富山鹿島町教会

礼拝説教

「主は来られる」
イザヤ書 13章6〜13節
ルカによる福音書 21章20〜28節

小堀 康彦牧師

 聖書を読んでおりますと、具体的な国家の滅びに関しての多くの預言に出会います。今お読みいたしましたイザヤ書13章には、小見出しに「バビロンの審判」とありますように、あの南ユダ王国を滅ぼしたバビロニア帝国が滅びるということが預言されております。そして、そのようなバビロンが滅びる日を「主の日」と呼んでいます。つまり、主なる神様によってバビロンが裁かれ、滅びる日が来るとイザヤは預言したわけです。確かに、バビロンは滅びました。しかし、イザヤ書13章が単に将来バビロンは滅びるという預言が記されているだけであるとするならば、バビロンが滅びる前には意味があったかもしれませんけれど、それから2500年以上も後の私共にとっては、何の意味もないものになってしまうのではないでしょうか。だったらイザヤ書に記されているバビロンの滅びの預言は、私共にとってどんな意味があるのでしょうか。バビロンだけではありません。イザヤ書には、アッシリアも、ペリシテも、モアブも、ダマスコも、エジプトも、滅びることが記されているのです。これらの預言は私共にどんな意味を持つのかということであります。これらの国家の滅びは、6節で「主の日が近づく」、9節で「主の日が来る」と言われておりますように、主なる神様による裁きの結果です。つまり、イザヤはこの諸国の滅びの預言を告げることによって、この世界の主、歴史の主は、天地を造られた神様であることを示しているのであります。イザヤの預言は、単に将来こういうことが起きるということを語っているのではなくて、それは神様によって起こされるのだ、神様によってこの目に見える強大な国家も又支配されているのだということを告げているのであります。
 更にこう言っても良いでしょう。イザヤの予言は、将来起きるであろう強大な国家の滅亡という一つの事件を語っているだけではなくて、その出来事を語ることによって、やがて神様によってもたらされる世界の最後、新しい世界の始まり、終末の時が来るということを示しているのでありましょう。
 牧師になって10年程した頃だったでしょうか、旧約の預言書を聖書を学び祈る会で取り上げて、何年もかけて学んだことがありました。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、12小預言書、全部やりました。その学びをしていく中で、預言書には実にたくさんの解釈があることを知らされました。いわゆる学問的と言われる注解書、それは旧約学者と呼ばれる人たちが書いているわけですが、それを読んでいくと注解書の数だけ解釈があるというような箇所があることを知らされるわけです。水曜日に祈祷会があるのですが、今のように月・火と出張するなどということがほとんどありませんでしたから、月・火とほとんど祈祷会の為の調べものに時間を使うわけです。ところが、時間がどんなにあっても足りない。イザヤ書など手許にある本だけで10冊以上あるわけです。それが、ほとんどみんな違うことを言っている。どれが本当なのか分からない。本当に困ってしまうわけです。しかし、そんなことを何年か続けていくうちに気付くわけです。どうして、これだけ解釈の幅があるのか。そういう解釈の違いが現れるところは、この預言は後に起きた歴史上のこのことを指しているというような所で、この「このことを指している」という所で違いが起きるわけです。学者ですから、人と同じことを言っていたら本にならないわけです。それを細かくやっていく。しかしそれは、そうも読めるし、こうも読める、ということでしかないわけです。そこで私が思いましたのは、預言者は、本当はこの学者たちが言っているような、「ある特定の歴史的出来事」だけを預言していたわけではないのではないかということでした。預言者たちは、神様によって将来起きる神様の裁きの出来事を見せられた。それを語っているわけですが、その出来事というのは、今日のイザヤ書の言葉で言えば「主の日」の出来事です。神様がその御支配の力をもってこの世界に介入され、実現される出来事なのであって、それは様々な出来事がいくつも重なっている。そういうものなのではないか。例えば、バビロンの審判という出来事は、主イエスが再臨されて起きる世界の審判という出来事と重ね合わせて、イザヤは見ているのではないか。とするならば、そこで重要なのは、この預言は歴史的ないつの、何の出来事を指しているかということ以上に、このバビロンさえも滅ぼされる神様の御支配というものがある。神の民は、この御支配の中に生かされて来たし、今も私共は生かされている。そのことを知ることなのでありましょう。

