富山鹿島町教会

礼拝説教

「必要な備え」
イザヤ書 53章1〜12節
ルカによる福音書 22章35〜46節

小堀 康彦牧師

 私共にとって本当に必要な備えとは何なのでしょうか。預金でしょうか。年金でしょうか。保険でしょうか。それらが必要でないとは言いません。しかし、私共にとって本当に必要な備えとは、はたしてそういうものなのでしょうか。
 今朝与えられております御言葉において、主イエスは36節「財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」と言われました。最後の晩餐が終わり、ゲツセマネの祈りに入られる直前、あと数時間後にはユダの裏切りにより捕らえられる、そういう時に語られた言葉です。主イエスは以前、これと正反対のことを弟子たちに語られました。9章でのことです。この時主イエスは十二人の弟子たちを遣わされるに際して、3節「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」と語られました。弟子たちはその通りにしましたけれど、何一つ不足したことはありませんでした。神様が共にいて、全てを備えて下さったからであります。この時弟子たちに求められたことは、主イエスの御言葉に信頼することでありました。全てを備えて下さる神様を信頼することでありました。そして、確かに神様はその信頼に応えて下さり、何一つ不足したものはなかったのです。
 しかし、主イエスが十字架におかかりになるその直前、主イエスは以前と正反対のことをお語りになりました。どうしてでしょうか。ここで主イエスは、以前にお語りになった時と正反対のことを弟子たちに求めたのでしょうか。つまり、神様を信頼することではなくて、自分の手で道を拓いていくことを主イエスは弟子たちに求め、その為の備えをさせようとされたのでしょうか。私はそうではないと思います。主イエスは、この時も以前に語られた時に弟子たちに求められたことと同じことを求められたのです。つまり、神様を信頼することです。だったら、どうして財布や剣を持って行けと言われたのでしょうか。それは、弟子たちが置かれる状況が変わり、弟子たちが出会わねばならない困難がいかに厳しいものであるか、それを主イエスは知っておられたからであります。主イエスはここで弟子たちに、財布を持って行け、剣を買えと言うことによって、弟子たちの上にふりかかって来るであろう困難、厳しい状況を知らせようとされたのであります。
 財布も持たずに主イエスに遣わされた時、弟子たちが出会ったのは人々の歓迎でした。弟子たちに害を加える者はおりませんでした。彼らは主イエスの御名によって悪霊を追い出し、病を癒していきました。人々は主イエスの弟子たちを喜んで迎えました。しかし、主イエスが捕らえられようとするこの時、弟子たちの前に待っているのは、そのような順風満帆の明日ではありません。主イエスは捕らえられ、罪人の一人として十字架の上で処刑されるのです。主イエスの弟子たちは、その仲間として見られ、厳しい状況に置かれる。主イエスはそのことを良く知っておられました。それ故、このように語られたのです。以前わたしが遣わした時、財布も剣も持たせずにあなたがたを遣わしたが、何か不足したか。全ては備えられ、人々はあなたがたを歓迎し、全てはうまくいっただろう。しかし、今からはそうはいかない。厳しい時が来る。その覚悟をしておきなさい。何故なら、「その人は罪人のひとりに数えられた」との預言、これはイザヤ書53章12節にある言葉です。この御言葉は成就されなければならない。そう言われたのであります。
 このことは、主イエスがこれから起こることをイザヤ書53章の預言の成就として受けとめておられたということを示しています。先ほどイザヤ書53章の朗読を聞きながら、主イエスの十字架へのあの場面、この場面を私共は思い起こしたことでした。それは偶然ではありません。主イエスご自身が、そのように受け取られていたのです。これから始まる十字架への歩みは、まさにイザヤ書53章の預言の成就であると、主イエスご自身が受けとめられていたのです。
 ここで主イエスが言われた「財布を持って行きなさい」「剣を買いなさい」という言葉を、「教会にもお金が必要だ。」、「教会にも自分を守る力が、武力が必要だ。」、主イエスがそう言っている、そのように理解してはなりません。ここで主イエスは、これから起こる厳しい状況をこのような比喩を用いて語られたのであって、実際にこのようにすることを求めたのではないのです。残念ながら弟子たちはこの時も、主イエスの言葉をきちんと受けとめることが出来ませんでした。そして、こう言うのです。38節「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります。」この剣というのは、短剣のようなものであったと思います。こんなものが二つあったところで何の役にも立たないでしょう。主イエスは、この弟子の言葉を聞いて、「それでよい。」と言われました。これは「それで十分だ。」という意味ですが、私はここで主イエスは弟子達が自分の言葉をきちんと理解していないことを見て、「分かった、分かった。もういい。」そんなニュアンスで言われたのではないかと思うのです。
 この短剣は、実際には主イエスが捕らえられる時、主イエスを捕らえに来た大祭司の手下の一人の耳を切り落とすのに用いられました。けれど、主イエスはその時に「もっと戦え。」など言われたのではないのです。そうではなくて、主イエスはその時「やめなさい。」と止められたのです。そして、その耳に触れて癒されたのです。このことからも、主イエスが実際に戦うために「剣を用意しなさい。」と言われたのではないことは明らかでありましょう。
 主イエスは、弟子たちにこれから迎える厳しい状況を知らせ、その為の備えをさせようとされたのです。財布も剣も、主イエスが考え、主イエスが本当に求めていた備えではありませんでした。財布も剣も、それは比喩に過ぎません。主イエスが求めた本当の備えとは、主イエスが以前に弟子たちを遣わされた時に求められたものと同じです。それは、神様への信頼であり、信仰であります。弟子たちは大変厳しい状況に追い込まれることになる。それ故、そのような中にあっても、神様の守り、支え、導きを信じて歩んでいける信仰、それこそ主イエスが弟子たちに求めた本当の備えだったのです。

