富山鹿島町教会

礼拝説教

「一つとされた群れ」
創世記 11章1〜9節
使徒言行録 2章43〜47節

小堀 康彦牧師

 今日からしばらくの間、使徒言行録から御言葉を受けてまいりたいと願っております。使徒言行録は、元々ルカによる福音書の続編として記されたものです。私共は、少し前にルカによる福音書から御言葉を受けましたので、使徒言行録を読み進めていくのもふさわしいことかと思います。しかし、今日から始まるにしては、どうして1章の始めからではないのかと思われる方もおられるでしょう。それは、1章、2章には、主イエスの召天そしてペンテコステの出来事が記されておりまして、この部分は毎年ペンテコステの時期になりますと読まれる所であり、すでに皆さんも何度も学んでいる所でしょう。ですから、そこは飛ばして、ペンテコステが終わった所から始めたわけです。
 主イエスは十字架におかかりになり、死んで三日目に復活されました。それから40日にわたって弟子たちにその御姿を現され、天に昇られました。そしてそれから10日後、弟子たちに聖霊が注がれるというペンテコステの出来事が起きたわけです。そしてこの日、ペトロの説教を聞き、悔い改めて洗礼を受けた者が三千人であったと聖書は記します。最初の教会の誕生です。この教会がどのように歩んでいったのか、それを記しているのが使徒言行録です。今朝与えられております御言葉は、最初のキリストの教会の様子をとても良く表しています。これから読み進めてまいります使徒言行録に記されている初代教会の姿、弟子たちの働きは、ここに要約されていると言っても良い程です。よく言われることですが、使徒言行録の主人公は誰かというと、使徒たちではなくて聖霊です。聖霊が使徒たちに働きかけ、使徒たちを用いて救いの御業を為していかれた。それを記したのが使徒言行録です。その意味では、使徒言行録は聖霊言行録と言っても良いのです。これは、使徒言行録を読んでいく上での、大切な指摘でしょう。私共は、使徒が何をしたのか、何を語ったのか、教会はどうであったのか、そのように使徒言行録を読みがちですけれど、これから使徒言行録を読み進めるに当たって、ここで聖霊は何をなされ、聖霊はどのように働いて下さったのか、私共はそのように読んでいかなければならないということなのでしょう。
 そのように思って今朝与えられたこの個所を読んでみますと、聖霊の働きが幾重にも見えてくるのです。今日はその中から、四つの点を見ていきたいと思います。

 第一に、聖霊の働きによって教会においては不思議な業としるしとが行われたということです。43節に「使徒たちによって」と聖書は記しますが、これはもちろん、聖霊なる神様が働き、使徒たちを用いて為されたことでありましょう。直前の42節には「使徒の教え」とあります。もちろん、「使徒の教え」というのは「主イエス・キリストの教え」であったことは言うまでもありません。つまり、「使徒の教え」が告げられ、「使徒達による不思議な業」が為されていたということは、「主イエスの教え」と「主イエスの業」とが弟子達によって担われていたということを告げているのです。これはこう言っても良いと思います。教会は、キリストの教えとキリストの業を受け継ぎ、この世界に向かってここにキリストがおられることを示した。ガリラヤから始まった主イエスの旅、そこで主イエスは様々な教えを語り、様々な奇跡を行われました。その主イエス・キリストは、十字架にかかり三日目に復活して、更に天に昇られたわけです。確かにこの目で主イエス・キリストを見ることは出来なくなったのです。けれども、その業と言葉とは教会に引き継がれたのです。使徒たちが行った不思議な業としるしとは、ここに主イエスはおられるという、キリストの現臨を示すものであったということです。キリストはどこにおられるのか。キリストはここにおられる。そう言い切れる群れとして、教会は建ったということなのです。

