富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様の永遠の御計画 〜主を讃えるために〜」
詩編 102編13〜23節
エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節

小堀 康彦牧師

 今朝与えられております御言葉において、私共は目がくらむ程の壮大な神様の御業のパノラマの前に立たされております。天地創造から終末に至る神様の救いの御業が、ここには描かれております。天地創造の前から、私共は神様に選ばれ、救われました。そして、その救いの御業はやがて完成するのです。前回、私共は天地創造の前から神様によって選ばれたという、神様の恵みの選びについて見ましたが、今日は私共を選んで下さったその神様の永遠の御計画の終着点といいますか、行き着く先、救いの完成としての終末、神様の御計画の目的、について見たいと思います。

 この個所で繰り返し告げられております言葉の一つに、「神の栄光をたたえるためです」というのがあります。12節、14節、そして6節にもあります。これは実に、天地創造の前から私共を選んで下さった神様の救いの御計画の目的を示している言葉です。私共は救われました。神様は天地を造られる前から私共を選んで下さって、私共を救いに与らせてくださいました。この神様の救いのご計画には目的があったというのです。そしてその目的とは、「私共が神様をほめたたえる」ということなのだ、そう聖書は告げているのです。
 これは実に驚くべきことではないでしょうか。いったい誰が、このようなことに気付いたでしょうか。「末は博士か大臣か」という言葉があります。この言葉もすでに古いのかもしれませんけれど、この言葉には、自分の人生の一つの目標を示していると言って良いでしょう。しかし、聖書が告げているのは、そんな次元のことではないのです。「神様をほめたたえる」、これが目的だというのです。しかし私共が、この人生を生きる目的、生かされている意味、それをこのように捉えることは、この神の言葉である聖書によって示されなければ、全く知ることは出来なかったと思うのです。私共は、自分が救われるということを、ややもすれば、病気が治る、仕事がうまくいく、家庭が円満になる、あるいは生きがいがある日々を過ごす、その程度にしか考えていない所があります。それらのことがどうでもよいこと、つまらないことであるというのではありません。それは私共が日常の営みを為していく上で、どれも大切なものです。どれか一つが欠けても、私共の心は塞いでしまうでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、私共の人生というものには、もっと重大なことがある。それは、私共がどんな状況の中にあっても決して失われることのない次元であり、それこそ私共の人生の目的と言い切ることの出来るもの。それは神様の永遠の御計画の目的である、「神様をほめたたえること」だと聖書は告げているのです。
 宗教改革者カルヴァンが記した「ジュネーブ教会信仰問答」、これは改革派・長老派の教会の伝統に生きる私共にとっては、大切な信仰の遺産です。この問一は、「人生の主な目的は何ですか。」と尋ね、「神を知ることです。」と答えます。問三で、「人生の最上の幸福は何ですか。」と問うて、「それも同じです。」つまり「神を知ることです。」と答えるのです。この「神を知る」というのは、神様がいるとかいないとか、そんなことを知ることではなくて、神様をほめたたえる、そういうあり方で知るということです。私共は、神様をほめたたえるというあり方で神様を知る、その為に神様に造られた、だからそれが私共の人生の目的となり、最高の幸せとなるのであります。
 このことを先程お読みいたしました詩編102編19節では、端的に「主を賛美するために民は創造された。」と告げているのです。神様は私共を、神様をほめたたえる為に造られた。しかし人間はそれを忘れ、自分の欲を満たすことが第一であるかのように錯覚して生き始めた。それが創世記3章の、アダムとエバが禁じられていた木の実を食べたという記事が示していることであります。神様はそこから私共を救い、本来の創造の目的に適う者へと造り変えて下さる。それが私共が救われるということなのです。

