富山鹿島町教会

礼拝説教

「新しい人」
創世記 1章24節〜2章1節
エフェソの信徒への手紙 4章17〜24節

小堀 康彦牧師

 今朝与えられております所から、エフェソの信徒への手紙は、キリスト者としての個人の生き方、倫理の問題を扱います。パウロの手紙の多くは、その前半において教理、つまり主イエス・キリストによる救いを語り、後半において倫理、つまりキリスト者の生き方、生活について語ります。このエフェソの信徒への手紙も同じ構造を持っています。この救いの教理から倫理へという順序は、とても大切であります。神様によって救われた、救われている、だからこのように生きよう。そうパウロは告げるのです。私共はこの倫理について語る所を読む時も、その前提となっております主イエス・キリストによる救いというものを、いつも思い起こしていなければならないのです。主イエス・キリストによる救いの恵みと切り離されたところで、どのように立派な生き方が告げられようと、それは恵みの言葉とはならないからです。私共を生かし、救いの完成へと導いていく喜びの福音にはならないのです。
 このエフェソの信徒への手紙の今までの流れをなぞって申しますならば、私共は天地が造られる前から選ばれ、主イエス・キリストによって救われ、神の栄光をほめたたえるようにと導かれている。そして、主イエス・キリストと一つとされ、キリストの平和を実現する者とされている。それは全て、ただ神様の恵みによる。キリストは私共の心の内に住み、私共を愛に生きる者として下さり、ただ一つのキリストの体を形作られる。私共はこうして、キリストの体の肢として、キリストに向かって成長していく者とされている。だから、こう生きよう。そう続いているということです。この流れをきちんと受けとめて読みませんと、この倫理的教えの所は必ず読み間違えるということが起きると思います。聖書の言葉はその文脈において読まねばならないのですが、この倫理を扱う所においては、特にそのことが意識されていなければならないと思います。このことは、これから読み進めて行きます倫理の部分を語る時、繰り返しお話しすることになると思います。
 私は牧師として倫理や律法について語ります時に、ある難しさを感じています。それは、キリスト者としての倫理や律法を語りますと「分かりました。要するに、こういう風に生きれば良いのでしょう。」という反応にしばしば出会うからです。確かにその様に生きて欲しいわけですけれど、何でも良いからそう生きれば良いということではないのです。先程「十戒」を皆さんと唱えましたけれど、この「十戒」の前提となっているのが、その最初に告げられている部分の「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という所なのです。神様は様々な奇跡をもってイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救い出されたのです。すでに救われたのです。イスラエルの民を救ったのは神様なのです。だから、あなたはわたしの他に、何者をも神としてはならない。あなたはわたし以外の者を神とすることなど出来ないだろう。そう続いていくのです。まず恵みがあるのです。まず救いがあるのです。この神様との交わりの中で、初めて律法は神様からの愛の言葉として受けとめることが出来るのです。ここが肝心な所なのです。要するにそのように生きれば良いのでしょう、ということではないのです。神様との愛です。この愛によって、この愛の中で、私共の新しい生き方、生活、倫理というものが形作られていくということなのです。
 私は、この神様の言葉としての「律法」というものが、実に愛に満ちた、有り難い恵みの言葉として受け取れるようになったのは、洗礼を受けて10年以上たってからだと思います。もう13年前に亡くなった私の父は、私が幼稚園に行く頃から高校を卒業するまで毎朝、私が家を出る時に「車に気をつけろよ。」と一言声をかけてくれていました。「言われなくたって気をつける。毎日うるさいな。」とその頃は思っていたものでした。しかし、今ではあの一言が私に対する父の愛の言葉であることが今は分かります。律法の言葉は、それと似ていると思います。それをすれば私との関係が崩れてしまう、それをすれば滅びる、そのように父なる神さまは私共もを心配し、神様との健やかな関係の中に生きる道を与えてくれた。それが律法です。それは父なる神様の愛の言葉なのです。
 今朝与えられております聖書の言葉も、神様からの愛の言葉として私共は聞き取り、受け取りたいと思うのです。

