富山鹿島町教会

礼拝説教

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
詩編 31編1〜25節
ルカによる福音書 23章44〜49節

小堀 康彦牧師

 今日から受難週に入ります。週報にありますように、火曜日から金曜日まで奨励者が立てられまして、夜に祈祷会が持たれます。ぜひ皆さん出席されて、共に祈りを合わせ、喜びのイースターを迎えたいと思います。
 今朝は、いつもの聖書の個所を少し先回りして、主イエスの十字架の場面から御言葉を受けてまいりたいと思います。44節に「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」とあります。ルカは記しておりませんが、マルコは主イエスが十字架におかかりになったのは午前9時であったと記しております(マルコによる福音書15章25節)。主イエスの十字架は一瞬のことではなかったのです。主イエスは午前9時に十字架にかけられ、息を引き取る午後3時まで、6時間にわたって十字架の上で苦しまれたのです。十字架刑による死因は出血多量によると言われます。主イエスは十字架の上で、苦しみ、もだえつつ、死と直面され続けたのであります。
 私共は、日曜日ごとにここに集い礼拝をささげております。この礼拝堂の正面には、壁をくり抜いた十字架があります。私共はこの十字架の許に集い、礼拝をささげているのです。この十字架は言うまでもなく、主イエスの十字架です。それは二千年前、エルサレムの町はずれのゴルゴタの丘、「されこうべ」(英語ではカルバリです)と呼ばれる所で十字架につけられた、主イエス・キリストの十字架です。どうして、二千年も前の一人の男の十字架上での死を、私共はこのように心に刻むのでしょうか。それは、この主イエスの十字架の死は、この私と深く関わっているからです。主イエスの十字架の死は、その苦しみは、私に代わって、私の為に受けられたものだからであります。このことがなければ、その死に方がどんなに悲惨で特徴的なものであったとしても、二千年も後の、地球の裏側に生きている私共が覚えるということはあり得ないことでしょう。私共は、主イエスの十字架を覚えるたびごとに、この主イエスの十字架は、本来私が受けるものであったことを知るのであります。私共が罪人であるということは、そういうことです。神様を知らず、神様をないがしろにし、神様に背を向け、神様に感謝することもなく、神様の御心に反して生きていた私共。それは、神様の裁きの前に、ただ滅びるしかない者であった、十字架の裁きを受けなければならない者であったということなのです。しかし、ただ独りの神の子であられる主イエス・キリストが、私共に代わって、その一切の罪の裁きを我が身に負い、十字架におかかりになって下さったのです。それ故、私共の裁きはすでに執行されたのであり、神様の御前における永遠の裁きの時にも、すでに裁きを受けた者と見なされ、罪赦され、永遠の命の恵みを受ける者とされたということなのであります。私共が誰憚ることなく神様の御前に出て、「アバ、父よ」と神様に向かって呼びまつることが出来る。それはただこの主イエスの十字架のお陰なのです。

 この主イエスの十字架は、神の独り子としての栄光とは正反対のところにあるように見えます。確かに、十字架に架けられた主イエスの姿には、何一神の御子としての輝かしさはありません。十字に組まれた丸太の上に、一人のやせこけた男がはりつけになっている。それだけのことであったと思います。そこには、目を背けたくなるような、むごたらしい悲惨さはありますが、輝かしい栄光はどこにもありません。死とはそういうものであります。目に見える死への歩みは、ただただ悲惨なのです。しかし、そうであるにも関わらず、この悲惨な十字架の死において、主イエス・キリストは、自らが神の子であることを最も明確にお示しになったのです。それは、主イエスが十字架の上でまさに息を引き取られる時に叫ばれた一言に現れています。
 主イエスは、十字架の上で息を引き取られる時にこう叫ばれたのです。46節「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」何という言葉でしょうか。主イエスは何も悪いことをしていないのです。十字架につけられて殺されなければならないようなことは、何もしていないのです。それにもかかわらず、主イエスの口からは、恨み言一つ出て来ない。自分を十字架につけた祭司長、律法学者たち、更に自分を十字架刑に決定した総督ピラト、自分を十字架につけよと叫んだ群衆、自分が十字架につけられたのを見て「神からのメシアなら、自分を救ってみろ。十字架から降りてみろ。」とあざ笑った者たち、あるいは自分を見捨てて逃げてしまった弟子たち。主イエスはこの十字架の上で、その誰に対しても恨み言一つ言われなかったのです。こんな人がいるでしょうか。更に主イエスは、この十字架の死が、神様の御心から出たものであることを受け取っておりました。そして、この6時間に及ぶ死の苦しみの中においても、主イエスの神様への信頼は少しも揺るがなかったのです。父なる神様と子なる神様との永遠の愛の交わりは、この十字架の苦しみをもってしても、破られることはなかったのです。ここに一切の罪の力は敗れます。神様の御子の間の愛と信頼を破壊しようとした、一切のサタンの業は退けられたのです。ここに神の愛の勝利が現れたのです。

