富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様、憐れんでください」
イザヤ書 57章14〜21節
ルカによる福音書 18章9〜14節

小堀 康彦牧師

 主イエスは、私共に祈ることを教えて下さいました。それは、「祈る人」という、新しい人間を私共に造って下さったということであります。私共は別に主イエスに教えてもらわなくても、祈ることなら知っていると思っているかもしれません。確かに、主イエスを知らない人々も、毎年元旦になりますと、何千万人という人々が初詣に参ります。それらの人々の祈りが祈りではないとは言えないでしょう。神様は、全ての人間に「祈りの種」とも言うべきものを与えられたのです。ですから、全ての人は祈ることを全く知らないというのではないのです。確かに祈るのです。しかし、その祈りはまだ「種」の状態で、本当の祈りにはなっていない。私共は主イエスに祈ることを教えていただくことによって、そのことをも知らされたのだと思います。主イエスによって開かれた本当の祈りの世界。それは、主イエスだけが知っていた世界という訳ではありません。旧約以来、神の民に伝えられていた世界でした。しかし、いつの間にか忘れられ、取り違えられてしまっていたのです。私共は、「自分は祈ることを知っている」と思わない方が良いと思います。そうではなくて、私共は主イエスに祈ることを教えていただいたことにより、祈ることを学び続ける者となったのであります。
 今、「祈りの種」と申しました。私共は主イエスと出会う前から、多分、神様とも言うべき方、本当の所では分からないのですけれど、自分を超えた何ものかに向かって、祈っておりました。その祈りの内容は「家内安全、商売繁盛」に代表されるものであったことでしょう。具体的な、自分の利益、安全、健康、そのようなものを願い求めること、それが「祈り」だと思ってきました。そして、それ以外の祈りがあることさえ知りませんでした。それは、私共がまだ神様が全ての者に備えてくれた「種としての祈り」しか知らなかったということなのです。「種」と申しますのは、それは成長し、花をつけ、実をつけることになっているということです。種は種のままでは、花も実もつけることはないのです。この祈りの花、祈りの実とは、神様との生き生きとした交わりであり、罪の赦しであり、永遠の命であります。
 さて、主イエスが私共に祈ることを教えてくれたということで、私共がすぐに思い起こすのは「主の祈り」でありましょう。確かに、「主の祈り」は祈りの中の祈りであります。この「主の祈り」について学ぶことが、私共が正しい祈りについて学ぶ、主イエスによって教えられた祈りの世界に分け入っていく、一番良い道と考えて良いと思います。しかし今朝は、直接「主の祈り」に学ぶのではなくて、与えられた御言葉によって、主イエスがお語りになった「たとえ話」を通して、主イエスが教えて下さった祈りの世界へと導かれたいと思います。しかし、主イエスは別に「主の祈り」で教えて下さったことと違うことをここで教えられているのではありません。「主の祈り」で教えて下さったことを「たとえ話」の形で教えて下さったと考えて良いと思います。

 主イエスがお語りになった「たとえ話」は、とても簡単なものです。登場人物は二人、ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派の人というのは、当時のユダヤにおいては、人々から尊敬もされ、自分達こそは律法を守り、神様に愛されている者であるという自信と誇りを持っていた人です。一方、徴税人というのは、人々からも嫌われ、神の民の面汚し、神様に逆らうものと考えられていた人でした。この二人が神殿に上り、神様に祈った。ファリサイ派の人の祈りは、こういうものでした。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」一方、徴税人の祈りは、遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」というものでした。そして、神様に義とされたのは、この徴税人の方であったというのです。
 この主イエスのたとえ話を聞いた人々は驚いたと思います。話の内容以上に、義とされたのは徴税人の方であったという結論に驚いたはずです。何故なら、徴税人が神様によって義とされるということなど、人々は考えることが出来なかったからです。主イエスはここで、神様が私共を義とされるのは、その人の良き業によってではなく、ただ神様の憐れみによるのであるということを示されたのです。そして、この神様の憐れみを受けるというのは、まさに憐れみを受けるのであって、私はこんなに良い人間です、立派な人間です、そんな風に自分を誇っていたのでは受けることが出来ないのです。ファリサイ派の人と徴税人とは、世の人から見れば、それは比べるまでもなく、ファリサイ派の人の方が良い人で、徴税人はとんでもない人ということになっている。ところが、神様は徴税人を義とした。それは徴税人の方がファリサイ派の人より正しかったから、良い人だったからではないでしょう。そうではなくて、徴税人の祈りがファリサイ派の人の祈りよりも、正しい祈りだったからであります。
 「祈り」というものは、最も信仰的な行為です。ですから、この「祈り」がどういうものであるかによって、その人の信仰の態度、神様に対しての姿勢も決まってしまう、あるいは、信仰のあり方がその人の祈りに表れてしまう。そういうものなのであります。

