富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の来臨に備えて」
イザヤ書 9章1〜6節
ルカによる福音書 19章11〜27節

小堀 康彦牧師

 アドベント第三の主の日を迎えています。今日の午後には「こどものクリスマス会」が行われ、来週の主の日にはクリスマス記念礼拝を守ります。もうクリスマスがそこまで来ている。そういう中で、今朝与えられております御言葉は、主イエスによって語られた「ムナのたとえ話」であります。主が再び来たり給うを待ち望む信仰を整えるこの時期に、ふさわしい御言葉が与えられました。皆さんの中には、この聖書の個所を読まれて、「タラントンのたとえ」を思い出された方も多いかと思います。「タラントンのたとえ」は、マタイによる福音書の25章に記されているものですが、このタラントンというお金の単位が、後にタレント・才能という言葉になったこともあるのでしょう、とても似た二つのたとえ話ですが、「タラントンのたとえ」の方が有名と言いますか、馴染んでいる方が多いと思います。どうも、今朝与えられている「ムナのたとえ」というのは、「タラントンのたとえ」の陰に隠れているというか、どうも印象が薄いというところがあるかもしれません。しかし、この「ムナのたとえ」には、「タラントンのたとえ」の陰に隠しておけない、固有のメッセージがあります。それをきちんと聞き取っていきたいと思います。

 この「ムナのたとえ」が語られた状況を、聖書はこう告げています。11節「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」これは、とても大切なことを私共に教えます。ここには、主イエスがこのたとえ話を語られた理由が記されていると見て良いでしょう。主イエスはエルサレムに近づいて来ています。先週見ましたように、すでにエリコまで来ました。エルサレムまではあと30kmくらいです。1日、2日で行ける所まで来たのです。そういう状況の中で、人々は何を考えたのか。人々は、主イエスがエルサレムへ到着したのなら、主イエスは神の国の王として即位し、ローマを滅ぼし、すぐに神の国が来る。そういう期待をもって主イエスを見、また主イエスについて来ていたということなのです。しかし、私共はすでに知っているように、主イエスはエルサレムに入られても、人々が期待するようなその様なあり方で神の国を完成されたのではありませんでした。主イエスは十字架につけられ、死にます。三日目に復活しますが、それから40日しますと、天に昇って行かれました。主イエスが王となり、全ての者を支配する神の国は来ない。主イエスはそのことを知っておられた。ですから、そのことを知らせる為に、この「ムナのたとえ」を語られたのであります。
 もちろん、主イエスは再び来られるのです。そして、その時にこそ神の国は完成します。「御心が天になるごとく、地にも行われる」ということが起きるのです。しかし、私共はその時まで、しばらくの間、待たなければならないのです。その待っている間、一体どのように過ごすのか。何をして待つのか。それが、このたとえにおいて語られたことなのです。主イエスはすでに一度来られました。そして、再び来られます。この間の時を、中間時、中間の時と言います。私共が生きている今という時は、この中間の時なのです。神の国は始まった、しかし完成していない。この中間の時代を、いかに生きるのか。それが私共の課題なのです。

