富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「神は我らと共におられる」
イザヤ書 11章1〜10節
マタイによる福音書 1章18〜25節

小堀 康彦牧師

 クリスマス記念礼拝を守っております。今日は一人の幼な子の幼児洗礼と二人の成人の洗礼が行われます。まだ生まれて6か月の幼子、そして87歳の男性と30代の女性の三人です。この3人の方は、人生の全く違う時に洗礼を受け、新しくキリスト者として歩み出そうとされているわけです。まことに神様の導きの不思議というものを思わずにはおられません。神様はお一人お一人、全く違うあり方で、全く違った時に、同じ救いへと導かれる。ここで行われる洗礼は、全く同じ洗礼なのです。この洗礼により、神様と契約が結ばれ、キリストの体に結び合わされ、神の子、神の僕となり、永遠の命を受け継ぐ者とされ、神の国を目指して歩む者となるのです。それは、この洗礼によって神様と共にある歩みが始まると言っても良いでしょう。もちろん、神様はすでにこの三人の方と共にいて下さった。ずっとずっと前から共にいて下さったのです。しかし、今まではそのことを知らずに生きて来られたのでしょう。しかしこれからは、神様が共におられることを知っている者として生きるのです。
 この神様が自分と共にいて下さるという事実に、私共の目がいつも開かれている為には、私共は祈っていなければなりません。祈ることなくして、神様のとの交わりに生きることなくして、神様が自分と共におられるということが分かるということはないのです。ですから、洗礼を受けられる方は、これからは何よりも日常の生活の中で、「祈る」ということをしっかりと確立していっていただきたい。日々の習慣にしていっていただきたい。何事につけても祈るということを普段の生活にしていって欲しい。このことについて、私は牧師ですけれどあれこれと手伝うことは出来ないのです。一緒に祈って、祈りの手ほどきをすることは出来ますし、祈りについて共に学ぶことも出来ます。今までもそうしてきました。しかし、日々の生活の中で祈るということを習慣づけ、祈りの生活を確立していくのは、お一人お一人の使命です。誰も代わることは出来ません。どうか、祈りつつ、神様が自分と共にいて下さっているという恵みの現実に目を開き、その恵みを味わい、神様を愛し、神様に従い、私共と共々に神の国への歩みを為していっていただきたいと心から願うのです。

 今朝与えられております御言葉におきまして、マタイによる福音書が告げるクリスマス、主イエス・キリストの誕生の次第が記されております。私共はクリスマスと申しますと、羊飼いや天使、飼い葉桶を思い出しますが、それはルカによる福音書が告げるクリスマスです。マタイにおいて、そのようなことは何も記されておりません。今日与えられたところでは、ただヨセフと天使のやり取りが記されています。マリアさえ出て来ません。ヨセフとマリアは婚約しておりましたが、その婚約中に、マリアが身ごもっていることが明らかになったのです。お腹に子を宿すということは、嬉しいこと、喜ばしいことであるはずですが、この時はそう話は簡単ではありませんでした。ルカによる福音書では、マリアが主イエスをお腹に宿す前に、天使ガブリエルから聖霊によって身ごもるということを告げられたことを記しています。ですから、マリアは自分の体の変化の理由を知っていたのでしょう。しかし、夫となるはずの婚約中のヨセフにしてみれば、自分には身に覚えがないことであり、マリアが別の男性との間に子を宿したと考えるのが普通でしょう。結婚前の一番楽しいはずの時に、ヨセフとマリアの間には、あまりに重い課題が与えられました。
 聖書は告げます。19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」当時のユダヤの法に照らすならば、マリアが婚約中に他の男性との間に子をもうけたということになれば、たとえ婚約中であっても、それは石打ちの刑によって処刑されなければならないことだったのです。ヨセフは、それはあまりに忍びないと思ったのでしょう。そこで、マリアとの婚約を解消することにしたのです。そうすることによって、マリアは石打ちの刑を逃れることが出来ます。しかし、マリアは未婚の母として、そのお腹の子は私生児として、生きていかなければなりませんでした。二千年前のユダヤにおいて、それはどんなにつらい人生を強いることになるか。ヨセフはそのことも承知していたでしょう。しかし、石打ちの刑よりは良い。この時、ヨセフの中には、マリアを受け入れるという選択肢はありませんでした。当然といえば当然でしょう。マリアはヨセフに、「お腹の子は聖霊によるのだ、そう天使ガブリエルが告げた。」と話していたかもしれません。しかし、そんなことをどうして信じられるでしょうか。ヨセフは、婚約解消しかない、そう思っていたのです。

