富山鹿島町教会

礼拝説教

「キリストによって結ばれて」
イザヤ書 57章14〜21節
エフェソの信徒への手紙 2章11〜18節

小堀 康彦牧師

 先週アメリカでは黒人の大統領が誕生いたしました。公民権運動を指導したマルチン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日に暗殺されてから、ちょうど40年です。オバマ氏の資質や素晴らしい演説の力にもよるのですけれど、50年前には白人と黒人が同じバスにも乗れなかった国で、黒人の大統領が誕生するということは、ほんの少し前まで誰も想像することも出来なかったでしょう。この事態を前にしてアメリカでは、きっと私共に今朝与えられている聖書の箇所を思い起こしている人が少なくないと思います。エフェソの信徒への手紙2章14〜15節です。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」たのです。神様は主イエス・キリストの十字架によって、敵意という隔ての壁を取り壊されたのです。このキリストによる御業が、現実の政治の世界においても表れた。今回の黒人のオバマ氏の大統領選挙の勝利を、そのように理解し、受けとめた人は少なくなかったと思います。この世界には、今もなおたくさんの「敵意という隔ての壁」があります。人種・民族・国、あるいは貧富の差であったり、身分であったり、男か女かということでも隔ての壁がある。しかし、主イエス・キリストは自らの十字架の死によって、その隔ての壁を取り壊し、キリストにあって一つとなる共同体をお建てになった。それがキリストの教会であります。もちろん、現実のキリストの教会は、いまだに隔ての壁を完全に取り壊し切れていないというところがあります。黒人の大統領が生まれたアメリカにおいては、黒人が集う教会と白人が集う教会というふうに分かれているというのも事実です。日本の教会では、信徒の3分の2は女性なのに、女性の牧師や長老が少ないというのも事実です。しかし、それも変わっていくでしょう。何故なら、それら全ての隔ての壁は、すでに主イエス・キリストの十字架によって取り壊されているからです。

 使徒パウロがこの手紙を書いた時、生まれたばかりのキリストの教会の中には、大きな壁が存在していました。それは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の壁です。ユダヤ人にとって、異邦人は救われるはずのない存在でした。ユダヤ人はこう考えておりました。ユダヤ人だけがアブラハム以来の神の民であり、ユダヤ人以外の民、異邦人が救われるなどということは考えられない。ユダヤ人は、「何故、神様は異邦人を造られたのか」という問いに対して、「神様は異邦人を地獄の火の薪とする為に造られた」と言っていた程でした。逆に、ユダヤ人以外の人にしてみれば、聖書の神様というのは自分達とは関係ないユダヤ人の神でしかありませんでした。しかし、聖書の神様は天地を造られた神様であって、ユダヤ人だけの神様ではありませんし、異邦人を地獄の火の薪として造られた方でもありません。神様は全ての民を救いに与らせる為に、アブラハムを選び、神の民イスラエルを導き、自らがまことの神であることをお示しになりました。そして、ついに時が満ちて救い主イエス・キリストが誕生し、その十字架の死をもって罪を滅ぼし、全ての民を神の民として、新しいイスラエルとして、神の家族として招いて下さったのです。そこに誕生したのが、キリストの教会です。
 キリスト者というのは、このことを知っている者です。全ての人は神様によって造られました。しかし、そのことを知らず、神様から遠く離れて生きていた。にもかかわらず、神様は御子を与え、その十字架により私共の罪を赦し、私共を神の民に加えて下さった。この神様の救いの御業による再創造、キリストによって新しい存在へと造り変えられた者、それがキリスト者なのです。
 私共は忘れてはなりません。自分たちが、どうして神様に向かって「父よ」と呼びかけることが出来るのか。どうして死によって終わることのない永遠の命に与る希望を与えられているのか。私共は皆、父なる神様を知らず、永遠の命の希望を知らずに生きていたのではないですか。しかし、今はそうではありません。13節に「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」とあります。ここで、翻訳上「しかし」と「今や」が少し離れて訳されていますけれど、元のギリシャ語では「今、しかし」と続いているのです。ここは「しかし、今や」と訳すべき所です。「しかし、今や」なのです。神を知らず、何が罪であるかも知らず、それ故まことに正しい道も知らず、死んだら終わりというところに生きていた私共。神様の救いから遠く離れ、異邦人であった私共。「しかし、今や」です。しかし、今では違うのです。日曜日の朝になると、このように集い、共々に父なる神様を拝む者となった。誰憚ることなく、神様を「父よ」と呼び、神様を愛し、神様の御手の中にある自分を喜び、神様と共に生きる者とされた。何という違いでしょう。「しかし、今や」なのです。この「しかし、今や」の事態を生むために、主イエス・キリストが来られたのです。この主イエス・キリストによって、「しかし、今や」と言い切れる者へと変えられたのです。

