富山鹿島町教会

礼拝説教

「教会の成長」
民数記 11章1〜17節
エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節

小堀 康彦牧師

 2008年最後の主の日の礼拝を守っています。先週はクリスマス記念礼拝、祝会、子どものクリスマス会、キャンドルサービス、キャロリングと、クリスマスの喜びの祝いが続きました。まだ私共はその余韻の中にあると言って良いでしょう。
 クリスマスは、神の独り子が天より降り、人間としておとめマリアより生まれた出来事です。これを「受肉」と言います。実に驚くべき出来事です。天地を造られた永遠の神の子が、永遠にして無限の神が、どうして人間として、幼子として生まれたのか。まことの神がとうしてまことの人となり得るのか。まことに不思議なことです。しかも、このクリスマスにお生まれになった主イエス・キリストというお方は、ただ天から降っただけではないのです。十字架にかかり、死んで陰府にまで降り、更に降っただけではなくてよみがえり、そして天に昇られたのです。今は天におられるわけですが、そこから私共に聖霊を注ぎ、信仰を与え、私共の全ての歩みを支配しておられます。この一連クリスマス・十字架・復活・昇天・聖霊降臨という主イエスの救いの出来事は、主イエスの動き、運動として見るならば、天から地、地から陰府、陰府から地、地から天、更に天から地ということになるでしょう。実に、天と地と陰府とを貫く動きであります。この運動こそは、主イエス・キリストというお方が誰であり、何を為された方であるか、今も為しておられる方であるかということを示しております。私共人間は、この地上の歩みしか見ることも考えることも出来ませんけれど、主イエスというお方は、天と地と陰府とを貫く運動をなさり、そのことによって、神様の御心をお示しになったのです。このようなことがお出来になるのは、主イエスというお方がまさに神様でなければ出来ないことでありましょう。そして、この運動の中に、愛が現れております。私共に対しての神の愛です。天から地へと降る。その地において苦難を受け、十字架にかけられる。陰府にまで降る。どうしてそこまで神の独り子が降られなければならなかったのか。私共を救う為です。私共を愛し、滅びから救い出す為であります。私共の為に、私共に代わって、降られたのです。そして、陰府にまで降られた運動は、一転して上昇へと転じます。復活であり、昇天です。私共を永遠の命、復活の命へと導く為です。私共の為に天の住まいを備える為であります。そして、私共に聖霊を注ぎ、新しい神の民を創り、全き救いへと導く為であります。
 主イエス・キリストというお方を、まるで実験室のモルモットのように分析し、把握し、理解することは出来ません。主イエスは天地を貫き自由に運動されるからです。私共はただこの主イエスの動きを追いかけ、その御業に驚嘆し、ほめたたえ、ぬかずくしかない。使徒パウロはここで、主イエスというお方を、その天地を貫く動きの中で見ているのです。それが8〜10節で語られていることです。
 では、この主イエス・キリストの天地を貫く運動は、何の為に為されたのでしょうか。それはもちろん、私共の救いの為であります。この救いということは、私共にとって都合の良いことが起きるというようなことではありません。病気が治ったり、仕事がうまくいったり、その程度のことではないのです。もちろん、そういうことも起きるでしょう。しかし、私共が救われるというのは、そんなことではないのです。私共が救われるというのは、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命に与るということです。神の子とされ、神の僕となり、神様との永遠の交わりに生きるようになるということであります。

