富山鹿島町教会

礼拝説教

「再臨」
創世記 6章9〜22節
ルカによる福音書 17章20〜37節

小堀 康彦牧師

 「神の国はいつ来るのか。」この問いは、全ての時代を通じて、全ての信仰者の心の中に必ず一度は宿ったことのある問いではないかと思います。聖書をどんなに調べても、よほどのこじつけをしない限り、この問いに対しての答えは得られません。しかし、それでは満足出来ない人々が、今でも、終末は何年後にやって来る、その証拠に戦争があるではないか、地震があるではないか、飢饉があるではないか、と言って歩いています。この問いに対しての主イエスの答えはこうです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」この主イエスの答えは決して分かりやすいものではありません。しかしそれは、主イエスの言い方が難しいというよりも、この終末という事柄そのものが難しい、分かりにくいということなのだろうと思います。
 終末ということに関して、人は様々なイメージを持っています。現代人もいくつかのイメージを持っていると思います。つい20年程前までは核戦争によって世界が終わるというようなものでした。これは政治的終末論とも言えるものでしょう。最近は、これは当時に比べますと随分後退したように思いますが、代わって出てきているのは、地球の温暖化による終末というイメージではないかと思います。これは科学的な終末論とも言えます。核の問題にしても、環境問題、地球の温暖化という問題にしても、大変重大な問題であるには違いありませんけれど、それは主イエスが語り、聖書が告げている終末ではありません。それが「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と主イエスが言われたことなのです。神の国は、終末は、私共が頭の中で考え、イメージしているようなものではない。それが、主イエスがここで言われていることなのです。
 主イエスにこの問いを投げかけたファリサイ派の人々も又、自分達の終末のイメージ、神の国が来る時のイメージを持っていました。それは救い主がやって来て、ローマ帝国からユダヤ人を解放するというイメージでした。主イエスは、ファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか。」という問いに対して、あなたがたが考えているような神の国は来ない。神の国は、あなたがたが考えているようなものではない。そうお答えになったのです。このことは、とても大切なことです。このことを最も良く示しておりますのは、25節「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」であります。これは、主イエスの十字架を示しています。救い主としての人の子が苦しみを受けるなど、ファリサイ派の人々には考えることは出来ませんでした。終末というものは、私共が考えているようなものではない。それは神様の業であり、神様の救いの歴史の完成だからです。これは、私共の思考の範囲を超えていることなのです。ですから、私共は神の国が来るということに関して、終末ということに関して、私はこう考えるとか、こうなるはずだということではしょうがないのであって、徹底的に主イエスに聞く、聖書に聞く、ということでなければならないのです。