 私は、キリスト者となり聖書を読み始めた頃、この異邦人という言葉に少し引っかかりを覚えていました。日本人から見れば、日本人以外は異邦人となる。外国に旅行すれば、その国では自分は異邦人である。それは分かります。しかし、聖書が語る異邦人というのは、ユダヤ人以外の全ての人です。神様は全ての民を造られたのだから、ユダヤ人以外を異邦人というのはおかしいのではないか。まして、自分はキリスト者となったのだから異邦人ではない。そう思っていました。確かに、主イエス・キリストの御業によって、最早キリスト者には異邦人もユダヤ人もないのです。しかし、そのことと異邦人であるということが判らないということは別です。
 私はある時、自分は確かに異邦人だったのだということに納得しました。それは、旧約聖書を読んでいてのことでした。その頃私は、ほとんど新約聖書しか読んだことがありませんでした。何度か旧約聖書を読もうとしたのですが、何とか創世記は読み終え、出エジプト記の20章、十戒の所までは行けるのですが、その後の細かな律法の所に来ると、どうしても読み進めなかったのです。皆さんの中にも、そういう人は少なくないのではないでしょうか。それでも何とか拾い読みのようにして旧約を読むわけです。ところがこの旧約の話が、どうもピンと来ない。これはユダヤ人の歴史であって、自分には遠い世界の話、もっと言えば、自分には関係ない話にしか思えなかったのです。しかしある時、これが自分は異邦人であったということなのだと気付いたのです。神の民とされていながら、神の民の歴史を遠い世界のことと感じてしまう。新約聖書を読んでいる時には感じない感覚です。それは、なじみがあまりないということも原因の一つでしょうけれど、それだけではない。イスラエルの歴史を外国の歴史としか読めない。それが異邦人ということなのでしょう。ユダヤ人はそのような感覚で旧約を読むはずがないのです。自分の先祖の大切な歴史として読むはずなのです。私共が神の民とされたということは、この旧約の歴史も又、霊における先祖といいますか、自分が加えられた同じ神の民の歴史として読むことが出来る者とされたということなのでしょう。しかし、そのことを十分に受けとめることが出来ていない。これが異邦人であったということなのだと思い至ったわけです。その時から、旧約をも「聖書」として、神の言葉として読むことが少しづつ出来るようになったのだと思います。

 ユダヤ人と異邦人は、互いに遠い存在、自分とは関係ない存在でした。しかし、主イエス・キリストの十字架によって、全ての民が神様の赦しに与ることになった。「しかし、今や」です。このことにより、ユダヤ人も異邦人も、共に一つの神の民を形成する者となったのです。「しかし、今や」です。そして、この恵の中に誕生したのがキリストの教会なのです。パウロの時代、このユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との関係は、大変難しいものがありました。キリスト者も洗礼を受けただけではダメで、割礼も受けなければならない、律法も守らなければいけないと、ユダヤ人キリスト者の中で主張する人たちがいたのです。同じ教会の中で、そのようなことが起きていたのです。パウロは、そんな争いをしているようでは、キリストの十字架を無駄にしてしまう。そう考えました。主イエスの十字架は、全ての人と神様との間を和解させたものではないか。そのキリストの十字架の血に与っている者同士が、互いに争うとはどういうことか。キリストが、全ての民と神様との間を和解させられた以上、全ての民同士も又、この和解の中に生きるのだ。そうでなければ、キリストの十字架を無駄にしてしまうことになる。パウロはそう告げたのです。
 それは、先程お読みいたしました旧約のイザヤ書57章19節にある「平和、平和、遠くにいる者にも、近くにいる者にも。」の予言の成就である、とパウロは見たのです。このイザヤ書57章14節以下は、救い主が来られて、神様の救いの御業が実現されることへの予言が記されている所です。15節「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」16節「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。」18節「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。」まさに、主イエス・キリストによって与えられた救いの現実を予言している所でしょう。エフェソの信徒への手紙2章17節「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」は、このイザヤ書57章19節から示された言葉であると考えて良いと思います。「遠く離れているあなた方」というのは、「神様から遠く離れていた」とも理解できますし、「ユダヤ人からとおくはなれていた」とも理解できます。ここは、どちらかでなければいけないというよりも、両方の意味で受け取る方がよいと思います。つまり、神様との間の平和があたえられ、そして人と人との平和が生じる。そして、それが具体的な所で実現する場、それがキリストの教会である、とパウロは告げているのです。
 15節「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」とあります。ユダヤ人と異邦人という、互いに敵対しあっていた者を、「一人の新しい人に造り上げる」というのです。この「一人の新しい人」というのは単数形です。ユダヤ人と異邦人がそれぞれ、新しい人になるというのではないのです。だったら複数形でなければなりません。この「一人の新しい人」というのは、実にキリストの体である教会を指しているのです。18節には「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」とあります。教会という存在は主イエス・キリストの体ですが、それは互いに敵対していた者を一つに結び合わせて、互いに一つの霊、キリストの霊によって結ばれて、共に父なる神様に近づき、共に礼拝し、キリストの人格を表すものとされているということなのであります。つまり、ユダヤ人も異邦人も、隔ての壁を壊され、キリストの霊によって結ばれて、一つにされて、キリストのご人格を顕す一人の新しい人、キリストの体である教会を形作るようになるということなのであります。