 主イエスは、この本当の備えというものを弟子達に示す為に、オリーブ山、この一角にゲツセマネの園があったわけですが、ここに弟子たちを連れて行き、彼らが見ているところで最後の祈りの時を持ったのです。私は、このゲツセマネの祈りは、実に弟子達に対しての教育的な意図があったのだと思います。主イエスが祈られたことは何度も聖書に記されています。しかし、主イエスがご自身の祈りの場に弟子達を同伴され、その祈りの姿を見せ、その祈りの言葉を聞かされたというのは、この時しかありません。そして、主イエスはこの時、弟子達にこう言われたのです。40節「誘惑に陥らないように祈りなさい。」この一句こそ、これから迎える厳しい状況の中で、弟子たちが信仰の備えをするために、どうしても必要なこととして、主イエスが教えて下さったことなのです。ところが弟子たちは、主イエスが祈っている間に眠り込んでしまいました。すると、主イエスは再び、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と弟子達に告げられたのです。
 主イエスの弟子たちは、この主イエスの十字架を前にしての祈りの姿を、そして主イエスによって告げられた言葉を生涯忘れませんでした。彼らはこの「祈っていなさい」という、主イエスの教えに生きる者とされたのです。そして、この教えがどんなに力あるものであるかを、その後の厳しい伝道の生涯の中で思い知らされていったに違いないのです。そしてこの主イエスの言葉は、弟子達から更にその次の世代へと伝えられ、キリストの教会が保持する大切な教えとなっていったのです。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言います。又、エフェソの信徒への手紙6章18節「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」とあります。この様に、主イエスの「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」との御言葉がパウロの言葉として受け継がれ、伝えられ、キリストの教会に生きる代々の聖徒達を生かし、導いてきたのです。

 「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と主イエスは言われました。私共は様々な誘惑に陥るのであります。厳しい状況になればなる程、本当はいよいよ祈らなければならないはずなのに、祈らなくなる。いや、祈れなくなる。そういうことが起きるのです。誘惑に陥ってしまうのです。「祈ったところで何になる。この状況は少しも変わらないではないか。祈ってもしょうがない。」そんな誘惑が私共を襲うのです。確かに状況は変わらないかもしれない。しかし、そこで祈ることによって、私共はどこに向かって生きているのか、誰によって生かされているのか、そのことを知るはずなのです。そして、主なる神さまへの信頼を回復し、保持するのです。祈れなくなった時、私共を支配するのは、ニヒルであり、投げやりであり、不平、不満、怒りであります。何故自分はこんな目に会わなければならないのかという怒りです。神様への怒りです。そこに光はなくなる、希望がなくなるのです。
 私は牧師として、何度もそのような場面に立ち会ってきました。病院に入院された方を見舞うのは牧師の務めです。そこで牧師は、いつも歓迎されるとは限らないのです。「何しに来た。」という、挑むような、激しい眼差しに出会うこともあります。深い虚無の眼差しで見つめられ、たじたじとなったとこともあります。「祈っていますか。」と尋ねると、「祈っていない」との答えが返ってきます。祈れないのです。苦しみ、不安という誘惑に襲われ、打ちのめされてしまうのです。ベッドの傍らで私は、しばらくの間話しを聞いたり、沈黙の中で時を過ごします。そして、最後に一言祈ります。その祈りの最後に「アーメン」と唱えてくれたなら、私は「ああ、大丈夫だ。」と思って病室を後にします。アーメンが聞こえないときもあります。そんな時、私はこの人に代わって祈らなければならない。そう思わされます。祈れない人。それは、祈りたくないのではないのです。心の一番深いところでは、祈りを求めているのです。しかし、苦しみ・不安の中で、祈れなくなっているだけなのです。牧師が病室を訪ねる一つの意味は、この人に代わって祈るためなのです。祈りと共に、天上の光がこの病室の中に差し込んでくる。私はそのことを信じています。祈る者には光が失われることはないからです。
 信仰こそ、私共がどんな状況にあっても最後まできちんと生きていく為に、無くてはならない備えなのです。私は、この超高齢化社会という日本の状況の中で、このことはいよいよはっきりしてきているのだと思います。年と共に体が動かなくなってくる。目も耳も悪くなる。そういう中で、人はどう生きていくのか。超高齢者社会においては、3年5年ではなくて、10年20年とそのような「老い」の問題を担いつつ、私共は生きていかなければならないのです。これは実に重大な課題です。施設が増えれば良いということでもないでしょう。信仰をもって、自分の老い、自分の死というものと相対していかねばならないと思うのです。