 この主イエスの十字架を最初から最後まで見ている者がいました。百人隊長です。彼はローマ人であり、ユダヤ人ではありません。彼はまことの神様を知らず、メシアも知りませんでした。しかし彼は職務上、今まで何人もの十字架にかけられて死ぬ犯罪人を見てきていたことでしょう。この日も、彼は職務上、主イエスが十字架を担いで総督ピラトの所からカルバリの丘まで来て、十字架にかけられ息を引き取るまで、彼はじっと主イエスの姿を見続けていました。そして、主イエスが十字架の上で息を引き取った時に彼の口から出たのは、「本当に、この人は正しい人だった。」という言葉だったのです。彼は、主イエスの十字架での死を始めから最後まで見続けることにより、これ程までに神様を信頼し、神様と深く結び合わされている人がいるのか、これ程までに人を恨んだり憎んだりする、誰もが持っている悪しき心から自由にされている人がいるのかと、驚いたに違いないのです。この十字架に架かられた主イエスというお方を見て、実にこの主イエスというお方の存在そのものが奇跡であることに気付いたのではないでしょうか。彼は驚き、神様を知らぬはずの彼の口から、神様への賛美が生まれたのです。
 死というものに直面して、私共は自分でも意識していない、自分の心の底にあるものが外に現れる。そういうことがあるのではないかと思うのです。死に直面して、私共は自分が生きてきた全ての歩みを思う。その時私共の中に何が残るのか。喜びと感謝なのか、嘆きと恨み言なのか。私共は誰でも老いてゆき、やがて死を迎えるわけです。誰もこれから逃れることは出来ません。私は、主イエス・キリストを信じるということは、この主イエスの十字架の死と自分の死というものが、一つに結び合わされることだと思っています。それは、私共が死を迎える時にも、主イエスと一つに結び合わされた者として、主イエスの神様への信頼、主イエスと父なる神様との深い交わりの中に、私共も加えられていくということなのであります。つらいこと、嘆きたいことは山程あるのが私共の人生であります。しかし、たとえそうであっても、私共はなお神様に愛され、生かされ、守られてきたことを信じることが出来るのであります。父なる神様は、私を愛して下さり、その最愛の独り子イエス・キリストを十字架にかけ、私の罪をすでにあがなって下さったからであります。神様に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことを許して下さったからです。神様を「父よ」と呼ぶことが出来るということは、神の独り子である主イエス・キリストと神様との間の愛の交わりの中に、私共も又入れられたからなのであります。それ故、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」、38〜39節「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と告げたのであります。私共の人生は、良いことばかりではありません。しかし、悪いことばかりでもない。その人生の全てをどう受け取るのか。楽しかったから良い人生だったのか。つらいことが多かったから悪い人生だったのか。そうではないでしょう。楽しいこともあった。つらいこともあった。しかし、それらの出来事の全てを知り、守り、支えて下さった父なる神様がおられた。この神様の御手の中に私の人生の全てがあった、そのように私共は自分の人生を受け取るのでありましょう。自分が死を迎えるときにも、神様への信頼を失わず、神様の御手の中にある自分、神様の御手の中にあり続けた自分を見出すことが出来る。人や神様に対しての、恨み言や愚痴ではなくて、神様や人対しての感謝と信頼に貫かれる。それが聖霊が注がれ、信仰を与えられ、あの十字架の主イエス・キリストと一つに合わせられた私共の人生の受け取り方なのでありましょう。

