富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「キリストにおいて造られた者」
エフェソの信徒への手紙 2章7〜10節

小堀 康彦牧師

 今朝は召天者記念礼拝として、先に天に召された方々を覚えて、礼拝をささげております。皆さんの手許には、すでに天に召された方々の名前を記した名簿があるかと思います。その中に、自分の愛する者、近しい関係にあった方々の名前を見つけ、その方々を思い起こしながら、礼拝をささげているわけです。昨年の召天者記念礼拝から、この一年で数名の方の名前が増えました。この名簿の名前は、減ることがありません。毎年、少しずつ増えていきます。これは天に召された方々の名簿です。単なる死んだ人たちの名簿ではありません。天の父なる神様に愛され、この地上の生涯を走り抜き、天の父なる神様の御許に召された方々の名簿です。私共は、この名簿を手にしながら、壮大な、数えきれない程の神の国への旅人の群れを思うのです。それぞれの与えられた時代、与えられた場所において、神の国を目指しつつ歩まれた人々の群れです。その数えることの出来ない程のおびただしい数の、神の国への旅人の群れの一番後ろに、私共もいるのです。この名簿は、与えられた馳せ場を走り抜いた人々の名簿です。
 これを(ヘブライ人の手紙12章によって)このようにイメージすことも出来るでしょう。この名簿に記された方々は、神様の御前における競技場、スタジアムにおいて、走るべき行程を走り抜き、ゴールした人々なのです。そして、最後まで走り抜きゴールした人々は、神様と共にスタジアムの観客席に場所を移し、今、信仰の馳せ場を走っている私共を見ている。この夏は北京でオリンピックがありましたが、あのオリンピックのスタジアムで、ボーっと観戦している人はいません。みんな手に汗を握りながら、声も嗄れんばかりに応援しているのです。私は、牧師として生きる中で、いつもこのことを思うのです。この名簿に記されていない方も含めて、すでに地上における信仰の馳せ場を走り終えた人々、私に洗礼を授けた牧師も既に天に召されました、この教会の戦後の牧師であった鷲山先生も召されました、そういう方々を思うとき、恥ずかしい走り方だけはするまい。そう思うのです。「お前はどこを見て走っているのだ。ちゃんと前を見ろ。ちょっと疲れたぐらいで足を止めるな。ゴールまで走り抜け。」もちろん、そんな声が聞こえるわけではありません。しかし、すでにゴールして、天の父なる神様の御許に召された方々を思う時、私の心にそのような思いが湧き上がってくるのです。

 この名簿にある方々の中には、若くして召された方もおりますし、長寿を全うされた方もおります。突然召された方もおりますし、長い闘病生活の末に召された方もおられます。性格も、歩まれた道も、皆違います。しかし、皆、父なる神様に愛された方々です。その神様の愛の御手の中で、私共はこのすでに天に召された方々との出会いが与えられたのでしょう。
 この名簿には、三つの日付が記されています。一つは誕生日です。もう一つは洗礼を受けられた日です。そして、天に召された日です。この三つは、共に神様の愛の御手が、確かにこの人の上にあったということを示している日付なのです。もちろん、この時にだけ神様の御手がこれらの人々の上にあったわけではありません。これらの日付は、明らかな神様の御業が、この人々の生涯を決定的に支配したということを示しているのです。もし、これらの日付の他に加える日付があるとすれば、結婚した日付であり、子どもが与えられた日付であろうかと思います。
 第一の日付である誕生日。これは神様の創造の御業によって、私共のこの地上での歩みが始まったことを示しています。そして、第二の日付である洗礼を受けた日。これは神様の救いの御業がこの人の上に現れた日付です。これは、後で少し詳しくお話ししますが、神様によって新しく造り変えられた日、再創造の日なのです。これは霊の誕生日と言っても良いかもしれません。そして、第三の日付は、この地上での歩みが終わった日付ですけれど、これは神の国における創造の日付なのです。この地上では終わりの日ですが、それは神の国における誕生日でもあるのです。つまり、この三つの日付は、全て神様の大いなる御業、全てを造り、全てを支配され給う天の父なる神様の御業が現れた日を示しているのです。
 誕生日がなければこの地上の歩みが始まらないことは、誰にでも分かります。しかし、これが神様の創造の御業によるのであるということは、誰にでも分かるとは言えないかもしれません。しかし、人は自分で選んで、この時代、この家に生まれたわけではないでしょう。気が付けば、この両親のもと、この家に、この時代に生まれていたのです。これは、自分の思いを超えた、神様の御業なのです。人は皆、この神様によって造られ、この地上の歩みを始めるのです。しかし、人はそれを知りません。自分に命を与えた本当の方を知らず、それ故に、その方に感謝し、その方の御心に従って生きることを知りません。それを罪と言うのです。自分がやりたいようにやり、生きたいように生きる。それが罪なのです。それは結局の所、自分を神とし、自分の損得によって生きることにしかならないからであります。天の父なる神様は、そのような私共をあわれんで下さり、独り子であるイエス・キリストを私共に与えて下さり、神様の御心を求めて生きる者へと、私共を造り変えて下さいました。これが救われたということです。この救いの出来事が現れた日付が、洗礼を受けた日なのです。しかし、この地上の歩みにおいて、私共は完全に善き人にはなれません。私共の愛する、先に天に召された方々も、良い人ではありましたけれど、完全に善き人であったわけではありません。ですから、私共はそれらの人々とケンカすることもあったし、腹を立てることもあったのです。しかし、そのような地上の歩みが終わり、天の父なる神様の御許に召され、キリストに似た者に造り変えられ、神様の御許に生きるようになるのです。この地上での歩みに終わりがなければ、神様の救いの御業、愛の業は完成しないのです。私共は死を目指して生きるのではありません。そうではなくて、死を超えて与えられる、神様の御許における永遠の命に向かって、救いの完成に向かって生きるのであります。