 主イエスは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われました。これは翻訳の問題もあるのですが、この「あなたがたの間に」という言葉は、長く「あなたがたの中に」と訳されてきました。その結果、その前の「見える形では来ない」という言葉と重ねて、神の国というのは、私共の中に、つまり私共の心の中にある、私共の心のなかにやって来る。そのように考えられて来たところがあったのです。しかしそうしますと、22節以下の「人の子が来る」ということと矛盾することになります。ここは難しいところですが、この「あなたがたの間にある」というのは、主イエス御自身が、すでにあなたがたのただ中に来ている。だから、神の国は、すでにあなたがたの間に来ている。そう主イエスは言われたのではないかと思うのです。主イエスが告げられた「神の国」の一番重要なポイントは、主イエス・キリスト御自身なのです。主イエスがおられるかどうか。それが、神の国を決定付けるということなのであります。つまり、主イエスの到来であり、主イエスの臨在であり、主イエスの再臨が、神の国はいつ来るのかということの答えなのです。
 もう少し丁寧に申しますとこうなります。主イエスがクリスマスにもう来られた。そうである以上、神の国はもう来たのです。主イエスがここに臨在されている。そうである以上、神の国はもうここにあるのです。主イエスがまだ再臨していない。そうである以上、神の国はまだ完成されていないのです。神の国は、主イエス・キリストと共にあるからです。
 今日は、主イエスの再臨ということについて御言葉を受けたいと思っているのですけれど、その前に、この主イエスと神の国の関係というものをはっきりさせておきたいと思います。そうでないと、終末には何が起きるとか、どういうことになるとかということに、必ず私共の思いが走っていってしまうからです。良いですか皆さん。主イエスが来た以上、神の国はもう来た。つまり、終末はもう始まっているのです。主イエスが臨在されている以上、神の国はもうすでに私共の間にある。私共はもう終末の中を生きているのです。しかし、主イエスがまだ再臨されていない以上、神の国はまだ完全な形では来ていない。終末は完成していないのです。終末というものは、もうすでに私共の間で始まっている。このことが決定的なのです。このことが分かりませんと、この終末についての話は、将来起きるかどうか分からない、自分が今生きることとはとはあまり関係ない、そんな話になりかねないのです。
 私には、この終末ということに関して、苦い思い出があります。まだ神学生であった頃、教会の修養会で、信仰告白の学びをしたのです。牧師が講演をしました。その後で分団に別れて話し合いました。そこで、ある長い信仰生活をしていた信徒の方が、使徒信条の「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん。」の所が「どうも、ここがピンと来ない。」と言われたのです。そして、「終末というのは、よく分かりませんね。」と言われた。それを聞いた何人かの方達も「私もそうだ。」と言う。私は神学生として、何とか答えようとしたのですが、その人達が納得出来るような話しをすることが出来なかったのです。どうでしょうか。皆さんの中にも、この終末ということに関しては、あまりピンと来ないという思いを持っている人がおられるのではないでしょうか。確かに、これは将来のことです。しかし、もう私共の中で始まっていることなのです。私共が、主イエスを愛し、神様を父と呼び、主イエスの言葉に従って生きようとしている。これは実に終末的出来事なのです。神の国が、ここに始まっているのです。そのことが一番良く表れているのが、この礼拝なのでしょう。心を一つにして、力の限り主をほめたたえる。神の国の食卓を指し示す聖餐に与る。説教において、神の国への歩みを指し示される。この礼拝においてこそ、神の国はすでに来ていることを私共は知るのでしょう。だから、主が来られることを待つのです。神の国が完成することを待つのです。実に、礼拝は主を待ち望む者の集いであり、終末を待ち望む者の集いなのです。
 礼拝において、愛が語られる。私共の歩むべき道が語られる。しかしそれは、神の国を目指す者としての歩みなのです。良いことはやりましょう。悪いことはやめましょう。そんなつまらないことではないのです。私共の命、私共の救いの問題なのです。

 さて、22節以下の所で、「人の子」という言葉が繰り返し語られます。22、24、25、26、30と5回も出てきます。聖書を読む時、同じ言葉が何度も出てくるのは、その言葉が重要だからです。今朝与えられている所のキーワードは、間違いなく「人の子」です。この「人の子」という言葉は、福音書において、主イエス御自身が語られる時には、御自分を指して言っている言葉なのです。
 ここで主イエスは、何度も「人の子が現れる日」と言われています。これが再臨(再び臨まれる)と言われることなのです。終末がいつ来るのかという問いは、「主イエスはいつ再び来られるのか」という問いであり、「神の国はいつ完成されるのか」ということを問うことなのです。
 主イエスはここで、旧約聖書のノアの話と、ソドムの話を例に出して、それは突然やって来る。そう告げられました。主イエスは突然やって来ると告げられたのですから、何年にやって来ると言っている人々は、皆、この主イエスの言葉に反していることになるでしょう。何故なら、何年後かに来ると言うことならば、その間は来ないと言うことなのですから、これは主イエスがお語りになられたこととは全く違うことになるのです。突然と言うことは、明日かもしれませんし、私共が死ぬまでやって来ないかもしれません。それは分からないのです。分からなくて良いのです。何故なら、私共は主イエスが突然やって来ても良いように備えておく。主イエスがいつ来ても御前に出ることが出来るように為すべき務めを果たしつつ、一日一日を歩む。その日に備えて待つ。そのことだけが求められているからであります。ただこれだけは言えるでしょう。私共が一日生きれば、一日分は確実に主イエスが来られる日が近づいた。私共は、幼子がクリスマスを待つように、主イエスが再び来る日を待っている民なのです。