 主イエスが十字架におかかりになった日、「全地は暗くなった。」「太陽は光を失った。」と聖書は記します。実際に日蝕があったのかどうかは分かりません。しかし、ここで聖書が告げているのは、まことの光である主イエスの死は、神様が造られたこの世界から全ての光が失われるようなことであったということであります。主イエスが死んだということは、光は失われ、闇が全てを覆う。そういう出来事であったのです。しかし、この闇の支配は永遠に続いたわけではありません。闇が光に勝利することなど、あり得ないことだからです。ただ、少しの間、闇が支配したかのように見えただけだったのです。それは現在においても同じです。ほんの少しの間、闇の力が私共を覆ってしまったかのように見える時があるのです。しかしそれは、ほんの短い間だけのことであることを私共は知らされているのです。決して闇が光に勝利することはないのです。主イエスは十字架の上で死なれましたが、私共はそれで全てが終わったのではないことを知っています。主イエスは復活されたのです。私共が、どんなに深い嘆きの日々を送ったとしても、それがどんなに長く続くかのように思えたとしても、それはほんの一時に過ぎないのです。神様のあわれみの御手は、必ず私共を闇の力から守り、支え、導いて下さるからです。私共はそれを信じて良いのです。私共はそのことを信じ、それ故に希望を失ってしまっているこの世界の中に、世の光として立たされているのです。主イエスは、私共に向かって、「あなたがたは地の塩である。世の光である。」(マタイによる福音書5章13〜14節)と言われたのは、そういう意味なのです。主イエスは、「あなたがたは世の光である」と言われた。「世の光になれ」と言われたのではありません。主イエス・キリストを信じ、主イエスの十字架の御業によって全ての罪を赦され、神の子とされた者である私共は、すでに世の光とされているということなのです。私共のどこに「世の光」となり得るところがあるというのでしょうか。そうです。私共の中には何もありません。しかし、ただ私共は知っているのです。この世界が知らないまことの光を知っているのです。この世界を支配しているのは本当は誰であるのかを。どんなに闇が濃く、自分達の全てを覆っているかのように見えても、それはほんの一時に過ぎないことを、私共は知っているのです。このことを世界は知らないのです。しかし、私共は知っている。どんなことががあっても破られることのない、主イエス・キリストの勝利の希望を知っている。闇の支配の中で喘いでいるこの世界にとって、このことを知っているということ、それ故にこの世の悪・闇の力に打ち破られない光の中に生きている私共は、まことに世の光なのであります。

 さて、主イエスが十字架におかかりになった時、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」と聖書は記します。この神殿の幕とは、エルサレム神殿の中にあった、年に一度大祭司だけが入れる至聖所と聖所を仕切る為に設けられていた幕のことです。神殿の一番奥にあった至聖所とは、神様が臨在される聖なる所、神様の足台と考えられていた所です。この幕は、人間と神様との間にある、決して超えることの出来ない、罪という隔ての中垣を意味していました。この神様と人との間にある仕切りの幕、隔ての中垣が真っ二つに裂けたということは、この主イエスの十字架の出来事によって、私共と神様との間の罪という仕切りが裂かれた。そして、神様と私共との交わりが、仕切りなしに為されるようになったということを示しているのであります。神様に向かって、まことの神の独り子である主イエス・キリストと共に、主イエス・キリストのように、親しく「アバ、父よ」と呼べるようになった。そして神様も又、私共を主イエスに向かって呼びかけるように「我が子よ」と呼んで下さるようになったということなのであります。

 何故私共は、主イエスの十字架を心に刻むのか。それは、この出来事によって、私共は今日あるを得ているからなのであります。私共の希望、喜び、平安の源が、ここにあるからなのであります。もし、主イエスが私共の為に、私共に代わって十字架におかかりにならなかったのならば、私共は誰も、晴々とした顔で神様の御前に出ることは出来なかったし、ただ神様の裁きを恐れて生きるしかなかったのです。自分の罪から自由になることも出来ず、自分の人生の本当の主人を知ることもなく、それ故、恨み言と憎しみに心をふさがれ、暗い歩みをするしかなかった。しかし、主イエスはその御自身の命をかけて、私共を一切の罪の支配から解放して下さったのです。まことにありがたいことであります。この感謝の中、受難週のこの一週も、主をほめたたえつつ歩んでまいりたいと、心から願うものであります。

[2008年3月16日]

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