 17節「そこで、わたしは主によって強く勧めます。」とあります。この「強く勧めます」というのは、口語訳では「おごそかに勧める」と訳されておりましたが、「言う」という言葉と「宣誓する」という言葉が重ねて用いられているのです。つまり、神様の御前で誓う、宣誓するような峻厳な思いの中で語るということでしょう。今まで神様の永遠の御計画から説き始めて、主イエス・キリストによる救いの中に生かされていることを語ってきた。その恵みの中にあるのだから、その恵みを無駄にしない為には、どうしてもこう生きるしかないではないか。それが神様の御心なのだ。そうパウロはここで言いたいのだろうと思うのです。
 そこで最初に語られているのは、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりなせん。」ということです。ここで注意しなければいけないのは、このエフェソの信徒への手紙を受け取った人々は、元々、皆異邦人であったということです。パウロはここで、異邦人を見下して、自分たちは神の民で救われる者、異邦人は救われない者、そんな風に思ってこのように語っているのではないと思うのです。エフェソの人々は元々、異邦人だったのです。私共もそうです。ですから、「もはや、異邦人と同じように歩むな」という言葉は、あなたがたは主イエスによって救われたではないか、だから、もはや救われる前と同じ生き方、生活は出来ないし、してはならないということなのです。もう異邦人ではないのだから、異邦人のようには生きない。実に単純なことなのです。
 では、救われる前の自分たちの生活とはどういうものだったのか。17節後半〜19節に「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」と続きます。「愚かな考え」「暗い知性」「無知」「心のかたくなさ」「放縦な生活」「ふしだらな行い」とは何なのか。ここで特に説明はいらないでしょう。それはつまるところ、神様を神様としない生活のことです。神様のことなど考えもせずに、自分の思い、自分の損得ばかり思って、自分の欲望のままに生きていた。その結果、神様に敵対していても、それを知ることもなく、空しいものに引きずられて生きていた。そういうことでありましょう。自分がしていることの恐ろしさを知らなかったのです。知らないから平気だった。しかし、今は違うのです。
 ここで出エジプト記に記されている、エジプトの王ファラオの姿を思い起こすことも出来るでしょう。奴隷としてのイスラエルの民を手放したくないファラオは、災いを下されるたびに、イスラエルの民にエジプトを出て行って良いと言いながら、災いが収まると、やっぱり出て行くことは許さないと前言をひるがえしました。神様の力を示され、御心を示されてもそれを受け入れない、受け入れることが出来ない。それがファラオでした。「心がかたくな」とはそういうことでしょう。どうして彼は、神様の御心を受け入れ、神様の言葉に従うことが出来なかったのか。それは彼がエジプトの王であったからです。王は人々を従わせる者であって、従う者ではないからです。そして、このファラオの心は、神様を知る前の私共の心と少しも違わないと思います。しかし今や、私共は本当の父を知り、本当の主人を知ったのです。私共は神様の子とされ、神様の僕となったのです。だから、もはや神様を知る前のように、自分を主人とし、何をしても勝手だ、誰に迷惑をかけているというのか、好きなように生きて何が悪い、そんな風には生きられないのです。

 20〜21節には「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」とあります。異邦人のように生きない私共は、どこにその生き方を学べば良いのか。答えは、キリストです。キリストの中に真理がある。キリストこそ真理そのものなのです。そのキリストによって示された歩みとは、先程の言葉で言えば、「神の子として」「神の僕として」生きるということになるだろうと思います。主イエス・キリストはまことの「神の独り子」でありました。そこには、どこまでも父なる神様を愛し、信頼する、永遠の愛の交わりがありました。そして、主イエス・キリストは「神の僕」としての歩みを全うされました。天よりマリアの子として生まれ、十字架の上で死なれるまで、自らの神の子としての特権を捨て、神様の御心に従順に従われたのです。私共は、このキリストに学んだのです。ただ学んだだけではありません。このキリストと一つにされたのです。私共は、キリストが神の子であるように神の子とされ、キリストが神の僕であるように神の僕とされたのです。ですから、私共はキリストが父なる神様を愛したように愛し、キリストが父なる神様に従ったように従うのです。そのような者として新しくされたのが私共なのです。ここに命があるのです。ここに私共の喜びがあり、ここに私共の誇りがあるのです。

