富山鹿島町教会

礼拝説教

「大いなる神様の御支配、罪に満ちたる業をも用いて」
創世記 37章12〜36節
ガラテヤの信徒への手紙 1章13〜24節  

小堀 康彦牧師

 ヨセフ物語を読み進めております。今朝与えられております所は、ヨセフがエジプトに売られてしまう場面です。何とも悲惨な物語であります。年寄り子として最愛の妻ラケルから初めて生まれたヨセフを、ヤコブは溺愛します。裾の長い晴れ着を与え、明らかに他の兄たちとは違う扱いをしました。その結果、兄たちはヨセフと穏やかに話すことさえ出来ない程に、ヨセフと他の兄弟たちとの関係は悪くなります。そして遂に、ヨセフがエジプトに奴隷として売られてしまうという事態に発展してしまうのです。ここに記されているのは、まるで週刊誌にでも載っているような、崩壊した家庭に起きた事件であります。兄弟の関係が悪くなり、殺そうかと相談したが、それだけは踏みとどまって、売り飛ばしてしまったという話です。何ともやりきれない話です。
 しかし、私共はこの話が、やがてヨセフがエジプトの宰相となり、ヤコブの一族をエジプトに招き、やがてエジプトでヤコブの一族は大きな民になるまでに増え、モーセに率いられて出エジプトをする、十戒を与えられ神の民となる、その大きな物語の発端であることを知っています。私共は、この兄弟を売るという悲惨な出来事が、その悲惨なままでは終わらないことを知っています。私共は今、この話の先を何も知らないかのようにして、ただ悲惨な話しとして読むことは出来ません。それはちょうど、主イエスの受難と十字架の場面を、その後の復活の出来事を知らないように読むことが出来ないのと同じです。あるいは、主イエスの奇跡やたとえ話を、十字架にかかり三日目によみがえられた方の業と言葉として読まない訳にはいかないのと同じです。私共は、このヨセフがエジプトに売られていくという、何とも痛ましい事件を、次に続く大いなる神様の救いの物語の発端として読むのです。
 こう言っても良いと思います。ここに記されているのは、私共が生きている現実の世界と少しも変わりません。私共は、ここに記されているような崩壊した家庭、人間関係のもつれ、そういう現実の中に生きています。そして、しばしばどうしたら良いのか分からない程に苦しくなり、明日への希望が持てなくなります。しかし、このヨセフの話は、この崩壊した家庭の現実は、このままでは終わらない。大いなる希望の明日へと、和解へと、続いていることを示しています。私共もそうなのです。この崩壊した家庭の姿に私共の現実を見出すとするならば、この悲惨な出来事が大いなる救いの物語の発端となっていることも、同時に受け取らなければならないのです。私共の悲惨な現実が、このままでは終わらないということを、この聖書箇所から聴き取るのです。それが聖書を読むということなのです。ここに記されているヨセフ物語は、今から四千年近く前の出来事です。しかし、この物語は、現代の日本に生きる私の物語でもあるのです。このヨセフを守り導いた神様は、今も変わることなく生きて働き、私を守り、私を導いて下さっているからです。