 ここで「ムナ」というお金の単位を見ておきましょう。この1ムナというのは一日の労賃である1デナリオンの100倍ということですから、今で言えば50万〜100万というところでしょうか。大金ではありますけれど、びっくりする程の金額ではありません。1タラントンの方は、1デナリオンの6,000倍ですから、3,000万〜6,000万ということで、こちらはちょっとびっくりする程の金額です。
 ある人が旅立つ前に、これで商売をしなさいと言って、10人の僕に10ムナを与えたというのです。1人に1ムナずつと考えて良いでしょう。そして、この人が帰って来ると、僕たちを呼んで、どれだけ利益を上げて増やしたかを調べるわけです。ある僕は1ムナを10ムナに増やし、ある僕は1ムナを5ムナにしました。しかし、ある僕は主人の言いつけであった商売をして増やすということをせず、布に包んでそのままにしておきました。1ムナが1ムナのままだったわけです。主人はこの僕を叱ります。せめて銀行に預けておけば、利息の分だけでも増えたではないか、どうして何もしなかったのかと責めるわけです。どうしてこの僕は何もしなかったのでしょうか。理由ははっきりしています。21節に「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」とあります。つまり、この僕は主人から与えられたものを失うのを恐れたということなのだと思います。確かに、商売というのは、必ず成功して利益をもたらすとは限りません。失敗して全てを失うということだってあるわけです。この僕はそのことを恐れた。失敗するのを恐れた。それ故に何もしなかった。そういうことなのだと思います。
 ここで考えなければならないのは、ここでムナというお金の単位で言われている、主人から与えられたものとは何なのかということであります。この主人は、主イエス・キリストと考えて良いでしょう。とすれば、この僕とは、主イエスの僕でありますから、主イエスの弟子たちのことであり、教会のことであり、私共のことであると考えられます。では、弟子たちは、主イエスから何を与えられたのかということです。
 タラントンのたとえでは、一人一人に与えられたものが、5タラントン、2タラントン、1タラントンと違っていまして、それ故これは神様から私共一人一人に与えられている賜物・才能という風に理解されてきました。しかし、このムナのたとえでは、皆が同じように1ムナずつ与えられているのですから、賜物や才能といったものではないでしょう。長い教会の歴史の中で、このムナというのは、神の福音、あるいは神の言葉、そのように理解することが出来ると考えられてきました。とするならば、このムナを増やすということは、福音伝道ということになるだろうと思います。ここで主人に叱られている僕は、失敗を恐れて、福音を広げ、増やすことを怠ったということなのであります。ここで私が思わされますことは、この「失敗を恐れて」ということであります。この失敗を恐れるということの底にあるのは、神様の導き、助け、守りを信じ切ることの出来ない不信仰ということなのであります。主イエスが何よりも問題にしたのは、この神様に委ねて全力を注ぐことの出来ない不信仰というものだったのではないでしょうか。

 前教団議長である松山番長教会の小島誠志牧師は、「日本伝道会」というものを起ち上げるときの発会式の説教で「日本の伝道はまだ失敗さえもしていない。失敗する前に恐れて何もしていないのではないか。」と言われました。とても印象に残る言葉でした。そして、深く反省させられるものです。失敗を恐れて何もしない。私共は何もしないことはないのです。いろいろしているのです。忙しすぎるくらいに、色々やっているのです。しかし、新しい試みにチャレンジしていない。それは言えるのだろうと思います。
 静岡県の浜松市に聖隷事業団というものがあります。日本における社会福祉の草分け的存在です。今では、大学もあり、病院もあり、老人介護の施設もあり、大変大きな事業団ですが、これを創った人は長谷川保というクリスチャンでした。ある知人のクリスチャンがこの事業団の病院で働くことになりまして、長谷川保についての話をいろいろと聞くことになりました。その人が驚いたのは、長谷川保という人は、確かにたくさんの福祉関連の事業を興した。しかし、それ以上たくさんの事業を興しては失敗したということでした。これをしなければいけない。そう思って始める。しかし、採算が合わずにその事業から引き上げる。そんなことを何度も何度もしているというのです。その人は、「長谷川保といえば、成功した話ばかり聞くかもしれないけれど、そんな話ばっかりじゃないのよ。」そう言って話してくれたのですけれど、私は逆に、このたくさんの失敗をしたというところにこそ、長谷川保という人の素晴らしさ、凄さがあるのだと思いました。失敗を恐れないのです。どうしてか。それは彼が本質的なところでは事業家ではなかったからではないかと思います。彼が生涯過ごした家は、あばら屋と言っても良い家であったことは有名な話です。彼は毎朝起きると聖書を読み、カルヴァンのキリスト教綱要を読んだという話も有名です。彼が為したのは、ただ神の栄光の為に、ただ神の愛の実践としての福祉事業だったのでしょう。神様の御業の道具となること、そこに彼の事業の原点があり、動機がありました。だから失敗を恐れなかった。神様がしなさいと言うことをする。それだけだったのだと思います。
 私共に今日求められていることは、失敗を恐れずに、主の御言葉を大胆に伝えていくということなのであります。このことこそ、主イエスが再び来られる時に至るまで、主イエスの弟子である私共に委ねられ、求められていることだからであります。更に言うならば、福音伝道に失敗はあるのかということです。具体的に考えてみればすぐに分かることです。牧師として、多くの人に洗礼を授けた牧師は成功した牧師で、少ない人にしか洗礼を授けることのなかった牧師は失敗した牧師か。そんなことはあり得ないでしょう。目に見える成果で、失敗も成功もはかることなど出来ないのです。そのことを、私共はよくよく心に留めておかなければなりません。だったら、失敗とは何なのか。それは、福音を布に包んでしまってしまうこと、福音を隠し、福音を見えなくしてしまうことなのだと思います。自分がキリスト者であることを、自分が信じ、自分がそれによって生かされている主イエスの福音を、隠してしまうことです。