 ここにいるヨセフは普通の人です。特に信仰深いということでもない。常識的で、当時のユダヤ人なら誰でもそうであったように、律法に従って生きていた、大工でした。しかしこの時、主の天使がヨセフの夢に現れて告げたのです。20〜21節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」この時ヨセフに告げられた天使の言葉は、主イエスを身ごもる前にマリアが天使ガブリエルから告げられたことと同じだったのです。言葉は違います。しかし内容は同じです。マリアは聖霊によって身ごもる、その子の名をイエスと名付けよ、その子は救い主である、というものでした。ヨセフは、これは「夢」に過ぎない、そう無視することも出来たかもしれません。しかし、彼はそうしませんでした。どうしてか。それはヨセフにとって、この夢における天使のお告げが真実であると、疑う余地なく確信することが出来たからです。
 私は、この時天使がヨセフに告げたのが夢の中であったということは、それ程重要な点だとは思いません。ヨセフに対しては、この時はたまたま夢の中でしたが、マリアに対しては夢の中ではありませんでした。夢であろうとなかろうと、ヨセフはそれを疑い得ない、神様のお告げとして受け取らざるを得ないものとして聞いたということです。これは聖なる体験と言っても良いでしょう。この聖なる体験というものを無視して信仰は語れませんし、教会の歴史を語ることも出来ません。神の民の歴史は、この聖なる方との出会いと導きによって織りなされてきたものなのです。召命とは、そういうものです。ヨセフはこの時、召命を受けたのです。聖霊によって身ごもったマリアのお腹の子を、全ての民を救う者として、イエスと名付けて育てる、その召命を受けたのです。そして彼の人生は、この出来事によって決定したのです。
 この召命という聖なる体験については、全てのキリスト者が知っていることですが、一つの例を挙げてみましょう。宗教改革者カルヴァンです。彼はたまたまジュネーブを通りかかった時に、その時ジュネーブで宗教改革にあたっていたファーレルという人と出会いました。そして、「このままジュネーブを通り過ぎ、宗教改革の任に着かなかったなら、神の裁きに遭うであろう。」と告げられたのです。この時カルヴァンは古典学者になろうとしていました。しかし、彼はこのファーレルの言葉を神様の言葉として受けとめ、ジュネーブでの宗教改革にあたることになったのです。天使も夢も出てきませんけれど、カルヴァンにとってファーレルの怒鳴り声は、神様の裁きの声のように聞こえ、神様の拒むことの出来ない召命として受けとめたのです。
 ヨセフは夢の中で天使のお告げを聞きました。マリアはそれより前に、天使ガブリエルからお告げを受けていました。二人は別々に、しかし同じ内容のことを告げられ、二人でお腹の子を育てていく召命を受けたのです。私は、ここに一つの神様の御心に従って生きる夫婦の姿が示されていると思うのです。私共はカトリック教会のように、ヨセフとマリアそれに主イエスの3人に対して聖家族という言い方はしません。しかし、ここには、神様の召命を受けて、それに従った夫婦の姿があることは間違いありません。大切なことは、ヨセフとマリアは別々に、しかし同じことを神様によって示されたということ。そして、二人はそれを受け入れ、それに従って生きたということです。マリアとヨセフが仲が良かったのかどうか、どんな夫婦であったのか、そんなことは聖書に記されておりません。それが一番重要なことではないからです。重大なことは、二人は別々に、しかし同じことを神様に示され、二人はそれに従ったということです。この別々にということは、別々の時に、別々のあり方でということです。召命というものは、一人一人与えられるものなのです。みんな一緒にではないのです。しかし、夫婦として歩む二人には、同じことが示されたのです。そして、二人はそれに従った。そして、離縁の危機は乗り超えられたのです。

