一番前に座っていますが、それはそこが上座であるからというのでは全くないのです。御言葉に集中する、その姿の模範となるべく前に座っているのです。或いは、一番前に座って御言葉に集中して、御言葉を語る牧師を励まし、支えている。そう言っても良いでしょう。
 しかし、どうして世の中には上座・下座というものがあり、それに気を遣うのでしょうか。それは、自分の地位、自分の評価というものに対して、人は大変敏感であるからなのだろうと思います。私は外国のことは良く知りませんけれど、上座・下座というのは多分どの時代、どの国にもあるのではないかと思います。そこに社会があれば、必ず秩序があり、必然的に席の順番というものが出来てくる。そういうものでしょう。そして、相手も自分もつまらぬトラブルを起こしたくありませんので、席の順番に気を遣うようになるのでしょう。イエス様の時代のユダヤにおいても、そのようなことがあったのです。そして、その席の順番が問題となるのは、現代の日本と同じように、婚宴の場でありました。結婚式の後の宴会の席というものは、今も昔も、決めるのに頭を悩ますものなのでしょう。

 主イエスは、こう言われました。8〜10節「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」この主イエスの言葉を聞いて、意外だと思う人はいないでしょう。逆に、こんなことはイエス様に教えてもらわなくても、常識ではないか。礼儀作法の一つだと思う人も多いと思います。しかし、主イエスはここで礼儀作法を教えようとされているのではないのです。7節に「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」とありますように、これは「たとえ話」なのです。主イエスの、有名な、道端・石だらけの土地・茨の地・良い地に蒔かれた種についての「種蒔きのたとえ」を聞いて、種の蒔き方や種の成長の仕方について教えていると思う人はいません。それと同じように、主イエスが「たとえを話されたと」いうことは、その言葉の直接的な意味の背後に、本当に主イエスが告げたかったことがあるということなのであります。ですから、このたとえ話を、宴会に招かれた時の礼儀作法のように聞いたのでは、主イエスがお語りになろうとしたことを全く聞き取っていないということになってしまうのです。
 どうして、主イエスはここで席の順番ということを取り上げたのでしょうか。それは、ここに私共の心の動きが良く表れているからでしょう。席の順番にこだわるということは、自分の世間での評価というものが気になって仕方がない、そういう私共の心が表れているからです。自分よりずっと後輩の者や、自分よりずっと能力が劣ると思う者が、自分より高く評価されれば面白くない。自分が正当に評価されていないと思えば、誰だって腹が立つ。馬鹿にされたと思う。しかし、正当な評価とはどういうものなのでしょうか。それは自分が思っているように、他人も評価してくれるということであるかもしれません。しかし、これはそんなにうまくいくものではありません。程度の差こそあれ、自分に対しての自分の評価と、他人が自分を評価するものとは必ず違っているものだからです。同じということは無いのです。自分への評価が不当に低ければ腹が立つ、バカにされたと思う。普通その面だけを考えがちですけれど、その逆はどうか。自分への評価が不当に高い場合、これは腹が立つだけでは済みません。本当につらいことになります。その評価に見合う結果を出さなければならない、そんなプレッシャーに押しつぶされてしまうということだって起きるでしょう。

 主イエスはここで、そのような自分の評価と他人が自分に対して行う評価のズレから来るストレスから、全く自由になる道を示して下さっているのです。それが、神様の評価の中に生きるという道です。11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とあります。高ぶる者を低くする方は誰か。へりくだる者を高めて下さる方は誰か。神様であります。私共は、自分で自分を評価するのでもなく、他人の評価に気を遣うのでもなく、私共の全てを知って下さっている神様のまなざしの中に生かされている。ここに、私共の目と心とを注がなければならないのであります。
 言うまでもなく、主イエスはここで私共に謙遜になることを求めておられるのであります。神様の御前に小さくなること、低くなることを求めておられるのであります。神様を見上げることを知らなければ、私共はどうしても他人の目を気にするしかないのです。何とか人の評価を受けようとして、大きく見せようとすることだって起きてくる。自分は大した者だと思いたがる。そして、ストレスを抱え込む。主イエスは、そのことの空しさ、愚かさを見ておられるのであります。しかし、主イエスはその空しさ、愚かさの中に生きている私共をあざ笑っているのではありません。そうではなくて、その空しさ、愚かさから私共を解き放つために、私共を招いておられるのです。私の所に来なさい。私と同じ低きに生きよう。そう招いておられるのです。
 謙遜になるというのは、後で高めてくれるから、今は低い振りをしていようということではないのです。そうではなくて、低さの中に本当の高みを見るということなのです。ここで私共は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という言葉と、この言葉を語られた主イエス・キリストというお方を重ね合わせて見なければなりません。主イエスは、まことの神であられましたが、人となられました。キリストは天におられましたが、主イエスとして地に下って来られました。主イエスは、罪なき神の子であられましたが、十字架の上で罪人と共に死なれました。これが「へりくだる者」の姿です。この主イエス・キリストが歩まれた道、この道を私共も歩むのであります。そして主イエスは、三日目によみがえり、天に昇られました。このキリストが高く上げられた道に、私共も続くのであります。十字架のない復活はありません。低きに下り給うたキリストが、高く上げられたのであります。このキリストの道を歩む者の姿が、謙遜ということなのでありましょう。「キリストに倣いて」であります。