 第二に、この初代の教会の人々は、すべての物を共有しておりました。この所を読んで、ここに共産主義の原型があるというような説明をする人がいますが、それは間違いだと私は思います。確かに、現象としては共産主義と同じ形態のように見えます。しかし、ここにあるのは、「制度としての財産の共有」などというものではないのです。もし、共産主義というものが、主イエス・キリストの愛を現すものであると言うのならば、確かにここにあるのは共産主義でしょう。しかし、共産主義者の人は、そんなことは決して認めないでしょう。共産主義の人々が出発点とするのは人間の理想です。しかし、ここにあるのは、人間の理想ではなく、聖霊の業です。「信者たちは皆一つになって」と聖書は告げていますが、何において一つになっていたのでしょうか。何よりも信仰において一つになっていたのでしょう。そして、愛において一つになったのでしょう。ここには、キリストの現臨において何が起きるのかが明示されているのです。キリストを信じるという信仰の一致は、互いの愛の一致へと導くのです。富の所有ということさえも乗り越えるほどの愛がここに現れたということです。
 私共にとって富というものは、大切なものでしょう。そして、これにどこかでしがみついてしまうのが私共です。しかし、主イエス・キリストは、私共をこの富というものから自由にするのです。この自由は、キリストへの愛、そして兄弟姉妹への愛というものによって、この時はすべての物を共有するという形となって現れたということなのです。
 私共は現在、財産の共有などはしません。しかし、この教会という所に身を置く中で、富からの自由というものを与えられていくし、仕え、支え合う愛というものが与えられていくのです。それは、いつの時代においても、この教会という所では起きてきたし、今も起きていることなのです。共有し、分け合うのは、富や財産だけではないのです。私共が与えられている賜物は、全て神様のものなのです。ですから、それを互いに神様にささげ、用いていただくのです。このささげものによって、教会の全ての営みは為され続けてきたし、今も為されているのです。

 第三に、初代教会の人々は、聖霊の働きによって神様を拝み、礼拝する所において一つとされていたということです。神様を拝み、礼拝するということは、聖霊なる神様の働きが、最も明確に現れる所です。聖霊なる神様がお働き下さらなければ、礼拝というものはないのです。46節に記されておりますことは、初代教会の人々の信仰生活の姿でありますが、少していねいに見てみましょう。
 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあります。この神殿というのは、エルサレム神殿のことです。初代教会は、最初からキリスト教会という形で出発したのではないのです。神の民であるユダヤ人として主イエスもお生まれになったのですし、旧約聖書しか聖書はなかったのです。彼らは神の民として、当然のこととして、エルサレム神殿において唯一の父なる神を礼拝していたのです。
 だったらユダヤ教と全く同じであったかと言えば、そうではありませんでした。注目すべきは、「家ごとに集まってパンを裂き」と記されている一句です。この「パン裂き」という言葉は、新約聖書においては、聖餐を意味しているのです。「家ごとに集まって」というのは、キリストの教会は、まだ自前の教会堂も持ってはいませんでしたし、制度も組織もなかった、そのような状態を示しているのでしょう。しかし、聖餐はあったのです。キリストの教会は、その最初の出発の時から聖餐を守っていたのです。この聖餐こそ、キリストの現臨を確認し、キリストの救いと恵みとを心に刻むものだったのです。聖餐を守る信仰者の群れ、信仰者の共同体、それがキリスト教会なのです。
 「喜びと真心をもって一緒に食事をし」というのは、私共の教会でもクリスマスの時などに行います愛餐を示していると思います。愛する者が、共に食事をする。それはまことにうるわしいものです。共に食事をするということは、とても大切なものです。嫌いな人と食事をすること程、イヤなものはありません。しかし、心を開き、信頼している者との食事は、まことに喜びと平安に満ちた、楽しい時であります。教会はその出発の時から、食事を大切にしていたのです。私は何も、教会でもっと食事をしましょうと言っているのではないのです。そうではなくて、この喜びの食事というものに、私共が互いに心を開き、信頼する交わりが現れているということなのです。そして、この食事は共同体と確認するような意味があったのだと思います。日本でも、村の祭りに食事は付きものです。あれを連想していただいて良いと思います。自分達は、一つの共同体に繋がっているということを確認する食事だったと思います。そして、この食事の交わりの中にも、キリストは現臨されていたのです。
 ここには、聖餐を中心とした礼拝と祈りを共にする共同体が生まれたことが示されているのでしょう。教会というのは、ただ日曜日に共に礼拝している。それだけで十分というような群れではないのです。ここに集ったキリスト者達は、今までそれぞれの共同体に属していたことでしょう。地縁・血縁、いろいろある。しかし、キリスト者は新しいキリストの教会という共同体に属する者となったということとなのです。

