富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の言葉を武具として」
詩編 121編1〜8節
エフェソの信徒への手紙 6章14〜17節

小堀 康彦牧師

 先週の礼拝後に、「心のこもった伝道」というテーマで信仰懇談会が行われました。伝道というのは、キリストの教会が誕生して以来、いつでも教会のメインテーマでした。この伝道ということが後退する時、それは教会の信仰が弱くなる時でもあります。伝道の進展を邪魔しようとする力は、いつの時代にも働いています。それは社会の情勢であった、その時代の思想であったりもします。これに対抗し、戦い、私共が伝道の業に励むことが出来るかどうか。それは私共信仰者が、しっかり神の民として立っているかどうかということに帰着するのだろうと思います。私共の伝道の戦いは、血肉を相手にするものではありません。神様の救い、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みを、自分が出会う一人一人に伝えていく戦いです。それは、神様の救いが広がっていくことを邪魔しようとする悪しき力との戦いです。この戦いに勝利していく為には、私共自身が神様の救いの恵みの中にしっかりと立ち、その喜びの中に生きているということでなければならないでしょう。伝道について語ろうとすると、すぐに伝道の為に何をするのかということに関心が行く。それを論ずることも大切ですけれど、私共が伝道しないではいられない程に、神様の救いの恵みの中にしっかりと立ち、その喜びの中に生きているということが根本に無ければ話しにならないのです。これがなければ、私共は伝えるべきものは何もないということになってしまうのだろうと思うのです。

 この信仰の戦いの為に必要な装備を、今朝与えられている御言葉は告げています。私がこの説教の為の備えをしながらはっきり分かりましたのは、この聖書を記した人は、大変厳しい、激しい信仰の戦い、伝道の戦いをした人であったということです。ここには当時世界最強であったローマ軍の兵隊の装備が想定され、それに重ねまて、キリスト者として身に着けておかなければならない事柄が列挙されています。ここに挙げられている一つ一つ吟味して読んでいきますと、その背後にある実際の戦いというものを見る思いがするのです。ここに記されておりますことは、実際の信仰の戦いの中から生み出されたものであり、この背後には壮絶な悪しき霊との戦いの現実があったのです。当たり前と言えば当たり前のことです。教会を建てる伝道の戦いは、何にも増して、悪しき霊との厳しい戦いを強いられることだからです。この手紙を書いたパウロは、この戦いの中にいつも身を置きながら、その戦いが厳しければ厳しい程、いよいよ父・子・聖霊なる神様の力の大きさ、守り支えて下さる力の確かさを知らされていったのだと思うのです。
 私共が恐れなければならないことは、戦いの厳しさでもなければ、私共が戦う悪しき霊の力の強大さでもありません。戦う前に尻込みし、戦いの場から退いてしまうことです。すでに勝利している主イエス・キリストと共にあることが見えなくなってしまうことです。この神様の戦いを、弱く小さな自分の戦いにしてしまうことです。信仰の戦いは、神の戦いです。そうであるが故に、神様は私共に完全装備を与えて下さっているのです。子の与えられている装備を身に着けなければ、私共は戦う前に逃げ出してしまうことになるのです。信仰の戦いは、こちらから仕掛けるものではありません。こちらから仕掛けなくても、忠実に神の僕として歩もうとするならば、それを邪魔しようとする力が働いてくるのです。そこでどうしても戦わざるをえないのです。