 さて、ヨセフはヘブロンの谷からシケムまで兄たちの様子を見る為に、父ヤコブに遣わされます。ヘブロンというのは地図を見れば分かりますが、死海の中程の西にあります。シケムというのは、ガリラヤ湖と死海のちょうど中間あたりの西にあります。つまりシケムはヘブロンからおおよそ70qくらい北上した所にあるのです。富山から金沢くらいの距離です。歩いて二日あるいは三日程でしょうか。ヨセフがシケムに着くと、そこに兄たちはおりませんでした。シケムから更に北に20q程行ったドタンという所にまで行かなければなりませんでした。この距離は、父ヤコブとの遠さを示しているのでしょう。ヨセフはもはや父ヤコブの守りが届かない程遠くに来たのです。
 兄たちはドタンで羊を飼っていました。彼らは遊牧民ですから、羊のえさである草を求めて、このくらいの移動は季節ごとに普通にされていたのです。18節「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。」とあります。ヨセフは、父に与えられた裾の長い晴れ着を着ていたのでしょう。そんな格好をして旅をしている人などいませんから、兄たちは遠くから見てもヨセフだと分かったのでしょう。19〜20節「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。…あれの夢がどうなるか見てやろう。」この言葉には、ヨセフが夢を見て、「兄たちはヨセフを拝むようになる」と言われたことに対しての、腹立たしさ、我慢ならん思いが表れています。「ここでヨセフを殺してしまえば、あの夢はどうなるのか。実現なぞしやしない。させるものか。」そんな思いでありましょう。しかし、ここで一人、ヨセフを殺すことに反対する兄がいました。ルベンです。彼は長男でした。ルベンはヨセフを殺そうとする兄弟たちの中で、一人、ヨセフの為に、彼を殺すのはやめよう、穴に投げ入れよう、そう主張したのです。ルベンは長男でしたから、兄弟たちの中で重く見られていたのでしょう。兄弟たちは彼の言うことを聞きます。そして、ヨセフの裾の長い晴れ着をはぎ取って、穴の中に投げ入れたのです。多分、ルベンは後から来て、ヨセフを穴から助け出してやろうと思っていたのではないかと思います。
 この兄弟の仲違いの現実の中で、神様は一体どこにいるのか、神様は何をしているのか、そのような問いを持たれるかもしれません。確かに、あからさまに神様は現れません。しかし、確かに神様の守りはここに表れています。一つはルベンの存在です。ルベンとてヨセフに対して良い思いは持っていなかったでしょう。しかし、ルベンは長男として、父ヤコブのヨセフに対しての思いを知り、何とかヨセフを殺したくない、助けたいと思ったのです。私共にも、いつもルベンのような人が備えられているのではないでしょうか。四面楚歌。誰も自分の味方をしてくれる人がいない。そう見える現実の中で、自分を守り、助けたいと思っている人が必ずいるものなのです。それは神様が私共に備えてくれた助け手なのでありましょう。第二に、ヨセフの投げ込まれた穴には水がなかったということです。この穴は水をためておく為の穴と考えて良いのですが、ちょうどこの時、水は穴の中になかった。偶然と言えば偶然かもしれません。この時穴の中に水があれば、ヨセフはおぼれて死んでしまっていたでしょう。この穴の中に水がなかった。ここにも神様の守りというものが表れているのです。この二つのことは、あからさまに神様が出てくる訳ではありません。しかし、この二つの一方でも欠けていれば、ヨセフの命はここで終わってしまっていたでしょう。私は、神様というお方は、いつもこのようなあり方で、私共を守って下さっているのではないかと思います。あからさまではありませんので、私共はしばしばそのことに気が付かないだけなのだろうと思います。
 以前、ある婦人が自分が結婚した当時のことを話してくださいました。「姑に辛く当たられ、何度も着の身着のままで駅まで走った。汽車に乗って実家に戻ろうと思った。でも、その頃は午前に一本、午後に一本くらいしか汽車がなかった。駅の待合室で汽車を待っていると、主人が迎えに来た。今のように何本も電車が走ってれば、とっくに実家に帰っていたわね。でも、いくら待っても汽車は来ないの。だから、今まで続いたの。」汽車の本数が少ない。それも偶然と言えば偶然でしょう。しかし、この偶然と見える出来事の中に神様の守りがあり、支えがあるということがあるのではないでしょうか。