 第四に、初代教会は聖霊の導き、御支配の中で、主に救われる人々を日々仲間に加えていったということです。聖霊に導かれる教会というものは、外に向かって開かれており、いつでも仲間を増やしていくものなのです。よく、「教会の人は仲が良すぎて、外からの人が入れない。」というような言葉を聞くことがあります。もし、そういうことがこの教会においても起きるとするならば、それは私共のあり様が根本において間違っていると言わなければならないでしょう。外の人が仲間に加われないような交わりは、キリストの現臨の下で、聖霊なる神様が御支配されている交わりではありません。単なる人間同士の仲良しこよしです。それは、この世の他の交わりと少しも変わらないものであり、キリストの現臨を示すものではありません。
 主イエス・キリストの救いの御業は、このエルサレムにおける初めての教会を出発点として、全世界に広がっていきました。その様子を記しているのが、この使徒言行録です。この使徒言行録は、全世界にまで広がっていく教会の歴史は、もちろん記しておりません。せいぜい、アジアからヨーロッパ、ローマぐらいまでのことです。しかし、キリストの教会は、それから二千年かけて、仲間を日々加え続け、全ヨーロッパに、新大陸に、アフリカに、アジアにと広がり続けているのです。それは今も続いています。その教会は一つとされています。それは、それらの教会の頭が、唯一の救い主、イエス・キリストだからです。聖霊なる神様は、主イエス・キリストに救われる者を、イエス・キリストを我が主、我が神とあがめる者を仲間に加え続け、一つの群れとし続けておられるのです。

 今、ペンテコステにおいて生まれたばかりのキリストの教会の姿に現れた、四つの聖霊の働きを見てまいりました。この四つは、いつの時代の教会にも受け継がれてきました。大切なことは、この四つは分離しない、分裂しないということです。教会というキリストの体には、この四つの側面がいつも生き生きとと脈打っているということなのです。
 もう一度振り返ってみますと、第一にはキリストの現臨を指す業です。これは現代的に言い換えれば証しの業、あるいは奉仕となります。今でも、医療・教育・福祉の分野において、キリストの現臨を指し示す業が為されていっています。第二は、愛の交わりです。富からも自由となった、互いに支え合い、賜物を分かち合う交わりです。第三は、聖餐に代表される礼拝と祈りです。第四は、伝道です。奉仕・交わり・礼拝・伝道というものが、分裂することなく、一つの教会の営みの中で組み合わされ、為されていくということなのです。これは、一連のことですから、奉仕や交わりが伝道となるということもあるでしょうし、礼拝が奉仕・交わりの基盤となるということも言えるでしょう。しかし大切なことは、これがいつでも組み合わされ、ひとつながりとなって、キリストの現臨が現れ、キリストの救いの業が前進していくということなのです。どれか一つだけで十分というようなものではないということです。もし、現代の日本の教会の力が弱くなっているとするならば、この四つの事柄が一つにつながっていないからではないのか。あるいは徹底されていないからではないのか。そう思うのです。教会は人間の熱心や計画によって立つのではありません。聖霊の導きと支配の中で立っていくのです。
 私共は一つの群れとして立てられています。一つの群れとなっていきましょうというようなことではないのです。すでに、一つとされているのです。この一つを生み出すのは、キリストの現臨です。この現臨するキリストによって、一つの群れとされ、生かされているのです。この恵みの事実にしっかりと立って、各々、為せる全てをささげて、励んでいくのです。ここにはただ、聖霊なる神様の御支配だけがあるのです。私共に為すべきことがあるとすれば、この聖霊なる神様の御支配に従おうとしない、献げ切ることをを躊躇させる、その自らの罪と戦うということでありましょう。各々、その戦いを、しっかり為すことが出来るよう、父なる神様に祈りつつ、奉仕・交わり・礼拝・伝道を担う者として、この一週も歩んでまいりたいと願うのであります。

[2009年3月15日]

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