富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の国に入る者」
申命記 9章1〜7節
ルカによる福音書 18章15〜17節

小堀 康彦牧師

 モーセに率いられたイスラエルの民が、40年にわたる荒野の旅を終え、いざヨルダン川を渡って約束の地に入ろうとした時、神様はモーセを通して約束の確認をいたしました。それが記されているのが申命記です。申命記の申というのは、干支のサルと同じ字ですが、猿という意味ではなくて、再びという意味です。神様がモーセを通して再び命じられた書ということです。この申命記に記されている契約は、モアブの地で為されたので「モアブ契約」とも呼ばれますが、内容は十戒を与えられたシナイ山での契約、「シナイ契約」と同じです。
 今朝与えられました申命記の9章において、神様は、何度も「あなたは『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。」と繰り返し語られています。4、5、6節において、神様は繰り返されるのです。あなたがたは、少しも正しい者ではなかった。あなたがたはかたくなな民である。エジプトを出てから、何度主なる神を怒らせたことか。 どれだけ主に背き続けたことか。このことを忘れてはならないと言われるのです。だったら、どうして主なる神は、イスラエルの民を約束の地に導かれたのか。それは、ただ神様の憐れみによる。そのことを忘れてはならない。そう神様は言われたのです。イスラエルが正しい民であったからではない。イスラエルの民が、神様の憐れみを受けるにふさわしい民であったからではない。そう告げるのです。逆に言えば、神様はイスラエルの民が約束の地に入り、その地に住む人々を破り、そこに住むようになると、彼らは自分が正しいから、神様の民として神様に愛されるに値する者であるから、神様からこのような特別の扱いを受けるのだと考え始める。そのことを知っておられたということなのでしょう。私共の救いは、ただ神様の一方的な憐れみによる。私共の正しさによるのではない。これが福音であります。私共は、この福音によって救われ、神の国へと入る者とされたのであります。

 しかし、私共はイスラエルの民と同じように、いつの間にか自分が救われるのは、自分が信仰を持っているから、自分がキリスト者としてまじめに生きているから、そんな風に考え始めてしまう所があるのではないでしょうか。
 私がまだ洗礼を受けて間もない頃、大学生として青年会で活動していた頃のことです。青年会が長老を招いて懇談するという会が持たれました。長い信仰生活をしてきた長老をお一人お一人青年会に招いて、証しをしていただく。あるいは就職ということを前にして、キリスト者として社会人として生きるという時に、どんな心得を持っていなければならないのか。長老達から伺おうというような趣旨の会でした。何人かの長老とそんな交わりの会を持ちました。その中で、ある企業のカウンセラーとして働いていた方。今ではそのような職業も珍しくないかもしれませんが、30年前はそんな仕事があることさえ私は知りませんでしたし、多分日本でもその道では草分けのような方だったのではないかと思います。忘れもしませんが、その長老との懇談の時に、「小堀君の信仰は、『べき信仰』だね。」と言われたのです。どういう話の流れでそう言われたのか、もう忘れてしまいました。しかし、この言葉だけは忘れることが出来ません。「べき信仰」というのは、「こうであるべき」、「こうすべき」、すぐそう考えてしまう信仰のあり方を指している言葉でした。私は18歳まで教会に行ったことがなく、20歳で洗礼を受けました。大学時代の私は、教会では教会学校、青年会、そして、大学では聖書研究会で、学校でも伝道。いわゆる熱心な信者でした。その頃は、教会に青年も今よりはたくさんいて、私のようなのが何人もおりました。自分で意識したことはあまりなかったのですが、この長老に「小堀君の信仰は、べき信仰だね。」と言われて、大変ショックを受けました。そんなことは考えたこともなかったからです。そして、自分の信仰のあり方を、改めて点検させられたのです。
 そして、当時自分が使っていた聖書を見ますと、至る所に線が引かれていたのですが、その線のほとんどが、○○しなさい、という所であることに気付いたのです。主イエスが何をしてくれたのかというところではなく、だから○○しなさい。そこにばかり線が引いてありました。そして、それは聖書の読み方に表れておりました。例えば、今日のルカによる福音書18章15〜17節の所ですと、17節に「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とあるのだから、「子供のようになろう。」「子供のようにならなければいけない。」そう読むことになるのです。聖書は「子どものようになりなさい。」とは言っていないのですが、そう読んでしまう。そして、「子供のように」とはどういう人になれば良いのか。そう考える訳です。子供のように素直にイエス様のことを信じる者にならなければ。子供のように、理屈ばっかり言ってないで、イエス様を信じなければならない。そう読んでしまう訳です。聖書のどこを読んでも、こうすべき、こうならなくてはいけない。そう読んでしまう訳です。自分で意識しなくても、そうなってしまう。
 私を導き、育ててくれた牧師が、よく猫型信仰、猿型信仰という話をされました。猫型信仰というのは、子猫は何もしないで首の所を親猫にひょいとくわえられて運ばれていく、その姿を言ったものです。猿型信仰というのは、子猿は必死になって親猿にしがみついていないと落ちてしまう、その姿を言っている訳で、よく笑いながら、小堀君は猿型だからな、と言われました。猿型である私は、そう言われると、どうすれば猫型になれるのかと考えてしまう。そう考えてしまう所が猿型なのですが、やっぱりそう考えてしまう。これは、牧師になっても随分長い間、私から抜けきれないでいた傾向であったと思います。牧師になればなったで、牧師とはこうあるべき、こうでなければいけない。そう考えてしまう訳です。
 神学校に入ってビックリしたのは、二代目、三代目の牧師という神学生に出会ったことです。そういう人といると、こうすべきとか、こうあるべき、そんな雰囲気が全く無いのです。逆に、これでも神学生かと思う程に肩の力が抜けているのです。まことに自由なのです。本物の猫型の信仰者に出会って、あきれつつも、感動してしまいました。彼らも今は皆、立派な牧師です。
 猫でも猿でも、別にどちらでも良いのです。これは性格みたいなもので、変えようなどと考えることでもないと今では思っています。ただ、聖書を読む時に、いつも猿型で読んでしまいますと、聖書が本当に語ろうとしている福音を読み落としてしまう。それは気をつけないといけない。そのことが、毎週説教の準備を続けていく中で分かってまいりました。