 聖書は「神の武具を身に着けなさい。」(13節)と告げます。そして、その神の武具を一つ一つ挙げていきます。ここに記されている武具は、当時のローマ兵の武具です。この武具は時代と共に変わるのですから、そのことについてあまりこだわる必要はないと思います。どうして真理が帯なのか、正義が胸当てなのか、信仰が盾なのか、そのようなことにあまりこだわる必要はありません。ここでは戦う為の完全装備を、信仰の戦いに当てはめているだけなのです。しかし、ここに示された信仰の装備である神の武具は、時代を超え、国を超えて普遍的なものです。一つ一つ見ていきたいと思います。
 最初に告げられているのは、真理です。これが帯にたとえられています。当時の服は上から下までつながっているものですから、帯で縛って自由に身動きが出来るようにしなければ、戦いにはなりません。ですから、まず戦う前に、その備えとして最初に真理を身に着けよ、というのです。この真理とは、信仰の真理のことです。神様が天地を造り、私を造られた。神様は御子イエス・キリストを与え、その十字架の死と復活によって私共を罪から救い、永遠の命へと招いて下さった。御子は、まことの神にしてまことの人である。等々、これは言い始めればきりがありませんけれど、要するに私共の信仰告白に言い表された、私共が信じている信仰の真理でありましょう。その意味では、この真理とは教理と言い直しても良いと思います。教理を身に着ける。正しい教えを身に着ける。このことが、信仰の戦いにおいて最初に求められることだというのです。教理を身に着けるといっても、何も難しい神学論議を出来るようにしろと言っているのではないのです。私が救われたということはどういうことなのか、そのことをちゃんとわきまえるということであります。これは、17節にある、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」ということとも重なるのですけれど、私共の信仰というものは、何となく救われた気分になるというようなことではないのです。神様は私の救いの為に何をして下さったのか、何をして下さっているのか、そのことをわきまえるということであります。
 例えば、「私共は自分が信仰深いから救われたのではありません。ただ一方的に、神様が私共を愛し、私共を救う為に、愛する独り子イエス・キリストを与えて下さったのです。そのことによって、私共は神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼ぶことが出来る者とされた。神の子、神の僕とされたのです。私共には何もないのです。ただ、神様の恵みだけがあるのです。」これは信仰義認の教理、恩寵のみの教理です。悪魔は必ず、この一方的恵みという救いの真理を無効にしようとします。「あなたが良い業をするから救われるのではないか。」、或いは又私共の自尊心をくすぐり、「あなたが立派だから救われるのだろう。」そう囁いてくるのです。このような悪魔の囁きは、全ての信仰の真理に対して向けられていきます。「本当にイエス・キリストは神なのか。偉い人には違いないが、神ではないだろう。」とか「本当に人間は死んで復活するのか。そんなことは全く理性的な判断とは言えないだろう。」とか「本当に神様なんて居るのか。勝手に人間が頭の中で作り出したものではないのか」等々、悪魔は全ての信仰の真理、福音の真理に対して挑んできます。これを疑わせ、神様の救いの恵の中から私共を引き離そうとします。このことに対抗するにはどうするのか。私共自身が信仰の真理を、教会の教理をきちんと身に着けなければならない。そう聖書は教えているのです。

 第二に、正義です。この正義というのは、いろいろなレベルで考えることが出来るのですが、ここでは「神様に喜ばれる正しい生活」という意味で受け取って良いと思います。真理と正義とは、つまり「正しい教理と正しい生活」ということです。これを身に着けなさいというのです。この二つは切り離すことは出来ません。教理が間違う時、生活が乱れるのです。これは長いキリスト教の歴史ではっきりと示されていることです。正しい教えは、正しい生活を生むのです。この正しい生活に乱れがあるならば、悪魔はすぐにつけ入るスキを見つけ、そこから攻撃してくるでしょう。
 最近、続けてキリスト教会の司祭・牧師が性的問題を起こして、週刊誌を賑わせました。まことに悲しいことです。あってはならないことです。牧師も人間だからというのは、言い訳にもならないでしょう。これは霊的問題です。悪しき霊の策略に敗けたのです。その木が良い木であるかどうかは、その木が付ける実によって判るのです。彼らが教えていたことが正しい教えであったとすれば、彼らは自分が教え、語ったことを本当は信じてはいなかったのだと思います。牧師に求められることは、自分が語ったように生きるというこどてす。しかし、これは他人事ではありません。そのような危険は、いつ自分にやってくるか分からないのです。そしてこれは、なにもは若い人だけの問題ではないのです。

 第三に、平和の福音を告げる備えです。これを履物にたとえています。これはイザヤ書52章7節「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」がイメージとしてあるのだと思います。私共は平和の福音、神様との和解、人との和解を告げる者として遣わされていくのです。

 第四に、信仰です。どうして信仰が第四なのか。信仰は第一ではないかと思われるでしょう。その通りです。ここで「なおその上に」と言われています。これはなかなか訳すのが難しいのですが、直訳すれば「すべてにおいて」です。いろいろあるけれど、「すべてにおいて、信仰の盾を取れ」ということです。この盾というのは、全身を覆うことが出来るような大きな盾です。この盾によって、悪しき者が放つ火の矢を防ぐのです。この火の矢でイメージされているのは、誘惑であったり、悪口であったり、人の目のようなものかもしれません。特に日本では、この人の目という火の矢は、なかなか厳しいものです。これに対処するのは、信仰しかありません。私共の信仰がぐらつく時、神様が必ず守って下さるということを信じられなければ、私共はこの火の矢に刺し貫かれてしまうでしょう。
 すでに天に召された婦人で、生涯忠実な信徒であった方ですが、前任地の教会にこんな人がいました。古い家に嫁がれまして、お子が生まれてから信仰を与えられました。その家には仏壇も神棚もあって、嫁の仕事として、毎朝お水を上げて、ご飯を供えなくてはならない。自分は、それを嫁としての仕事と割り切った。それをしなければ、舅、姑に何を言われるか分からない。しかし、日曜日の礼拝だけはどんなことがあっても守らせてもらった。その話を聞きながら、厳しい戦いの中を歩まれたのだと思わされました。その方は、先の大戦の時、前任地の教会は、牧師の他、教会員は一人か二人しかいない礼拝を守っていたのですが、その内の一人でした。その娘さんが、最近まで長老をしておられました。