 私は、主イエスの預言についても、旧約のこの預言者たちの伝統の中で読まれるべきものなのだろうと思うのです。今朝与えられております主イエスの言葉は、主イエスの言葉の中でも最も難解と言われる箇所の一つです。何故難解なのかといえば、歴史的などの出来事を指しているのか良く判らないからです。20節以下の所で、紀元後70年のローマ軍によるエルサレムの陥落について語っていると言われる。これはどの注解者も語ることで、ここについてのブレはありません。しかし、25節以下の所は、エルサレムの陥落の時のことを語っているとは思われません。もっと大きな、全宇宙的と言っても良い程の大きな出来事でしょう。これは、この世界の終末について語っているのでしょう。主イエスはこの二つの出来事を一つの流れの中で語っておられる。それは、エルサレムの滅びという歴史的出来事を世界の終末の先取りとして、つまり神様の審判というものを、エルサレムの滅びという出来事と、最終的なこの世界の終末という出来事の、二重の語り方をして示しているということなのです。それは、小終末と大終末という言い方も出来るでしょう。終末ということについて考えるとき、この小終末と大終末というものを分けて考える、この二つのあり方について考えるということが大切なのだろうと思うのです。これは、私共一人一人についても言えることです。この肉体の死は小終末でしょう。この誰にでもやって来る肉体の死という問題を抜きにして、終末を考えることは出来ません。しかし、それは最終的なものではありません。主イエスが来られて、生ける者と死ねる者とを裁き給う時が来るのです。私の終末だけではなくて、この世界の終末がある。自分の死を抜きに世界の終末を考えることは、とても終末を観念的なものにしかねません。しかし、終末を私の死という次元でだけ考えるならば、希望は見えてきません。主イエスが来られ、全ての者を裁き、復活の命に与るという大終末が私共に希望を与えるのであります。
 この大終末を知らされている私共に求められていることは、主イエスが再び来られる日を信じ、その日を待ち望みつつ、今を生きるということなのです。

 少していねいに見てみましょう。21節に「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」とあります。これは70年のエルサレム陥落の時のことを預言していると先程申しました。ここで主イエスは「逃げよ。」と言われているのです。エルサレムと心中しなくて良いと言われたのです。この主イエスの言葉があったからでしょう。実際、エルサレムにいたキリスト者たちは、陥落する前にエルサレムから脱出しました。このことが、ユダヤ教とキリスト教との関係が悪くなるきっかけとなったとも言われています。ユダヤの民にとって、エルサレムの都とエルサレム神殿とは信仰の中心であり、これを捨てて生きることなど考えられなかったと思います。しかし、キリスト者は逃げたのです。主イエスが逃げよと言われていたからです。そしてそれは、エルサレムの都もエルサレムの神殿も、キリスト者の信仰にとって、無くてはならない物ではなくなったからなのです。最早、神殿に犠牲をささげなくても、主イエス・キリストが十字架において完全な犠牲となって下さったのです。ですから、キリスト者は神殿に詣でて犠牲を捧げる必要が無くなったのです。キリスト者はその恵みに感謝して、自分自身を神様の救いの業、愛の業にささげることが求められるだけなのです。「目に見えるものと心中しなくて良い。」主イエスはそう言って下さったのです。たとえそれが国家であろうと、私共はそれと心中する必要はないのです。国はやがて滅びるのです。しかし、神様の御業と神の言葉とは滅びることはないのであります。ここに私共の希望があります。
 私共は、東西ドイツの壁の崩壊を見ました。ソ連の崩壊も見ました。本当に驚きました。しかし80歳代の方は、先の大戦において日本の敗戦、日本の滅びを体験されました。私共はバブルの崩壊の後、銀行の倒産も見ました。どんなに確かに見えるものも、やがて滅びる時が来る。そのことを私共は何度も見てきたのであります。この肉体もそうなのです。一つ一つ衰えていき、やがて死を迎える。しかし、それは終わりではないのです。本当の終わりの時、それは主イエスが再び来られる時なのです。生ける者と死ねる者とが裁かれる時なのです。
 その主イエスが再び来られる時、全ての者は裁かれるのですが、それは私共にとって救いの完成の時なのです。27〜28節「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」とあります。主イエスは、再び来られて私共を解放してくださるのです。私共は終末を思うと、私共は恐ろしくなり、うなだれるのか。そうではないのです。身を起こして頭を上げる。毅然として、堂々として歩むのです。何故なら、主イエスが来られて、私共を押さえつけていた一切の力、罪、不当な苦しみ、人の目、迷信、貧しさ、争い、等々その全てから解放してくださるからです。私共はその日を待ち望みつつ、今の時を生きるのです。主イエスが来られる大きな終末、それは私共の希望の源なのです。