 さて、イエス様の所に、乳飲み子が連れて来られたのです。「イエスに触れていただくために」とありますから、イエス様に手を置いていただいて、祝福の祈りをしてもらおうと親は考えて、イエス様の所に乳飲み子を連れて来たのだろうと思います。ところが、弟子達はこれを見て叱ったというのです。弟子達にしてみれば、イエス様が話をしている時に、何でじゃまをするのかと思ったのかもしれません。あるいは、もっとはっきりと、ここは乳飲み子が来る所ではない。そう考えたのかもしれません。しかし、イエス様は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。神の国はこのような者たち、つまり子供たちのような者のものだと主イエスは言われたのです。これはどういうことなのでしょうか。続けて、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とありますから、子供たちのような者とは、子供のように神の国を受け入れる者という意味であることは明らかでしょう。しかし、この「子供のように神の国を受け入れる」ということは、素直に受け入れるとか、無邪気に受け入れるとか、そういうことではないのです。もしそういうことであるならば、私共は子供のように素直にならなければ神の国に入ることは出来ないということになるでしょう。そうであるならば、素直に受け入れるという私共の良き業によらなければ、神の国に入ることは出来ないということになります。これは、明らかに律法主義的な理解です。イエス様はそういうことを言っているのではないのです。ここで主イエスが「子供のように」と言われているのは、子供は何も出来ない、何も出来ないから神様に誇る所など何一つ無い。そんなものは何一つ無いけれど、親に連れられて主イエスの祝福を受けに来た。神の国に入る者は、それと同じように、自分には何も無い、神の国に入るにふさわしい正しさも、良き業も、何一つ無い。何も無いけれど、神様の憐れみによって救いを求め、神の国に入ることを求める。そのような者でなければ、神の国に入ることは出来ない。そう主イエスは言われたのです。「子ども」と言いますと、私共は無邪気で、素直で、可愛くて、そのような良い印象・イメージを持つと思います。しかし、聖書において「子ども」という言葉が用いられるときには、そのような良い意味で使われることはほとんど無いのです。「子ども」という言葉は、何も出来ない者、無力な者、小さい者、無価値な者、そのような意味で用いられるのです。ここでもそうなのです。
 私共は先週、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りのたとえ話について学びました。ファリサイ派の人の祈りは、神様の御前においても自分を誇り、人を見下しておりました。一方、徴税人の祈りは、ただ神様の憐れみを求めるものでありました。そして、神様によって義とされたのは、この徴税人の方であったと主イエスは言われ、最後に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という言葉で締めくくられました。このたとえ話の直後に、このたとえ話の続きのように、この「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」という主イエスの言葉が続いているのです。ルカは、この子供をめぐるエピソードを、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りの具体的な例としてここに挙げたのだと、ある注解者は言います。私もそうだと思います。乳飲み子を遠ざけようとした弟子達。自分達は主イエスの近くにおり、主イエスの話を聞き、主イエスに従っている。だから、神の国に入れる。しかし、乳飲み子はそのような資格がない。乳飲み子は主イエスに近づき、祝福を受けるにふさわしくないと考えるならば、弟子達よ、お前たちは、あのファリサイ派の人と同じではないか。そう、主イエスは指摘されたのであります。