 主イエスは、このたとえ話を語るに際して、12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」、14節「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。」と言われました。これは当時の人々には、すぐにあのことかと分かった歴史的事実を背景にしていると言われています。紀元4年にヘロデ大王が死にますと、彼が支配していた地域が、三人の息子によって分割されることになりました。ユダヤの地域を支配することになったのは、アケラオという息子でした。アケラオはローマ皇帝から、ユダヤにおける父ヘロデの後継者となることの承認を得るために旅に出ました。時を同じくして、ユダヤから50人の使節団がローマを訪れ、アケラオをユダヤの支配者とせず、ローマの直轄地とするように陳情したというのです。結果は、アケラオの地位は承認されました。もちろん、主イエスがここで言おうとされていることは、アケラオのことではありません。主イエス・キリスト御自身のことです。
 主イエスはエルサレムに入って十字架につき、三日目に復活し、40日後に天に昇る。弟子たちには、主イエスが見えなくなるわけです。ペンテコステにおいて聖霊が降り、主イエスは聖霊として弟子たちと共にいることになるのですけれど、目に見えないことには代わりありません。これを、王の位を受けて帰るために遠い国へ旅立つ、と言っているのです。やがて、王の位を受けて戻ってくる。これが再臨です。主イエスが、まことの王として、神の国を完成する為に再び来られるということです。しかし、問題は14節なのです。人々は決して、主イエスが王として戻って来られることは望んでいないということなのです。だから、主イエスの弟子たち、1ムナずつ与えられた弟子たちがそれを増やすということは、逆風の中での営みであると主イエスは言っているのです。しかし、その逆風の中の営みであったとしても、その逆風を恐れて何もしない、増やそうとしない。主イエスに与えられた神の福音を、神の言葉を隠しておいてはダメだと主イエスは言われたのであります。福音を伝えていくのに何の苦労もない時代も場所もないのです。いつでも、どこでも、福音を伝えていくということは逆風の中での営みなのです。しかし、失敗を恐れてはいけません。そもそも失敗などないのですから。
 そして、その地上における生涯において、私共がどのように主の言葉に忠実であったかが、主イエスが再びまことの王として来られる時に調べられ、明らかにされ、裁かれるのだと主イエスは言われたのであります。26節「主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。』」とあります。これは、主の御言葉を明らかにし、伝える為に励む者は、いよいよ豊かに神様の恵みと真実とを知るようになり、主の御言葉を自分の中にとっておくだけの者は、持っていると思っている信仰さえも失うことになってしまうということなのであります。信仰というものは生ものですから、大事にしまっておくだけではカビが生え腐ってしまうものなのです。主イエスの福音に生き、それを証しし、伝え続けていく中で、私共の信仰はいつも生き生きとし、みずみずしく、いよいよ深く豊かに主イエスの恵みの中に生きていくことが出来るのであります。これは、車の両輪のような関係、あるいはニワトリと卵のような関係だと思います。神様の愛は、私共の中から溢れ出し、隣人に注がれれば注がれる程、豊かに注がれ、豊かに湧き上がって来るのであります。
 受けるだけの愛、与えられるだけの愛は、腐るのです。流れのない水たまりの水は汚れ、濁り、腐るのです。主イエスの愛は、泉となって湧き上がり、周りに向かって注ぎ出していくものでしょう。流れる水はいつも清らかです。愛する独り子を与えて下さる神様の熱心、神様の愛が、事を起こし、事を導いていくのです。私共はそのことを信じ、その神様の御業の道具となって仕えていく。私共がやることは、いつでも欠けがあるのです。十分に神様の愛を伝えることは出来ないでしょう。しかし、これは私共に任され、委ねられていることなのです。私共は自分の力の無さや、自分の欠けを見る以上に、神様の愛の強さ、神様の力の大きさに信頼したいと思うのであります。神様には出来ないことは何一つないのですから。
 クリスマスを迎えるこの時期、私共は主イエスの恵みを一人でも多くの人に伝えていきたいと思う。その業に仕えることが出来ることを誇りに思う。自分は出来ないとあきらめず、失敗を恐れず、語り続ける者でありたいと心から願うのです。主が、私共に必要な力と勇気とを与えて下さるように。 

[2007年12月16日]

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