 主イエスが再び来られることによって、終末は完成する訳ですが、ここで何が起きるかといいますと、裁きなのです。滅びと救いが起きる。しかも、34〜35節に「言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」とありますように、一人一人の上に起きる。ある人は滅び、ある人は救われる。ですから、滅びる人にとっては、終末とは恐ろしい時であります。しかし、救われる者にとっては、救いの完成、罪の赦し、永遠の命に与る、喜びの日ということになるのです。先程、私共の礼拝は、主を待ち望む者、終末を待ち望む者の集いであると申しました。それは、私共がすでに、この礼拝において、神様の救いに与っているからなのです。だから喜びの日、救いの日として待っているのです。私共は自分が救われるかどうか判らないということでしたなら、どうして主イエスが再び来られることを待つことが出来るでしょうか。そんな恐ろしい日は来ない方が良いと思うでしょう。しかし、私共はすでに救われている。そのことを知っている。ですから、主イエスの再臨と共にやってくる終末の裁きの時は、全き救いに与る日となることを、私共は少しも疑うことなく信じているのです。だから、待っているのです。
 実に、この終末信仰に生きる者は、この地上における命が全てではないことを知っておりますから、目に見えるものに心を奪われることなく、神様の御前に、真実に、誠実に生きようとする、新しい生き方を与えられるのです。
 それが33節で「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」と言われていることなのです。自分のことしか考えない、自分の利益しか求めない、そういう者はたとえこの地上の命においては豊かに暮らすことが出来ても、終末の裁きの時には滅んでしまう。一方、自分のことを横に置いても、神様の為、人の為に労苦を惜しまぬ者、自分が損をしても神様の御前に正しく歩もうとする者は、この地上の生涯においてはつつましくても、終末の裁きの時には、全き救いに、永遠の命に与ることになるということなのであります。つまり、この終末における救いの完成の希望に生きる者こそ、この地上の歩みを正しく歩むことが出来るということなのであります。  ただこの終末信仰というものは、間違って強調されていきますと、この地上の生涯はどうでも良くなってしまう。そういうところがあるのです。私共は神の国を待ち望んでいるのですけれど、その神の国が私の全てということになりますと、毎日の日常生活というものは、影が薄くなってしまう。これは、カルトと呼ばれるような宗教の一つの特徴なのです。地下鉄でサリンを撒いた宗教。あれなどはその典型だろうと思います。天国や終末のリアリティーが、現実の日常の生活を飲みつくしてしまうのです。これは間違いです。私共は主の祈りにおいて、「御国を来たらせ給え」と祈るように、主イエスによって教えられています。御国はまだ来ていない、完成していない。だから、私共はそれを待ち望みつつ、そこに向かって、私共は主イエスと共に歩むのであります。
 24節に「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」とあります。主イエスが再び来られる時、それは誰もが分かるようなあり方で来られる。クリスマスにおいて来られた時のように、世界の片隅で、誰も知らないようなあり方で来られるのではないのです。しかし、それがどのようなあり方なのかは分かりません。少なくとも、「見よ、あそこだ。」「見よ、ここだ。」というように、人々によって再臨のイエスと言われるようなあり方ではないと、主イエスは言われました。いつの時代にも、この偽キリストは登場しました。現代でも、何人もいます。しかし、それらは全て偽キリストなのです。騙されてはいけません。
 私共は惑わされることなく、主イエスが再び来たり給うを待ち望み、いつ主イエスが来られても良い備えを為しつつ、この一週も又、共に御国への歩みを為してまいりたいと思います。

[2007年7月15日]

メッセージ へもどる。