 では、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りはどこに違いがあるのでしょうか。大きく二つあると言って良いでしょう。
 一つは、ファリサイ派の人は神様の前に自らを誇り、徴税人は自らを罪人として認めているということであります。祈りというものは、何よりも神様の御前に立つことであります。絶対的に聖なる方の御前に立つのであります。その時、私共は自分の欠け、愚かさ、不信仰、小ささ、そして罪を明らかにされるしかないのであります。神様の御前に立つということは、そういうことでありましょう。このファリサイ派の人の祈りは、その意味では、神様の御前に立っていない。そういうことになるのではないかと思うのです。きちんと神様の前に立つ。そして、聖なる神様の光に照らし出される。この神様の光に照らされて、私共は初めて本当の自分を見せられるのでしょう。それは、人の目に自分がどう映っているかというようなことではないのです。神を愛することにおいて弱く、人に仕えることにおいて怠惰である自分。祈ること少なく、何でも自分の力で出来るとうぬぼれている自分。そのような自分が明らかにされてしまうということなのであります。神の御前に立つとはそういうことであります。聖なる光に照らし出される時、自分の影がはっきりと映し出されてしまうのです。光が強ければ強いほど、影も又濃くなるのです。神様の御前に立つとき、私共は自らの存在が映し出す濃き影に気付かざる得ないのです。そしてその時、私共の口から出るのは、「神よ、罪人であるわたしを憐れんでください」でしかないではないか。そう、主イエスは教えて下さったのです。
 「主よ、わたしを憐れんでください。」この言葉は教会の大切な祈りとなりました。私共の礼拝においてはあまり用いておりませんが、讃美歌21の30番〜35番は、<礼拝、キリエ>となっています。キリエ・エレイソン「主よ、憐れみ給え」、クリステ・エレイソン「キリストよ、憐れみ給え」。この歌を歌って、礼拝が始まる。それが長い間、キリストの教会の礼拝のあり方だったのです。私共は「キリエ」は歌いませんけれど、その心は同じであります。私共は、「主よ、憐れみ給え」との祈り心をもって、礼拝に集い、礼拝をささげているのでしょう。自分はこんなに正しい者、良い者。そんなおごりをもって、礼拝に集うことは出来ないのであります。

 第二に、ファリサイ派の人は祈りにおいても人と比べて自分を見ており、徴税人はただ神様を見ているということであります。私共は、いつもどこかで自分を人と比べるという習慣があります。これはもう、心の習慣としか言いようがない程に、私共に染みついている。そして多くの場合、私共は自分をなかなか大した者だと思うことになっている。ここでファリサイ派の人は、自分を「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、徴税人のような者でもないことを感謝します。」と言い、更に「自分は週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています。」と言います。自分もなかなか大した者だと言っている訳です。このような心は、私共の中にも無いとは言えないでしょう。しかし問題は、このファリサイ派の人が神様の前に出ても、そのような心のあり方を少しも変えていないということなのです。私共が祈りにおいて神様の御前に出る時、人と比べるという私共の心のあり様が正されるということでなければならないのであります。私共は、人と比べ、自分は大した者だと思い、自分は正しい者だと思いたがる。しかし、大した方は神様しかいないし、正しいお方は神様しかいない。そのことを知る時が、祈りの時なのでしょう。ファリサイ派の人は、神様の御前に出ても、その心の有り様を糺されていないのです。
 一方徴税人は、他の人と自分を比べることも出来ず、ただ独り、神様の御前に立ち、主の憐れみを請い願っています。これが私共が求められている祈りの姿勢なのであります。神様の御前に立つ時、私共は人と比べる余裕などないのです。今、私は「余裕がない」と申しました。神様の御前に立つ、それは、私の全てを知っておられる方、そして私共を裁くことの出来る方の前に立つことなのであります。ですから、余裕などないのです。どうしても緊張する。私は、祈りが真実に神様の御前に立つものである以上、ある種の緊張というものは避けられないと思っています。ある礼拝に初めて来られた方が、礼拝の後で「快い緊張でした。」と申しました。そうなのだと思います。神様の御前に出る礼拝において、全く緊張しないなどということはあり得ないことなのです。私だって緊張します。
 私は、聖書を学び祈る会に、もっともっと多くの方が出席していただきたいと思っています。最近は、昼の会には求道者の方も出席されており、うれしいことなのですが、まだどうも、あそこは執事や長老が出る所と思っている人がいるようです。そうではありません。皆が聖書に聞き、祈りを合わせることに、もっともっと貪欲になって欲しいと思います。中には、人前で祈るのが苦手だ、嫌だという人もいるでしょう。そういう人は、一言で良い。「主よ、わたしを憐れんでください。」これで良いのです。長い祈りをする必要はありません。自分の祈る課題を決めて、一つのことを祈れば十分なのです。口に出して祈る順番を飛ばしてもらっても良いのです。アーメンと共に唱えて、祈りを合わせることでも良いのです。ただ覚えておいて欲しいのは、祈りは人に聞かせるものではないということです。ただ、神様に向かって、心を注ぎ出すことなのです。人が聞いていることが気になり、うまく祈らなければと思うのなら、それはすでに祈る心がねじれているということなのです。しかし、祈りは神の御前に立つのですから、全く緊張しないということもあり得ないのです。この厳しい、しかし恵みに満ちた時を、皆さん、大切にして欲しいのです。