 さて、主イエスはエルサレムの陥落の預言の中で、「異邦人の時代」ということを語られました。24節です。「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。」これはエルサレムが陥落した後の、国を失ったユダヤ人のその後の歴史を示しているのでありましょう。その後ですが、「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」とあります。この異邦人の時代というのは、神の民がイスラエル人という枠を超えて、異邦人に広がっていく。そのことを示しているのでしょう。とするならば、私共は異邦人の時代であるが故に神の民に加えられたのであり、今も異邦人の時代が続いているということになるでしょう。そして、この異邦人の時代というのは、この後の終末の預言に続いていくわけですから、主イエスが再び来られる時まで続くということになるでしょう。使徒パウロは、この異邦人の時代ということを深く受けとめました。パウロはユダヤ人が神様に捨てられたとは考えませんでした。異邦人が悔い改め、異邦人の時代が完了するならば、ユダヤ人も救われる時が来る。そう彼は信じ、異邦人伝道に励んだのです。私共も異邦人の時代に生きています。それは異邦人伝道の時代に生きているということであります。全ての異邦人に福音が伝えられていかなければならないのです。この伝道の業は、神様の救いの業の完成、終末の到来という、神様の壮大な救いの御計画の業に参与していくことなのであります。伝道とは、実に、終末に向かっての私共に与えられている、神様の業に参与するという崇高な業なのであります。異邦人の時代に生きる私共にとって、これ程御心に適った業はないと言い切れる素晴らしい業、それが伝道ということなのです。
 今の時代、老いや死といった小さな終末に人々は怯えています。温暖化によって地球はダメになる、人類は滅びるという疑似終末論によって、人々は怯えています。そういう中にあって、私共は主イエスが再び来られ、私共を全ての悪しき力から解放し、救いを完成して下さることを知っています。そのことを知っているが故に、この時代にあって、私共はうなだれて生きるのではなくて、「身を起こして、頭を上げて」生きるのであります。希望の中を生きるのであります。
 先日、富山カトリック教会で世界祈祷日の集会があり、私も行ってまいりました。祈祷会の後で茶話会があり、私は80歳を超えるカトリックの司祭の方と同じテーブルになりました。イタリアの方です。日本に来られたのはいつですかと聞くと、1954年ということでした。私は1956年生まれですから、私が生まれる前から日本に来られて伝道されている方です。そして、日本に来る前は中国におられたということでした。1949年に中国共産党が中華人民共和国を建国してから、外国人の宣教師は国外退去を命ぜられました。この方もそのような歴史の生き証人でした。あまり日本語は聞き取りやすいものではありませんでしたけれど、色々話をしました。その中で、その方は笑顔で、「キリストは既に世に勝っている。」と言われました。私は国外退去を命ぜられて日本に来た。しかし、中国政府はキリスト教会を潰すことは出来なかった。そして、私は50年以上にわたってこの日本で伝道している。キリストは既に世に勝っている。そのような文脈の中でした。大変な時代を、ただキリストを伝える為だけに生きた方です。この方と出会えたことを嬉しく思いました。主が来られることを信じ、「身を起こして頭を上げて」生きておられる方に出会った思いでした。その姿は、本当に美しかった。私共はこのような美しさの中に生きることが許されている。何と幸いなことかと思いました。主は既に世に勝っておられる。そして、その主が来られるのです。ですから、うつむかないで、頭を上げて、この一週も歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2008年3月9日]

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