 続いて聖書はこう告げます。22〜24節「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」ここで、私共は「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るよう」に告げられます。古い人としてのとしての古い生活を捨て、新しい人としての新しい生活を送るよう告げられるのです。これは、「新しい人になったのだから、新しい生き方、新しい生活をする」ということであり、とても単純なことなのです。
 しかしこのように言われても、具体的には一体何をすれば良いのかと思われるかもしれません。更にこのことについては、次週からまた読み進んでいくことになりますけれど、ただ期待しているような、このような場合にはこのようにする、という話にはならないだろうと思います。キリスト者らしい職業があるわけではないでしょうし、まして、キリスト者らしい性格というようなものがあるわけでもない。皆さんは父であり母であり、妻でり、夫であり、子どもであるわけですけれど、キリスト者らしい父親とは夫とはどんな父であり夫なのでしょうか。キリスト者らしい母親、妻とは、どんな母でありどんな妻なのか。キリスト者らしい子とは。そんな理想の姿を思い描くことは出来ないし、意味もないでしょう。ここで告げられているのは、そんなことではないのです。キリストによって救われた。神の子とされ、神の僕とされた。新しくなった。それは、神様を愛し、神様に従う者となったということなのです。それは、神様を抜きにして、いつでもどこでも生きることは出来ない、生きようとはしない、そういう者となったということなのです。それは、自分の夫・妻・親・子・職業等々を、神様が与えて下さったものとして受け取り、神様の愛が現れる交わりを形作る者とされたということなのであります。
 この新しい人とは、主イエス・キリストのことです。キリストを着るのです。このキリストを着ることにより、古い生き方から、情欲に惑わされる生活から抜け出すことが出来るのです。この情欲というものは、私共を惑わすのです。性的情欲であれ、金や富や物を手に入れようとする欲であれ、地位や名誉を手に入れようとする欲であれ、欲に駆られて人は道を踏み外すのです。
 神学校を出る時に、以前は「酒と女と金に注意しなさい。」と言われたものです。これは、別に牧師だから特に注意しなければいけないというよりも、どんな仕事をしていても注意しなければならないことでしょう。それは、この三つに私共を惑わす情欲が典型的に示されているということなのだと思うのです。しかし、これは注意をすれば何とかなるということなのでしょうか。23節には「心の底から新たにされて」とあります。直訳すれば、「心の霊において新しくされて」となります。この私共を惑わす情欲から自由になる為には、霊において、信仰において、私共の心が新しくされるということにならなければならないのでありましょう。それは、私共の中にキリスト御自身が住んで下さらなければ出来ないことであります。「キリストを着る」と言おうと、「キリストが我が内に住む」と言おうと、更に「キリストと一つにされる」と言おうと、事柄としては同じことであります。私共は、自分でそのように新しく変わることは出来ないのです。それが出来るくらいならば、キリストは十字架におかかりにならなくても良かったのです。私共は自分で自分を新しくすることなど出来ない。そのような私共を新しく造り変えて下さるのは神様です。ここで私共は、2009年の元旦礼拝において与えられた御言葉を思い起こすのです。元旦礼拝で与えられた御言葉は「人間には出来ないことも、神には出来る」でした。私共は自分を新しくすることは出来ません。しかし、神様には出来る。神様は私共の内にキリストを住まわせ、キリストを着させ、キリストと一つにして下さり、私共を救って下さる。この神様の救いの御業の中に生かされているのが私共であります。だから安心して良いのです。安心して、神様に願い、求め、祈れば良いのです。「私を心の底から新しくして下さい。」そう祈れば良い。その祈りは、必ず神様に聞かれ、神様は御業をもって応えて下さるのです。私共は信仰を与えられ救われました。それは、神の子とされた、神の僕とされたということです。すでに、そのようにされているのですから、神様は必ず、それにふさわしく私共を整えていって下さるのです。私共はそれを信じて良いのです。

 最後に、一つだけ確認して終わります。この古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るということは、徹底的に、根本的にそうなるということです。事柄としてそうなのです。以前に比べると、少しここが良くなったとか、そういうところで満足するようなものではないのです。古い人を脱ぎ捨てるのですから、全く新しくなるのです。徹底的に、根本的にそうなるのです。それは、私共の根本が変わる、心の底から変わることだからです。
 私共は毎週ここに集まって礼拝していますけれど、これは週一回、一時間半程、神様の方に顔を向けているというようなことではないのです。週一回、礼拝をするというほんの少しの時間の新しい習慣が加わったというようなことではないのです。この週一回の礼拝は、私共の根本が変わった、心の底から変わったことの証なのです。神様に背を向け、敵対していた私共が、喜んで神様の御前に出て、神様に顔を向け、神様に向かって「アバ父よ」と呼びまつる。これは、根本的な変化なのです。根本が変わったのですから、後は日に日にその根本の変化が表に現れるようになっていくということなのです。
 私共は、根本的に、徹底的に新しくされた。それ故、神様を裏切らない。キリストを裏切らない。愛する者を裏切らない。神様が喜ばれることを自分も喜ぶ。神様が悲しまれることを自分も悲しむ。罪を憎み、これと戦う。自分の弱さを知る故に、神様に助けを求めて祈る。隣り人を愛する為に心を使い、時間を使い、労力を使う。それが、キリストという真理に基づいた、正しく清い生活なのです。

 ただ今より、私共は聖餐に与ります。この聖餐において、私共は自分が何者であるのかを知らされます。私共はキリストの肉とキリストの血に与る者、キリストと一つにされた者です。キリストが我が内に住んで下さり、私共を新しい者としての歩みへと導いて下さいます。そのことを信じ、この聖餐に与った者として、この新しい一週へと歩み出してまいりましょう。

[2009年1月4日]

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