 この私共が、そのようなとてつもない神様の救いに与る為に、主イエス・キリストは来られました。そして、この主イエスによる救いの御業が私共の救いとなる、この世界の救いとなる、その神様の救いの御業の進展には要となるものがあるのです。主イエス・キリストの受肉・十字架・復活・昇天の一連の救いの御業が、二千年たった今、地球の裏側の私共の救いとなる為に、神様は要となるものを備えて下さった。それが教会です。パウロはここで、主イエスの天地を貫く救いの運動を告げ、すぐに教会へと話を進めるのです。この教会という存在は、実に天地を貫く主イエス・キリストの救いの御業が全世界に広がり、全ての人を救いへと招く為に、神様が建てて下さったものなのです。10節から11節へのつながりには、何の説明もないのです。キリストの天地を貫く運動、それは私共の救いの為であった。そして教会が建てられた、ということなのです。主イエスの天地を貫く救いの運動が、教会へと直接繋がっているのです。
 私が洗礼を受け、訓練を受けた牧師は、よくこう申しておりました。「教会は信仰株式会社ではない。」つまり、教会という存在は、信仰者が自分の信仰を出し合って建てていくようなものではない、そんなもので教会は建ちはしない、と言われたのです。正直な所、初めは何のことかよく分かりませんでした。教会というのは、皆が献金をささげ、様々な奉仕を担い、それで会堂を建て、牧師を招いて毎週礼拝し、伝道しているのではないか。そんな風に思っていたからです。もちろん、教会にはそういう面もあるのです。しかし、このような理解では、教会がキリストの体であることは分かりませんし、どこか教会というものを、自分たちが建てることの出来るものだと勘違いしてしまうのではないでしょうか。もっと言えば、教会というものを、自分たちの都合で考えるということになってしまいます。教会というものは、人間の都合によって生まれたのではなくて、神様が救いの御業を遂行する為に備えて下さったものなのです。ここが大切な所、肝心な所なのです。
 教会というものは、あってもなくても良いけれど、あった方が良い。そんなものではないのです。私共が救いに与る為には、信仰生活というものが守られていかなければなりません。この信仰生活という場合、教会生活と個人の信仰生活というものがあるでしょう。日々の祈りという、この個人の信仰生活というものが大切であるには違いませんけれど、私共の実際の信仰を考えてみますと、教会生活がなくなれば、毎週の礼拝を守らなくなれば、信仰生活を続けるということは難しいのではないかと思うのです。そのことだけを見ても、教会というものがどうしても無くてはならないものであり、教会というものが神様によって私共の救いの為に備えられたものであるということが分かるのではないかと思うのです。

 この教会ということについて、与えれている御言葉から三つの点について順に見ていきたいと思います。
 第一に、教会には制度があるということです。11節に「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」とあります。ここに示されているのは、パウロがこの手紙を書いた当時、まだ生まれたばかりのキリストの教会において、このような職務を持った人がすでにいたということです。教会には、その始めから、神様の救いの御業を遂行する為に人が立てられる制度というものがあるのです。無秩序ではないのです。聖霊なる神様は、その救いの御業を遂行する為に自由に働かれますけれど、その自由な御業の結果、このような制度が整えられてきたのです。もちろん、制度は絶対ではありません。聖霊なる神様の導きの中、時代により、国により、教派により変わっていくのです。しかし、それは無秩序ではありません。先程、旧約の民数記をお読みしましたが、神の民は旧約以来、出エジプト以来、その神の民を導く為に長老が立てられてきたのです。そして大切なことは、それらの職務は、奉仕の業に仕える為に立てられたということです。これらの人々は、神の民の上に君臨する為に立てられたのではないのです。奉仕する為、仕える為です。しかしそれは、神様にお仕えし、神様の救いの御業にお仕えする為です。そしてそれは、何よりも神様の御言葉を宣べ伝えていく為に他なりません。この「仕える」ということは、教会の人たちの気分を良くし、その為にサービスする為に仕えるのではないのです。神様の救いの御業に、御言葉を宣べ伝える業に仕える為なのです。

 第二に、教会は一人一人が組み合わされるということです。16節に「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」とあります。この組み合わされるのも又、キリストの救いの御業に仕える為です。 具体的に考えてみましょう。この主の日の礼拝ですが、これを毎週守る為に、実に多くの人たちが組み合わされ、奉仕が為されているのです。日曜日の朝、教会に来れば、礼拝は何事もないようにいつも守られています。しかしこの為に、週報を作る人がおり、それを印刷する人がおり、それを週報ボックスに入れる人がいる。奏楽する人がおり、司会する人がおり、説教する人がいる。暖房のスイッチを入れる人がおり、ストーブに灯油を入れる人がおり、お掃除をする人がいる。教会学校の子供たちの為に準備する人がおり、月報「こだま」を作る人がおり、お花を持ってくる人がおり、それを生ける人がおり、受付をする人がいる。献金を扱う人がいる。私共は、このキリストの救いの御業に仕える者として組み合わされた群れであることを忘れてはなりません。神様の救いに与る私共は、この神様の救いの御業の為にお仕えする者でもあるのです。この二つは、分けることは出来ないのです。私は救いに与る人、あの人は救いの御業に仕える人。そんな風に分けることは出来ないのです。先週、洗礼式が行われました。この洗礼によって、私共は神の民の一員となったのです。神の民とは、この神様の救いに与る民であると同時に、この神様の救いの御業に仕える為に立てられた民なのです。私は何が出来るのか。何をするように召されているのか。そのことを、お一人お一人、きちんと受けとめなければなりません。7節で「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と告げられています。私共にはそれぞれ賜物が与えられているのです。私には何もない。そんな人はいないのです。自分に与えられている賜物は、神様からの恵みであり、それはキリストの救いの御業にお仕えする為にささげられるものなのです。
 週報にありますように、教会案内のパンフレットが出来ました。実は、この春に前の教会案内がなくなったので、新しく作らなければならないことになっていました。文章の部分は私がすぐに書いたのですが、写真を入れることがなかなか出来ず、時間がかかりました。恥ずかしいことですが、私が一人で原稿を作ろうとしていたのです。その為、長く私のパソコンの中に入ったままになっていたのです。遂に、私だけでは出来ませんと手を挙げました。するとすぐに何人かの方が手伝って下さり、写真が入り、完成しました。私が一人で作ろうとしたままなら、まだ出来ていなかったでしょう。だいたい出来た所で、多くの人のチェックも入りました。表紙のデザインが悪い。文章のここが間違っている。実に多くの人が関わり、出来上がりました。私は改めて、教会とはこういう所だということを思いました。そして、このキリストの御業にお仕えするという具体的な作業の中で、私共は組み合わされ、結び合わされていくのだということを思わされたのです。