 インマヌエル。神、我らと共にいますという恵みは、まずこのヨセフとマリアの夫婦の上にあったのではないでしょうか。神様が私共と共にいて下さるということは、天使がヨセフに告げたように、恐れなくて良いということなのです。恐れずに一歩を、神様の御手の中に踏み出せるということなのです。この時ヨセフは恐れていたのです。このままマリアを妻に迎えて、自分はマリアと関係していないことを表ざたにして、マリアを石打ちの刑にするのか。表ざたにしないで離縁するか。そうすれば、この二人の前には困難な人生が待ち受けていよう。だったら、何もなかったようにマリアを妻として迎え入れられるか。それは出来ない。第一、それは律法違反になる。それに、そんな風にしてマリアを受け入れて、本当にマリアとそのお腹の子を愛していけるのか。それは無理だ。ヨセフは恐れていた。しかし、ヨセフは天使のお告げを受け、安心してマリアを、そしてお腹の子を受け入れることが出来たのです。
 こうなったらどうしよう。ああなったら困る。私共は明日に対して、あまり明るい見通しを持っていないかもしれません。特にこの急激な世界同時の不景気という状況の中で、連日の痛ましい報道の中で、どうして明るい明日を考えることが出来るのか。しかし、聖書は告げるのです。「神は我らと共におられる。」私共の明日は、神様の御手の中にあり、その神様が、今日も明日も、私共と共にいて下さる。だから安心しても良い。必ず守られるのだから。
 神様は、愛する独り子をヨセフとマリアの子として地上に下らせられました。それは、神様御自身が私共と共にいて下さるということの、確かな証拠を与えて下さる為でありました。神様は天の高みにいて、私共を見ているだけではないのです。主イエスとして肉体をとり、文字通り、私共と共に歩んで下さったのです。それどころか、愛する独り子イエス・キリストを、私共の為に、私共に代わって、十字架におかけになり、一切の罪を赦し、私共を神の子、神の僕として下さったのです。子を愛さぬ親はありません。まして、天の父なる神様は、私共を愛し、私共を守り、私共を全き救いへと導く為に、その全能の力を用いて下さいます。神様が私共と共にいて下さるなら、私共は何を恐れることがあるでしょうか。キリスト者とは、神様が自分と共にいて下さることを知っている者なのです。ヨセフとマリアは、神様の召命を受け、自分の人生を神様の救いの御業の舞台としたのです。私共の人生も同じです。神様が私共と共にいて下さるということは、何か自分に都合の良いことが次々に起きるということではないのです。そうではなくて、私共の人生が神様の救いの御業の現れる所となる、神様の救いの御業の舞台となるということなのです。

 私共はこれから、洗礼式に臨み、その後で新しく洗礼を受けた方々と共に、聖餐に与ります。この聖餐は、神様が私共と共におられることを、最も明らかな形で私共に示すのです。キリストの体を食し、血を飲むことにより、キリストと私共が一つとされることを知る。神の独り子である主イエス・キリストと一つにされるということは、キリストは神様と一体なのですから、私共も又、神様と共にあるということになるのです。この聖餐は、実に私共を聖なる体験へと導くものなのであります。神様が自分と共におられことが分からなくなったなら、聖餐に与りなさい。主は我らと共に、我らのただ中におられるのです。そのことを信仰をもって受けとめ、感謝と賛美をもって、主が導き給う神の国への歩みを共々に為してまいりましょう。

[2008年12月21日]

メッセージ へもどる。