 第五に、救いです。これを兜としてかぶれと言います。兜というのは、頭を守るわけですから、一番大切です。この17節の兜と剣に関しては、翻訳では違いが表れてはいませんが、元は「受け取る」という言葉を用いているのです。「救いの兜を、神の言葉という霊の剣を、受けなさい。」というのです。救いというものは、確かに神様から受けるものであって、自分で手に入れるものではありませんから、このような言葉遣いになったのでしょう。自分は救われている。確かに救いに与っている。このことこそ、信仰の戦いにおいて、なくてはならないものであることは明らかでしょう。私共は、救われる為に頑張るのではないのです。すでに救われているのです。この救いの中にしっかりと立ち続ける為に、戦うのです。救われるかどうか分からないけれど、一生懸命頑張って救われるようになりたいということではないのです。もちろん、救いは完成されていません。終末において完成されるのです。私共はその日を待ち望みつつ、その希望の中で生きていくのです。この希望は、どんな力によっても奪うことの出来ないものです。私共はこの希望の中に生きているのです。何と幸いなことでしょう。この希望は、神様の御手の中にある希望ですから、何者も私共から奪うことは出来ないのです。

 そして、今日の最後、六番目に、神の言葉です。これは霊の剣であると言います。今までは、胸当てといい、兜といい、どちらかというと身を守る為の武具でありましたが、これは剣ですから、攻撃用の武具です。この剣というのは、日本人がイメージする大きな刀ではありません。刃渡り50〜60cm程の短剣です。これはローマ軍が戦う時に、接近戦において、最も用いられた武器でした。この神の言葉という武器は、悪しき霊との戦いにおいて、力を発揮します。この一番良い例は、主イエスの荒野の誘惑の場面でしょう。主イエスは悪魔の誘惑を、旧約聖書の言葉をもって全て退けられたのです。又、この神の言葉という剣は、私共が自らの罪と戦う為にも、最も有効なものです。ヘブライ人への手紙4章12節「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」とあります。神の言葉は、私共の内にある罪を明らかにし、私共を悔い改めへと導きます。
 この神の言葉というのは、聖書の言葉のことでしょうし、聖書を説き明かす説教でもあるでしょう。この神の言葉を受けることにより、私共は教理を、信仰の真理を身に着け、正しい生活を身に着け、信仰を養われ、救いの希望を確かにされ、平和の福音を告げる者として遣わされていくのです。実に、この神の言葉こそ、全ての神の武具の要となるものだと言って良いでしょう。
 だったら、この神の言葉をどのように私共は受けていくのでしょうか。特別なことは何もないのです。主の日の礼拝を守り、日々の生活の中で聖書に親しんでいく。それだけです。先週の信仰懇談会でも申しましたが、私共は神様が共におられるということを、どこで知っていくのか。何か自分に良いことがあった時に、「ああ、神様は私と共にいて、守って下さった。」ということなのでしょうか。もちろん、そういうこともあるでしょう。しかし、そういうことであるのならば、私共は年に数回しか、神様が自分と共におられるということが分からないということになるのではないでしょうか。この「神様が共におられる」ということは、私共にとって、もっとはっきり言えば「御言葉と共にある」ということなのです。神の言葉が私共の中に宿り、一日一日導いて下さる。この経験こそが、神様が共にいて下さるということを、私共にはっきりと分からせて下さるものなのです。その為には、私共は主の日の礼拝で語られる神の言葉を受け続けること、祈祷会その他の集会に集い御言葉を受けること、そして毎日聖書を読むこと、これしかないのです。この御言葉の剣を持たずして、悪しき霊や自らの罪と戦うことは出来ないのです。

 いろいろ申し上げました。いろいろな武具を身に着けなければいけないように感じたかもしれません。しかし、この神の武具は、どれも神様からいただくものです。間違っても、もっと熱心な信仰者になって、その熱心な信仰によって信仰の戦いを為していこうということではないのです。信仰の戦いとは、神様の戦いです。神様が戦って下さるのです。私共は、その神様の戦いの器なのです。先週も見ましたように、この「神の武具を身に着けなさい。」という勧めは、10節の「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」という言葉で始まっているのです。私共が強くされるのは、神様によってなのです。私の信仰心や私の意志の力によってではないのです。そんなもので勝てる程、悪魔は弱くはないのです。ただ神様の中で、神様に結ばれて、私共は強くされるのです。この神様の救いの中にとどまり続ける戦い、神様の救いを証しする戦い、神様の救いを伝えていく戦いは、ただ神様との交わりの中で与えられる武具によって為されていくのです。神様との交わりが、真理を、正義を、信仰を、救いを、御言葉を、私共に備えて下さるのです。それは、神様がこの私共の戦いを勝利へと導こうとしておられるからです。この私共の信仰の戦いというものは、主の戦いであり、誰よりも、私共よりも、主なる神様ご自身が勝利することを望み、願い、求めておられるのです。ですから、私共は安んじて、この神様との生ける交わりの中に歩んでいけば良いのです。

[2009年2月22日]

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