 8〜9節には「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」とあります。「神様の秘められた計画」とは、主イエス・キリストを与え、その十字架と復活の出来事をもって私共を再び神様のものとして取り戻して下さるということ、神様をほめたたえる者として造り変えて下さるということであります。そのことを私共が知る。ここにまことの「知恵と理解」があるのです。これを知らなければ、他の何を知っていても一番根本の所を見失ってしまいます。このまことの「知恵と理解」は、与えられるものです。修行して、難行苦行の末にやっと悟って得られるというものではないのです。与えられるのです。どこから与えられるのか。それは、主イエス・キリストを見ることによってです。
 ここでパウロは天地創造から終末までの壮大なパノラマを私共に示しているのですが、彼は、これを自分で考え出したというようなことではないのです。私共はどこから来て、どこへ行くのか。私共が生きている意味は何なのか。これは古今東西の哲人と言われる人たちが皆問題にし、頭をひねり、答えを見つけようとした問題でしょう。私は、この問題はあまりに大きく、深く、まるで霧の向こうを見通そうとするようなイメージでしか考えることが出来ません。パウロは、この問題を考える中で、目をこらしてその霧の向こうを見つめている内に、だんだんと目が良くなってついには見えるようになった。そして、この様に記した。そういうことではないのです。
 先週も申しましたが、この3〜14節において繰り返し繰り返し出て来る言葉は「キリストにおいて」という言葉です。パウロは、このまったく霧の中にあるような問題を前にして、一点だけまったく霧がかかっていない所を見出したのです。それが主イエス・キリストというお方でした。自分を救って下さった、死人の中から復活された主イエス・キリストというお方。この方を見るならば、この方を通して神様を見たならば、今まで霧の中にあったこれらの問いへの答えが、はっきりと見えたということなのであります。イエス・キリストによって救われた、この事実から見る時、自分は何か優れた所があって救われたのでも何でもない。自分はキリストを信じる者たちを迫害していた者である。それにもかかわらず、救われ、福音を宣べ伝える者とされた。この不思議、ありがたい恵み。これは神様が私を選んで下さったとしか言いようがない。自分が主イエスを選んだのではない。キリスト者を迫害する為に行ったあのダマスコ途上で、復活の主イエスに出会って、救われた自分。そこからこの救いの事実を受けとめ直すと、このようにしか言えない、考えられないということだったのであります。

 パウロは、この自分の救いの現実から、その先をキリストを通して見ます。そして、こう告げるのです。10節「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」「キリストのもとに一つにまとめられる。」これは、キリストを頭として、全てのもの、人間だけではありません、天にあるもの、地にあるもの、全て神様によって造られたものが、神様の創造の秩序に従って、本来あるべき所に、本来あるべき姿で位置付けられるということです。「キリストのもとに一つにまとめられる」という言葉を聞くと、「一つにまとめられる」為に私たちは仲良くしましょう、そんな風に考える人がいるかもしれませんけれど、聖書が告げているのは、そんなつまらないことではないのです。壮大な神様の救いの御業において、その救いの完成としての世界のあり様なのです。ですから、この「キリストのもとに一つにまとめられる」というのは、神様によって造られたものが全て、一つになって、頭であるキリストをほめたたえるようになるということなのであります。これが、聖書が告げる神様の永遠の御計画の完成した姿なのです。そこに向かって、私共は歩んでいるということなのです。
とするならば、私共が神様の救いに与った者として為さなければならないことは明らかでありましょう。第一に、それは神様をほめたたえることであります。すでに救われた者として、救いの完成を先取りした者として、神様をほめたたえることです。私共は毎週ここに集い、礼拝を守っています。それは、この礼拝における私共こそ、主をほめたたえている私共こそ、神様に造られた本来の自分の姿であり、やがて来たる終末において完成される私共の姿の先取りだからなのです。
 私は正直な所、洗礼を受けてもしばらくの間、どうして毎週礼拝を守らなければならないのか、よく分からない所がありました。十戒に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあるから、ぐらいにしか考えていなかった。牧師が説教の中で、「私共は礼拝から遣わされ、礼拝へと戻ってくる。この礼拝を中心とした運動の中に人生がある。」とか、「礼拝が人生の中心です。」と言われても、ピンときていなかった所があります。あまりよく分からないままに、礼拝は毎週守らなければいけないのだと思って守っていた。しかし、今はそうではありません。私は、この礼拝を守る為に生きている。他の六日間は、この礼拝の為に、この礼拝に向かっての六日間なのです。それは、「牧師だからだろう」と言われれば、その通りなのです。しかし、だったら牧師なら礼拝の為に生きるというのはどうして当たり前なのか。仕事だから。そうではないと思うのです。牧師という存在は、その存在において、救いというものを、救われているということを現す者として立てられているからなのだと思うのです。牧師はこの礼拝の為に生きている。その姿をもって、救われるということはどういうことなのか、そのことを示す為に立てられているからなのだと思うのです。
 主をほめたたえるということが、終末における救いの完成であるとするならば、この救いの完成を目指し、神の国を目指して歩む私共は、日曜日のこの礼拝において、主をほめたたえることを目指して、六日間を生き抜く。この一週間の歩み方に、救われた者としてのあり方が現れているということなのではないでしょうか。この主の日の礼拝を待ち望みつつ歩む私共の歩み方こそ、実に終末を、神の国を、救いの完成を待ち望む、私共の人生そのものなのです。主の日の礼拝から主の日の礼拝へと歩んでいく、その歩みが私共の人生そのものなのです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」というのは、この救いに与った者の新しい生き方、人生の目的を知らされた者の具体的歩み方を示しているものなのであります。