 14節に「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とあります。キリストが私共と神様との間に平和をもたらしたのであり、私共同士の間にも平和をもたらしたからであります。そして、このキリストの中に宿るならば、私共自身が平和とされていくのであります。実にキリストが平和なのです。キリストが私共を結びつけ、私共の中に宿り、私共がキリストの中に宿るならば、私共は神様との間に平和を得、人と人との間においても平和を与えられるのであります。平和というのは、私共の努力目標ではありません。主イエス・キリストにおいて与えられている恵の現実なのです。そして、それが具体的に目に見える形で現れる場、それが教会なのです。
 私共は、誰でも平和が欲しいのです。誰も好き好んで争いをするわけではないでしょう。しかし、それにもかかわらず、なかなか平和にならない。どうしてなのか。理由はいろいろあるでしょう。しかし、その根本には人間の罪というものがあるのでしょう。それは間違いのないことであります。しかし、私共はすでに罪赦された者であります。とするならば、私共は自らの罪が引き起こす罪の現実から引き出されなければなりませんし、その中に留まり続けてはなりません。キリストの平和の中に生きるのです。
 聖書はここで、この争いの現実から抜け出す道を示していると思います。一つは、平和はキリストの十字架の血によって与えられたものであるということを、心に留めるということであります。平和の中に生きようとしないのならば、それはキリストの十字架の血を無駄にするということを、よくよく心に刻むということです。そして、第二に、キリストの霊に結ばれて父なる神様に近づく、神様にアバ父よといって祈り、神様を礼拝するということであります。この礼拝の場において、私共は平和となるからです。
 私共の礼拝では行っていませんが、キリストの教会の礼拝の中で、古くから「平和のあいさつ」というものが為されてきました。礼拝の中で、「主の平和」と言って、礼拝に来ている者が隣り、前、後ろの人とあいさつするのです。国によっては、握手をしたり、抱擁したりします。聖餐に与った後で為されることが多いと思います。キリストの御言葉に与り、キリストの血と肉とに与った者が、まず為すべきことは、互いに平和であることだからなのでしょう。キリストによって、すでに平和が与えられている。このことを喜び祝うことなのでしょう。
 主イエス・キリストは、律法を二つにまとめて、「神を愛し、人を愛すること」と言われました。神様との関係と隣人との関係はひとつながりのことだからです。私共は主イエスの十字架により、神様との間の平和を与えられました。そしてそれは、隣人との間の平和へとつながるものなのです。人と人との平和というものは、なかなか私共の努力で生み出すことは難しい。私共はこのことに関して、しばしば絶望的な思いになることさえあります。しかし、主なる神様は全能の力をもって、私共を全き平和へと導いて下さっています。この全能の神様の御業を信じて良いのです。父なる神様が、御子の十字架の血を無駄にされるはずがないからであります。そのことを私共は信じて良いのです。そのことを信じ、神の平和を告げ、平和を求め、平和を造り出す者として、この一週も歩んでまいりたいと心から願うのであります。 

[2008年11月9日]

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