 さて、この謙遜の道は、キリストの道でありますから、愛の道となります。主イエスはただ人前で偉そうにするなと言われているのではないのです。それだけのことでしたら、日本人は得意中の得意でしょう。人に勧められても上座になど座りません。その結果、どんな集会に行っても、前はガラガラ、後ろはギューギューということになっています。主イエスが言われているのは、そんなことではないのです。低くなる、謙遜になるということがどうしても必要なのは、そうでなければ愛の道を歩むことが出来ないからなのです。愛は仕えることです。自分が偉くなって、大きくなって、どうして仕えることが出来るのかということなのであります。
 主イエスがこのたとえ話をされたのは、主イエスがファリサイ派の人の家で食事に招かれた時のことだったのです。その時の様子が1〜6節に記されています。安息日に、主イエスはあるファリサイ派の議員の家に食事に招かれたのです。この日、主イエスは安息日の会堂での礼拝で、説教をなさったのかもしれません。そして、そのお礼までにと食事に招待された。そう考えても良いだろうと思います。安息日というのは、火を起こしたり、食事を作ったりということが禁じられておりましたので、さぞ冷たい、まずい食事をしたと考えるかもしれませんが、そうではありません。安息日の食事というのは、日本で言えば、「おせち料理」を考えたら良いと思います。その日に作ったものではありませんが、祝いの食事、喜びの食事であって、それは大変なごちそうなのです。安息日の礼拝の後、友人・親戚を招いて、お昼の食事を楽しくやる。それが、現代のイスラエルにも続いている安息日の昼食なのです。私共日本の教会は、日曜日の午後も忙しく集会をしますので、そんなゆったりした日曜日の昼食を食べるという習慣がありません。牧師の家の日曜日のお昼ごはんなどというのは、まことに悲惨なものです。
 主イエスは、そんな安息日のお昼の食事に招かれたのだと思います。すると、そこに水腫を患っている人がいたというのです。この水腫というものがどういうものであるのか、良くは判りませんけれど、体の一部に水が溜まるようなことだと思いますが、多分、見た目にもそれと判る程のものだったのだろうと思います。イエス様の時代、この病気は性的な不道徳の結果と考えられていましたので、どうしてこの人がファリサイ派の人の家にいたのか判りません。人々は主イエスの様子をうかがっていたと1節にありますので、安息日に主イエスがこの人をいやすかどうか見てやろう、安息日にこの人をいやせば律法違反で主イエスをやっつけようと思っていたのかもしれません。この水腫を患っている人は罠であったのかもしれません。主イエスはその人々の思いを読み取ったのでしょう。3節で主イエスは「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」と言われます。そして、この水腫を患っていた人をいやされたのでした。
 主イエスは、この水腫を患った人に対しての律法の専門家やファリサイ派の人々の、愛のない、冷たい態度の中に、自分はこの水腫を患っている人よりも上等だ、正しい者だ、偉いのだという高ぶりの思いを見抜かれたのだと思うのです。神に従うと言いながら、目の前の水腫を患っている人を見下している人々のあり方に腹を立てられたのではないでしょうか。そして、神様に従うということは、へりくだること、謙遜になること、神様の前に小さくなることなのだと教えられたのでありましょう。自分が小さくなると何が見えてくるのか。小さな人が見えてくる。小さな人の心の痛み、悩みが見えてくる。そこに、そのような人々との関わり方が変わってくる。見下すのではなくて、愛する、仕えるという歩みがそこから始まるということなのであります。

 愛の業は、天に宝を積むということでもあります。13〜14節「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」とありますように、主イエスは、お返しすることが出来ない人々に、報いを求めないで食事に招くように言われました。報いを求めない。それは、報いて下さるのは神様だからであります。
 こんな笑い話があります。「ある大金持ちが死んで天国に行った。すると、そこに用意されていたのは、自分の体がやっと入るだけの犬小屋のような家だった。大金持ちは、天使に文句を言います。どうして、自分の家はこんなに小さいのか。すると、天使は悲しそうな顔をして、あなたが天に積んだ宝で作れるのは、この犬小屋が精一杯なのです。」  これは笑い話です。しかし、私共が見なければいけない所がどこなのか、そのことを良く教えている話です。私共は神の国を目指し、ただ神様の報いを求めて、主イエスの道、謙遜の道、愛の道を歩んでいくのであります。そのような私共を、人はどう見るのか。それはどうでも良いことなのであります。もちろん、人の目、人の評価が少しも気にならないと言えば嘘になるでしょう。しかし、気にしても仕方がないのですし、そこに私共の命はかかっていないのです。このことが重要です。私共の命は、全てを支配しておられる天の父なる神様にかかっているのであります。それ故、私共は何よりも神様の求める者でありたいと思うのです。
 神様が求める者の全き姿。それは主イエスの中にあります。ですから、私共は主イエスに倣って、主イエスと共に、神の国への道を歩んでまいりたいと、心から願うのであります。

[2007年3月25日]

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