 人は死んだらどうなるのか。これは素朴な問いですが、難しい問いです。これに対しての答え方はいろいろでしょう。目に見える所だけで言うのならば、肉体は朽ち果て、骨になって終わりということになる。しかし、それは何の答えにもなっていません。それはちょうど、人間は卵子と精子が結合して誕生したという答えが、自分はどこから来たのかという問いに対しての答えとなっていないのと同じです。人は死んだらどうなるのか。人はどこから来たのか。この二つの問いは、どちらも同じ答えを求めているのです。それは、自分は何の為に生きるのか、自分が生きている意味は何なのか、という問いでしょう。この問いに対しての答えは、目に見える所だけをいくら捜しても見つかりません。この答えを得るには、目に見えない所に目を注ぐしかありません。
 聖書は、これに対して明確な答えを私共に示します。人は神様によって造られ、神様の御許に召されていく。とするならば、私共の人生は、神様の御心を求め、神様の御心に従って生きることこそ、最も善きことであり、それが私共が生きる目的であり、意味であるということになるのではないでしょうか。そのことを今朝与えられた御言葉は、エフェソの信徒への手紙2章10節「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」と語っています。
 私共は神様に造られたものなのです。しかも、ただ一度この地上の生涯を歩み始めた時に造られただけではありません。それだけでは、誰によって、何の為に造られたか分からない私共の為に、神様はキリスト・イエスにおいてもう一度私共を造り直して下さった。再創造して下さったのです。キリストの教会では、洗礼を受けることを、新しく生まれる、「新生」という言葉を使いますけれど、まさに主イエス・キリストというお方と結ばれ、新しく生まれ変わり、新しく生きる者とされたのが、私共なのであります。この主イエス・キリストによって新しく生まれ変わった者は、善い業を行うことを願い、善い業に励む者となるのです。このお手許の名簿にある方々は、皆、そのようにしてこの地上の生涯を生き抜いた人々なのです。それは、これらの人々がいわゆる善人になったということではありません。短気だった人や頑固だった人も激しい人だった方もいます。いわゆる善人というイメージとは合わない人もいるかもしれません。しかし、聖書が「善い業を行って歩む」と告げているのは、そのようないわゆる善人というイメージで捉えることとは違うのです。この善い業を行うというのは、主イエス・キリストによって示された、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えるということなのです。おだやかとか、優しいというイメージだけで全体を捉えることは出来ません。おだやかとか優しいというのは、その人の性格によっていることが多いでしょう。短気でも頑固でも、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えることは出来ますし、それはその人なりのあり方で良いのです。大切なことは、その人が最早、自分の為だけに生きることはなくなったということです。神様のこと、イエス様のことを、横に置いて生きることはなくなったということなのです。自らの傲慢を知り、罪を知り、それを悔いる者となったということです。

 人と人との関係は本当に難しいものです。一度ねじれてしまいますと、なかなか修復することが出来ません。そこにも、私共の具体的な罪というものが現れています。この名簿の方々も、私共と同じように、そのような人生の悲しみと無縁であったわけではないでしょう。そのような悲しい罪の現実を背負いながら、しかしそれでも、神様に造られ、キリストに新しくされた者として、天の御国を目指して走り抜いたのです。主イエス・キリストに倣って、愛と奉仕に生きようとしたのです。神様はそれを嬉しく思い、喜んで自分の御許へと召して下さったのです。
 私共が救われるのは、善人だからではありません。善い業を積み上げたから救われたのではありません。私共の中には、何もないのです。ただ、神様があわれんで下さり、恵みをもって救って下さった。罪に満ちた私共の為に、私共に代わって主イエス・キリストが十字架の上で死んで下さった。私共が受けるべき裁きを、主イエス・キリストが代わって受けて下さった。ただそのことの故に救われ、神の子とされ、永遠の命に与る者とされたのであります。この名簿に記されている方々は、皆、このことの証人なのです。これらの方々は、この神様のあわれみと真実とを後に続く世代の人々にも示す為に、召され、救われたのです。私共は、この名簿に記された人々を思うたびに、神様の救いの恵みのありがたさを思わされるのであります。そして、これらの方々の後に続く者とされていることの幸いを思うのです。また、これらの人々を先達として与えられていることを誇りに思うのです。ですから私共も又、この地上の歩みが神様の愛の御手の中で閉じられるその日まで、御国を目指して、善き業に励んでまいりたい。次の世代の人々を励まし得る歩みを為してまいりたい。そう心から願うのであります。

[2008年10月26日]

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