 さて、25節を見ますと、「彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めた」とあります。弟のヨセフの着物をはぎ取り、穴に投げ込み、そこで食事を始める。何という神経かと思います。「助けて」というヨセフの声が聞こえたかもしれません。そこで食事を始める。ここには、まことに罪に飲み込まれ、通常の感覚を失ってしまった人間の姿があります。
 ここに、イシュマエル人の隊商が通りかかります。たくさんの荷物を積んだラクダの列です。それを見たユダがこう言い出します。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。」このユダの提案は、兄弟たちに受け入れられました。ひょっとすると、この時長男のルベンは席を外していたのかもしれません。少しややこしいのは28節です。この新共同訳では、ヨセフをイシュマエル人に売ったのは、そこを通った別のミディアン人の商人たちであったことになります。つまり、ヨセフの兄弟たちはヨセフを売るという相談はしたが、ミディアン人の商人たちに先を越されて、ヨセフを売ることは出来なかったということになります。ただ、ヨセフ物語全体としては、ヨセフは兄弟たちによってエジプトに売られたということになっています。実際にヨセフを売った代金を手にしたかどうかはともかくとして、ヨセフをエジプトに売ろうとしたことは確かですし、その為に穴に投げ込んだのは確かですから、兄弟たちは言い訳出来ないでしょう。
 ルベンは、ヨセフが穴にいないことに気付き、驚き、どうしたら良いのかとうろたえました。兄弟たちは、雄山羊を殺して、ヨセフの晴れ着をその血に浸して、ヤコブに届け、ヨセフが獣に食べられてしまったことにしました。
 ヤコブは血に染まったヨセフの晴れ着を見て、ヨセフが獣に食い殺されたと思い、嘆き、悲しんだのです。この章の始めの部分を読みますと、ヨセフを溺愛したヤコブによって、ヨセフ以外の兄弟はヨセフを憎み、ねたむようになってしまいました。ヨセフも、いい気になって兄たちに夢の話をして、兄たちが自分にひれ伏すようになるなどということを平気で言います。そこまでなら、悪いのはヤコブであり、ヨセフであり、兄たちは被害者のようにも見えます。しかし、今日与えられた聖書の個所においては、兄たちが加害者で、ヤコブもヨセフも被害者のように見えます。ここを見て思わされることは、私共が生きているこの罪の現実の中では、どちらが悪くどちらが良い、どちらが加害者でどちらが被害者であるなどということは、簡単には言えないということであります。売り言葉に買い言葉ではありませんが、一つの罪が次の罪を生んでいく、罪の連鎖とでも言うべき現実が、私共が置かれている状況なのではないかということなのであります。

 しかし、そうであるとするならば、この罪の連鎖はどこで断つことが出来るのかということであります。
 ヤコブのヨセフに対しての溺愛は、ヨセフと他の兄弟との確執を生み、ついにはヨセフを失うという嘆きをもたらしました。これは、ヤコブの身から出た錆ということになるのかもしれません。確かに、私共は自分で蒔いた種は自分で刈らなければならない。そういう面があるのだろうと思います。しかし、それが最終結果ではないのです。私共は失敗します。過ちを犯します。それは、困難な、悲惨な現実を生む。自分の身から出た錆として、それはやむを得ないこともあるかもしれません。しかし、私共の失敗は、過ちは取り返すことが出来ないのでしょうか。そんなことは、断じてないのであります。神様がおられるからです。私共の味わう人生の悲しみは、ある部分、自分が蒔いた種という面があるかもしれません。しかし、それでは終わらないのです。神様はヤコブとその一族を祝福を受ける者として選ばれ、それ故、ヨセフをエジプトで生かし、ヨセフとその兄弟との間に和解を与えられました。それと同じように、私共も又、神様の祝福を受ける者として、選ばれているのであります。ですから、私共は必ず、和解へ、平安へ、祝福へ、喜びへと導かれることになっているのであります。私共はそのことを信じて良いのであります。この神様の御手の中にある祝福の明日、これを信じる者として私共は招かれているのです。
 先程、ガラテヤの信徒への手紙1章13〜24節をお読みしました。ここには、使徒パウロが、元々熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教を迫害した者であったことが記されております。しかしパウロはキリストによって選ばれ、キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのであります。神様の救いの御計画、救いの御意志にあっては、私共の愚かさ、過ちさえも用いられ、大いなる救いの歴史へと展開していくのであります。私共は、自分の過ち、失敗を、神様の前に正直に認めなくてはなりません。しかし、そこにばかり目を留めていたのではダメなのです。この過ち、失敗さえも用いて、救いを実現して下さる神様の憐れみに目を向け、心を向けるのです。私の周りを見渡すならば、必ずルベンがいるはずです。穴の中に水がなかったということがあるはずです。そのことに気付いたならば、神様の守りは私共を捕らえて離さないことを確信して良いのであります。私共の歩みは、神の国へ、永遠の命へと続いているのです。安んじて、この一週間も、神様の大いなる救いの御計画の中に生かされていることを信じて歩んでまいりたいと思います。

[2007年9月16日]

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