 神様の救いに与った私共が為すべき第二のことは、福音を宣べ伝えるということです。終末においては、全ての者が頭であるキリストのもとに一つにまとめられて、主をほめたたえるようになるわけです。その終末に向かって歩む私共が、主をほめたたえる者が増し加えられるように努めるのは、極めて当たり前のことなのでしょう。もちろん、私共が伝道を一生懸命したから終末が来るというものではありません。それは、神様の御手の中にあることです。しかし、その日を私共が待ち望むということは、その日に向かって歩むのでありますから、共に主をほめたたえる為に福音を宣べ伝えるということが、最も御心に適った業であることは言うまでもないことでしょう。福音を宣べ伝えるということは、終末を知り、神の国を知り、そこに向かって自分が歩んでいるのだということを知った者には、どうしてもそれをしないではいられない、そういうことなのだろうと思うのです。神の国は、私一人が主をほめたたえる所ではないからです。
 福音を宣べ伝えるといっても、どうすれば良いのか分からない。そういう人もいるでしょう。難しく考えることはありません。ちょうど10月12日(日)に私共は伝道集会を開きます。これに一人が一人ずつ誘えば良いのです。自分の愛する者、友人、知人を誘えば良いのです。家族を誘えば良いのです。そして、その人の為に祈るのです。ここで、どうせ誘ってもダメではないかとか、誘ったら気まずくならないかとか、あまり考えない方が良いと思います。何故なら、それは何よりも神様の御心に適ったことであり、神様が喜ばれることだからです。9節の「神の御心によるものです」という言葉は、直訳すれば「神の喜ぶところに従って」となります。神様の救い、全ての者が主をほめたたえるというのは、御心には違いないのですが、それは何より神様が喜ばれることなのです。神様が喜んでくださるのでありますから、それで十分ではないでしょうか。神様がお喜びになることに仕える、それが私共の伝道の業なのです。

 13〜14節「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」ここに聖霊ということが出てきます。「聖霊で証印を押された」、「聖霊はわたしたちが御国を受け継ぐための保証である」というのです。私共は聖霊を与えられています。このことも、私は本当の所、長い間分かりませんでした。自分の情けない日々の姿を思いますと、どこに聖霊が与えられていると言えるのか、そう思ってしまう自分がおりました。しかし、この聖霊が与えられているという証拠は、すでにはっきりと現れているのです。それは、私共が「イエスは主なり」と告白しているという事実、この主の日の礼拝に集い、主をほめたたえているという事実、父なる神様に向かって「我が父よ」と呼び奉ることが出来ているという事実、これらは全て聖霊なる神様の御業であり、聖霊抜きに起きるようなことではないのです。もちろん、私共はこの世での歩みを為している以上、神の国に生きるような完全に御心に適う歩みは出来ていないでしょう。破れがあり、欠けがある。時には、神様に向かって「どうしてなのですか」と恨み言を言ってしまうこともあるでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、私共が主イエスを我が主と告白し、主をほめたたえ、神様に向かって「父よ」と呼んで祈っているという事実は消せません。ここに、私共の救いの保証、すでに救われている、神の国を先取りしている、聖霊が与えられているという証拠があるのです。
 聖霊を与えることが出来るのは、父なる神様だけです。この聖霊が与えられているということは、神様が確かに私共を選んで下さっている確かな「しるし」でもあるのです。神様の選びによるなら、これ程確かなことはありません。私共が自分で神様を選んだなどということであるならば、それはまことにあやふやで、いいかげんで、頼りないものでありましょう。いつ気が変わるか分からない。しかし、神様が選んで下さったということならば、これ程確かなことはありません。この神様の確かさの中に、私共の救いはあるのです。
 まことにありがたいことです。この神様の恵みに感謝して、この一週も又、共々に主をほめたたえつつ、福音を宣べ伝えつつ、神の国への歩みを為してまいりたいと、心から願うものであります。

[2008年9月28日]

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