 第三に、教会は成長するということです。教会の成長とは、人数が増え、予算が増えるということではありません。それは神様の恵みとして与えられるでしょうけれど、教会が成長するという時に第一に考えられるべきことは、そういうことではないのです。教会が成長するということは、キリストの御人格がそこに現れる交わりとなっていくということなのです。それは、私共一人一人の人格がそのように成熟していくという面もありますけれど、それ以上に、この教会における交わりがキリストの御人格を表すようになるということなのです。神様が分からない、キリストが分からない。そういう人が、この教会に来れば分かる。この交わりに身を置いていると分かってくる。そういう交わりになるということです。だから、教会はキリストの体と言われるのです。ここにキリストがおられることが分かる、明らかにされる、そういう存在だからです。
 13節を見ますと、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」とあります。ここで「成熟した人間になり」とありますが、この「人間」という言葉は単数形なのです。主語は「わたしたち」なのですから、複数形でなければならないはずです。しかし、単数形なのです。それは、「成熟した人間」、これは「完成された人間」という意味もありますけれど、これは私共一人一人のことを示しているのではないということなのです。そうではなくて、わたしたちが組み合わされ、一つとなって、一人の成熟した人間となるということなのです。つまり、教会がキリストの体として、一人の成熟した人間としての人格を現すようになるというのです。この完成された、成熟した人間とは、主イエス・キリストを指していると考えて良いでしょう。つまり、私共がキリストの満ちあふれる豊かさ、それは愛の豊かさでしょう、それを現す交わり形作るようになるということなのです。そして、その交わりの中で、私共一人一人がキリストの御業にお仕えしていく中で、私共の信仰・愛・人格というものも成熟していくということなのであります。
 このことを信仰の教理、あるいは信仰告白の面から言うならば、神の子イエス・キリストに対する信仰と知識において一つとなるということであり、時代と共に変わる人間の教えに惑わされることのない真理を語るということになるのです。
 愛と教理は、必ず結ばれるものなのです。愛と教理はしばしば分裂して、或いは対立して受け取られることがあるようですが、それは間違いです。キリストについての教えは良く知っている、しかし愛に生きることはしない。そんなことはあり得ないことなのです。キリストについて知り、キリストを信じるということは、その愛に生きるということだからです。教理的にしっかりとした、そして愛に満ちた交わり。それが、私共に与えられている教会が成長していく道筋なのです。この愛も教理も、共に主イエス・キリスト御自身を指し示すことになるからです。
 パウロは、キリストの使徒として、福音宣教に生涯をささげました。彼がキリストを愛していることは疑いようのないことです。そのパウロがその愛の業として為したのは、福音宣教であり、もっと具体的に言えば、教会を建てるということだったのです。彼が伝道した所にはキリストの体なる教会が建っていきました。彼を悩ませたのも、教会に起きる様々な問題でした。彼にとって、キリストを愛することは、教会を愛することであったのです。私共は、キリストを愛しています。しかし、それが教会を愛するということと一つになりませんと、まことに頭でっかちの、バランスの悪い信仰になってしまうのでありましょう。キリストを愛するが故に、教会を愛し、キリストの御業にお仕えする故に、教会の業に仕える。ここに同じキリストの御業に仕える者としての交わり、同労者としての交わりというものが生まれていくのでしょう。私は、この教会における愛というものは、「人類は皆兄弟」というようなヒューマニスティックな愛というよりも、同労者の愛、もっと言えば、共に一つの戦いを為している戦友の愛とでも言うべきものなのではないか、そう思うのです。それは実に具体的であり、濃厚なものです。傷つき、倒れた戦友がいたら、肩に担いでいくのです。共に一つの目当てに向かっての進軍中だからです。2009年の新しい歩みも、そのような歩みを為してまいりたいと、心より願うものであります。

[2008年12月28日]

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