富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「私たちを助けてくださるイエス様」
ヘブライ人への手紙 4章14〜16節

小堀 康彦牧師

 今日は教会学校の子供たちと一緒に礼拝を守っています。いつもは別々に礼拝をしていますけれど、私たちは一つの神様の家族です。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも、子どもたちも、みんな同じ一人の神様に造られ、守られ、生かされています。そのことを感謝して、私たちは日曜日にはこの教会に集まって、このように神様を礼拝しているのです。
 この礼拝堂で礼拝することは、教会学校のみんなは、あまりありませんね。いつもは一階の集会室で礼拝しています。どうですか、いつも礼拝している所と少し違うでしょう。周りを見てみましょう。一階よりも随分広いですね。上を見ると天井が高いでしょう。それに、正面には十字架があります。もちろん、この十字架はイエス様がおかかりになった十字架を示しています。この十字架は時間によって色が変わります。今は赤みがかったピンク色ですね。でも夕方になると紫色になります。外の光で色が変わるのです。私たちのこの十字架は、光の十字架です。ここから、神様の愛と光が私たちの所に注がれて来るのです。この光の十字架は、ただ外の光が差し込んで来るだけじゃないのです。この十字架の光は、神様から注がれてくる光、神様の愛と希望の光なのです。私たちは、いつもこの十字架を見上げて、神様の愛と光とを受けて礼拝をしているのです。
 どうして、十字架から神様の愛と光とが注がれて来るのか。イエス様が十字架におかかりになった時のことを思い起こしてみましょう。

 イエス様は朝の9時に十字架にかけられました。そして、午後3時に十字架の上で息を引き取られました。イエス様が十字架につけられた時、弟子たちはみんな逃げてしまっていました。イエス様の味方をしてくれる人は誰もいませんでした。イエス様が十字架につけられると、人々が見物に来ました。そして、口々にイエス様をののしり、バカにして言いました。「本当に救い主、メシアなら、十字架から降りてみろ。」「他人を救っても、自分を救うことも出来ないのか。」「たいしたユダヤ人の王だ。」そんな風に言ってイエス様をバカにしました。
 皆さんはどう思いますか。嵐を静め、海の上を歩き、足の悪い人を歩けるようにされたイエス様です。この時、イエス様は十字架から降りようと思えば降りて来られたのではないでしょうか。私はそう思うのです。イエス様をはやし立てた人たちが言ったのは間違っていなかったのです。でもイエス様は十字架から降りて来ようとされませんでした。手と足にはクギが刺されていました。頭には茨の冠が刺してありました。気が遠くなるような痛さだったでしょう。私だったら一本のクギを刺されただけでも耐えられません。自分にそのクギを抜く力があるのなら、さっさと抜きます。しかし、イエス様は手と足にクギを刺されたまま、十字架から降りて来ようとはされませんでした。どうしてでしょう。不思議です。イエス様が十字架から降りて来られなかった一つの理由は、イエス様は、私たちが出会う苦しみ、痛み、その全てを御自分のこととして味わわれる為だったのです。そして、どんな苦しみ、悲しみ、痛みの中にある人とも共に居ることが出来るようになる為だったのです。

 私たちは苦しくなると、人に分かって欲しいと思います。でも、自分も経験したことがないと、なかなか分かってあげることが出来ません。私は中学生の2年と3年の時、学校でいじめられていました。毎日学校に行くのが嫌で嫌でしょうがありませんでした。でも、そのことをお父さんにもお母さんにも言えませんでした。学校に行くと、休み時間が来るのが恐ろしくて、いつも誰も来ないトイレの裏に行っていました。教室にいると、みんなにいじめられたからです。他のクラスの、小学校の時からの友達に話すことも出来ませんでした。だって、いじめられていない人に話したって、分かってもらえないし、どうにもならないと思ったからです。その頃はイエス様を知らなかったのです。でも今思うと、あの時もイエス様は私と共にてくださったのだと思います。
 私はよく病院にお見舞いに行きます。手術を受けた人、食べられない病気になった人、歩くのが不自由になった人、いろいろです。私はあまり大きな病気になったことがありませんので、その人たちの大変さ、苦しさを、本当の所で分かってあげることはなかなか出来ません。でも、今はイエス様を知っています。だから、こう思います。イエス様はこの人の痛み、苦しみ、悲しみを、全て知って下さっている。だって、十字架の上で、死に至るまでの苦しみを味わい尽くされたのだから、イエス様は全て知っていて下さる。だから、イエス様にお願いしよう。イエス様に祈ろう。そう思うのです。「どうか、この人の痛みを、苦しみを和らげて下さい。イエス様、あなたは全てを知っておられるのですから、そして全能の力を持っているのですから、この人を助けて下さい。」今日の午後、教会学校の子供たちは、逓信病院にお見舞いに行きます。その時も、どうかイエス様、あなたがこの人たちを助けて下さいと、お祈りしましょう。

 私たちがどんなに苦しい時も悲しい時も、その全てを自分のこととして知っている方がいる。それは何と幸いなことでしょう。それは、私たちはどんな時でもひとりぼっちではないという事です。自分の大切な人が苦しんでいるのに、私たちは何もしてあげられない。そういう時もあります。しかし、その苦しんでいる大切な人の苦しみを、共に味わって下さっている方、イエス様がいて下さるのです。イエス様はその人の為に十字架におかかりになったのです。私たちと同じ苦しみ、試練を味わい尽くされる為に、イエス様は十字架から降りようとなさらなかったのです。
 そして、イエス様は三日目に復活されました。私たちの苦しみが、たとえ死に至ることになったとしても、それで終わりではない。復活の命がある。そのことを示す為です。苦しみは永遠ではありません。終わりがあるのです。そして、それは復活へと続くのです。毎朝、夜が明けると、この十字架から光が差して来ます。夜は終わった。朝が来た。神様の光が差して来るのです。その光の中で、私たちは礼拝しているのです。

 神様は、私たちをどんなに愛しているか、そのことを示す為に、独り子であるイエス様を与えて下さり、十字架におかけになりました。けれどそこでイエス様が十字架から降りてしまったら、苦しんでいる人は自分が神様から愛されていることが分からないでしょう。ひとりぼっちだと思うでしょう。希望なんてどこにもないと思うでしょう。だからイエス様は、苦しむ人に「あなたの苦しみをわたしは知っている。わたしも人に捨てられ、十字架の苦しみを受け、死の苦しみさえ味わった。だから、わたしが共に苦しむ。わたしはあなたと共にいる。」そう語りかける方として、十字架から降りて来られなかったのです。このイエス様の愛から外れている人はいません。自分のような者は、神様から、イエス様から見放されている。誰もそんな風に考えてはいけません。イエス様の十字架を見上げて、神様の憐れみ、恵み、助けをいただく為に祈りましょう。愛する独り子であるイエス様を与えて下さった神様は、この祈りを必ず聞いて下さるからです。

[2008年6月8日]

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