 さて、主イエスはこのたとえ話を閉じるにあたって、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と告げられました。この低くされるとか高められるということは、何を意味しているのでしょうか。それは、神様がそう見て下さるということでしょう。だからといって、ファリサイ派の人を見る他の人々の目が変わる訳でもないし、徴税人を見る世間の目が変わる訳でもないでしょう。「神様が義とされた」ということが明らかになるのは、終末においてなのです。実に、祈りというのは、神の御前に立つことによって、この終末の裁きの場を思い、それを先取りして赦しを受け、その最後の日に備える私共を造り上げていくということなのです。
 最初に、「主の祈り」と同じことを、主イエスはこのたとえ話において示されたと申しました。それは、このことなのです。私共は主の祈りにおいて、「御国を来たらせ給え、御心が天になるごとく地にもなさせ給え。」と祈るように教えられています。それは、終末を待ち望みつつ、いつ主の裁きが来ても良いように、それに対しての備えを為して生きる私共の姿勢を整えていくことになるのでしょう。祈りとはそういうものです。祈りが祈る者を変えていくのです。私共は、祈りの中で造り変えられていくのです。
 このたとえ話に出て来る徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈って、家に帰った所で終わっています。そして、神様はこの徴税人を義とされました。この話の続きはどうなるのでしょうか。主イエスが、ここで話を終えられているのですから、この話の続きは無いし、考える必要はない。それはそうなのです。しかし、19章に行きますと、徴税人ザアカイの話が出て来るのです。ザアカイの話はたとえ話ではありません。この主イエスのたとえ話と直接の関係はないでしょう。しかし、私には「神様に義とされた徴税人」が、今までと同じ徴税人であり続けるということはないのではないか、そう思えてならないのです。当時の徴税人というのは、ローマ帝国の権力を傘に、不当な税を取り立てるということを平気でやっていたのです。ですから、人々から嫌がられ、嫌われていたのです。しかし、神様に義とされた徴税人は、ザアカイのように、不正をせず、貧しい者を憐れむ者として、新しい生き方をする者となったのではないか。そう思うのです。そしてそうなっても、祈りにおいては、変わることなく、「神様、罪人であるわたしを憐れんでください。」と祈り続けていた。そう思うのであります。良き業をしたから神様に義とされたのではありません。良き業は、神様に義とされた、罪赦された、そのことへの感謝の応答として為されたのです。良き業は決して、義とされる、罪赦されることの条件ではないのです。しかし、神様に義とされた者が、今まで同じように生きるということもあり得ないことなのです。
 私共は、今朝、この徴税人と同じように、「主よ、憐れみ給え」との祈りをささげ、新しい一週間へ歩み出します。神様の御前におごることなく、へりくだる者として、神を愛し、神に仕え、人を愛し、人に仕える者として歩んでまいります。それは、「御国を来たらせ給え」と祈りつつ、歩む一週であります。人と比べて、優越感にひたるのでもなく、劣等感にさいなまれるのでもなく、ただ主の御前に真実に歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2007年7月29日]

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