 乳飲み子は何も無い。何も出来ない。だから受けるしかない。私共が救われる、神の国に入るということは、そういうことなのです。よく教会のお年寄りの方から、「私はもう何も出来なくて、奉仕も出来なくて、申し訳ありません。」という言葉を聞くことがあります。教会の為に、何かをしたい、ささげたいという尊い心がそこにはあるのだと思います。私はその思いを、ありがたく受け取りたいと思います。しかし、何も出来ないということと、神の国に入る、救われるということとは何の関係もありません。何も出来ない。だから受けるしかない。主の憐れみを受け取るしかない。神の国とは、そういう者たちのものなのであります。又、自分はこれが出来ない、だからキリスト者にふさわしくないと考えることも全く的はずれな理解なのです。私共は乳飲み子で良いのです。何も出来なくて良いのです。私共が何か出来るから、それに応えて神の国に入れるというのではないのです。福音とは、そういうものなのです。
 私は猿型なものですから、つい、こうすべき、こうあるべきと思ってしまう所があります。神様の救いに入れていただいた。だから出来るだけのことをしたい、精一杯の思いをもって、神様に仕え、人に仕え、教会に仕えたい。それは間違っていません。しかし、そうしないと神の国に入れない、そうしているから神の国に入れる、というものではないのです。
 乳飲み子は、何も思わず母の乳を飲みます。こんなにしてもらって申し訳ないとも思いません。私共の父なる神様との交わりは、そのように、私共が意識する前にすでに与えられているということなのではないでしょうか。自分がもっとこれが出来れば、自分の置かれている状況がもっとこうであれば。そんな思いを私共は持つでしょう。しかし、今、このままの状態で、私共は神の国へと招かれている。アバ父よ、と神様に向かって呼ぶことが出来る。何という幸い、何という喜びでありましょう。私共は主イエスに抱かれて、乳飲み子のように父なる神様の救いに与るように連れて行っていただいているだけなのです。自分の足で神様の所に来たのでさえない。主イエスに招かれ、この救いへと伴っていただいたのです。

 この箇所は、長い教会の歴史の中で「幼児洗礼」の根拠として論じられてきました。生まれたばかりの子には、自覚的な信仰なの無いのです。そのような者に洗礼を授けて良いのか。中々難しい問題を含んでいます。しかし教会は、ここで幼子を招いた主イエスは何もない者を招かれたのであり、生まれたばかりのこの幼子もまた主イエスの招きの中にあることを信じ、洗礼を授けてきたのです。それはまことに御心に適ったことなのです。  私共はただ今から聖餐に与ります。私共は、この聖餐に与る為に何をしたというのでしょうか。何もしていないのです。神様が独り子を与えて下さり、独り子イエスが私共に代わって十字架にかかり、私共を神様の子として下さる道を拓いて下さった。私共は、ただこの救いの恵みに与るだけなのであります。何もない。誇るべきものを何一つ持たないで、神様の御前に立つ私共であります。そのような私共を、今朝も神様は、「我が子よ」と呼んで下さっています。この恵みに、心から感謝をささげたいと思うのです。

[2007年8月5日]

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