 この時の主イエスの祈りの姿は、ひざまずいての祈りでした。当時、祈る時の姿は両手を天に上げ、立ったままの祈りでした。私は、弟子たちはこの主イエスの祈りの姿を見て驚いたのではないかと思います。そして、もっと驚いたのはその祈りの言葉、祈りの内容でした。42節「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」「この杯」というのは、明らかに十字架の死を示しています。主イエスはここで、死の恐れに苦しみ、もだえています。この主イエスの苦しみを、肉体の死を前にした人間としての恐れというところから理解しては間違いだと私は思います。自分の死を前にして、辞世の句を詠んで自らの死を迎えた人々を私共は知っています。その様な人の堂々とした死を前にしての姿と、主イエスのこの姿とは何とかけ離れているか。しかし、主イエスの死は、主イエスの死を前にしての苦しみは、辞世の句を詠んだ人々の死とは全く違ったものだったのです。主イエスはここで、永遠に神の子であった方が父なる神に捨てられるという苦しみを味わっておられるのです。それは、永遠に父なる神と一つであったことのない私共には、決して分かりようがない苦しみであります。そして、この苦しみを主イエスが味わわれたが故に、私共の死は神様に捨てられる死ではなく、神様の御許に召される死へと変えられたのです。この時、主イエスを苦しめていたのは、私共の罪です。ひざまずいて祈る主イエスの上に、私共の全ての罪が覆いかぶさり、押しつぶそうとしていたのです。
 主イエスは、その罪の重さを受けとめつつ、こう祈られました。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」祈りというものは、ただ自分の願いを神様にぶつけるだけのものではないことを、主イエスは示されたのです。もちろん、詩編にあるように、自分の思いを神様にぶつける祈りがいけないということではありません。それも良いのです。しかし、祈りに祈っていく中で、私共はやがて、この主イエスの祈りへと導かれていくことを知っています。祈りは、自分の願い、自分の思いからも、私共を解き放つ力を持っているからです。祈りに祈っていく中で、父なる神様の御支配への信頼というものが、フツフツと私共の中に湧き上がってくるのです。これは、祈らなければ分からないことですが、代々の聖徒達が経験し続けてきた祈りの世界なのです。
 日本にも多くの宗教があります。そして、その宗教には必ず祈りがあります。しかし、その全ての宗教が、この祈りの世界を知っているわけではありません。祈ることによって、いよいよ自分の思い、自分の願いを強くしていく。それだけの祈りもあるのです。しかし、私共の祈りの世界はそうではないのです。今ここで、主イエスが与えて下さった主の祈りについて、詳しく述べる時間はありません。しかし、あの祈りは私共の祈りの基本であり、根本的姿勢を示しています。その中で、「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」と私共は祈るのです。大切なのは「御心」です。私共は、この御心を求める者へと、祈りの中で導かれていくのです。
 信仰があるから祈る。それも本当のことです。しかし、祈るから信仰が守られる。それも本当のことでしょう。主イエスが弟子たちと一緒にいることが出来た一番最後の時。この後主イエスは捕らえられてしまうのですから、もう弟子たちと一緒にいることは出来ないのです。その一番最後の時に、主イエスは自らの祈る姿を弟子達にお見せになった。これは意味のあることだったのです。主イエスの弟子たちへの最後のメッセージがここにはあるのです。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」この主イエスの言葉を受けとめて、キリストの教会は、キリスト者は、様々な困難な歴史の中を歩み続けて来たのです。ここに、私共が本当に備えていかなければならない信仰が守られていくただ一つの道があるからです。私共も、この主イエスの言葉を受けとめて、祈るのを止めようとする様々な誘惑と戦って、しっかり祈って、御国への道をこの一週も歩んでまいりたいと思うのです。

[2008年5月18日]

メッセージ へもどる。