富山鹿島町教会

礼拝説教

「なぜ驚くのか」
出エジプト記 3章11〜15節
使徒言行録 3章11〜26節

小堀 康彦牧師

 ペトロとヨハネによって生まれつき足の不自由だった人がいやされ、自分の足で歩き出すという驚くべき出来事が起きました。いやされた男の人は神殿に入り、喜び踊って神様を賛美しました。神殿に来ていた人々はその様子に驚き、ペトロとヨハネとその男の人の周りに集まって来ました。たくさんの人だかりが出来ました。その人々に向かって、ペトロが話し始めます。このペトロの説教は、使徒言行録の2章にありますペンテコステの出来事の日にペトロが語りましたものを第一説教と呼ぶなら、これはペトロの第二説教と呼ぶことも出来るでしょう。このペトロの第二説教には、第一説教と同じように、生まれたばかりのキリストの教会は何を語ったのか、何を告げ知らせる群れとしてキリストの教会は立ち上げられたのか、そのことが良く示されております。キリストの教会が二千年の間語り続けてきましたことは、このペトロの説教の中に語られたことなのです。もちろん、語り方も語り口も、時代や場所によって変わってはきています。しかし、語られている内容は、この時から何も変わってはいないのです。ですから、今日与えられておりますこのペトロの第二説教の御言葉から、私共は実に豊かな福音の内容を受け取ることが出来ますし、ここから様々な教理を展開することも出来るでしょう。実は今日の箇所について、私は始め三回の説教をするつもりでした。しかし、止めました。一回で為されたペトロの説教なら、やはり一回でやってみよう、そうすべきではないか、そう思ったのです。ここで細かな議論をしようと思えばいくらでも出来ます。しかし、ここで大切なことはその様な細かな議論よりも、ペトロが語りたかったこと、すなわち教会が二千年間保持し、宣べ伝えてきたことを鷲掴みにして捉え、自分のものとし、私どもも又このように自分の言葉で語り始める者となっていくことなのではないか、そう願ったからです。
 私共がこのペトロのように語り始める為に必要なこと、それは第一に確信であり、第二に熱であり、第三に単純さではないかと思うのです。このペテロの説教を何度も読み返す中で、この三つのことを心に強く思わされました。そしてこの三つは全て、聖霊なる神様の導きの中で与えられ、備えられたものなのであります。

 ペトロとヨハネの周りに人々が集まって来ました。いやされた男の人のことで人々が驚き、興味を持ったからです。この時ペトロは、人々の注目を無視してその場をやり過ごしたり、「どうも、どうも」などと言ってお茶を濁すようなことははしなかったのです。ペトロはこの時をキリストの福音を語るチャンスとして、大胆に語り始めたのです。私共がまず注目しなければならないのは、このことです。語られた内容以前に、この語ることに対しての大胆さ、恐れなき態度、勇気です。私共は神様に、何よりもこれが与えられるようにと願い求めなければならないのではないでしょうか。
 いつでも、誰に対しても、私共は自分がキリスト者であることを隠すようであってはならないのです。何も、いつでもどこでも自分がキリスト者であると言い続けなければならないというのではありません。しかしどんなことがあっても、隠すようであってはならないと思うのです。自分がキリスト者であることが分かると仲間外れにされる、白い目で見られる、ひどい目に遭わされのではないか。そんな心配は全く無用なのです。明らかに隠すという意識さえなければ、私共がキリスト者であるということは、自然と分かっていってしまうものでしょう。自分がキリスト者であるということは、私共の言葉の端々、何気ない行動の中に、どうしても現れ出てしまうものだからです。そして、自分がキリスト者であることが分かれば、必ずキリスト教について、キリストの福音について、教会について、語るべき時というものが与えられるのです。その時、尻込みしたり、お茶を濁してはダメなのです。大胆に、単純に、熱をもって、確信をもって語らなければなりません。そのようにして、キリストの福音は伝わり、広まってきたのです。聖霊なる神様によって、この勇気を与えられますよう、祈り願ってまいりましょう。

 さて、ペトロの第二説教の内容に入っていきましょう。この説教は、いくつもの要素が前後してはいるのですが、大きく分けると三つの部分から成り立っています。第一の部分は12〜16節の所です。ここでは、足の不自由な男の人がいやされたのは、あなた方が殺したあのイエスの名によるのであるということが告げられています。そして次に17〜21節には、悔い改めて立ち帰れと勧め、再臨の希望を語ります。そして最後に22〜26節で、旧約からのつながりが希望を告げています。順に見てまいりましょう。
 12節、ペトロは自分の周りに集まってきた人々に向かって、いきなり「なぜ驚くのか。」と告げます。生まれつき足の不自由だった人がいやされて歩くようになったのですから、人々が驚くのは当たり前です。ところがペトロは、それは驚くに当たらないことだ、つまり当たり前のことだと告げるのです。何故なら、死人の中から復活されたイエスがそれをされたからです(16節)。人々は、このような奇跡を行ったペトロとヨハネに注目していました。しかし、ペトロはまず始めに、そのことを否定します。12節の中程、「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」と言うのです。奇跡をした人を神様のように崇める。これは、どの時代、どの国にもある宗教感情でしょう。これに対して、ペトロは否と告げているのです。日本もシャーマニズムの宗教土壌がありますから、このような奇跡を行う人はすぐに教祖になります。多分、今でも日本にはこのようなことをしてみせるミニ教祖が何百人といると言われています。しかし、キリストの教会はその出発から、そのような人間が崇められことを徹底的に拒否したのです。奇跡はあります。教会においても、奇跡は起きましたし、今も起きています。しかし、それを行うのは主イエス・キリストであり、主イエスの霊である聖霊なのです。ペトロがこのような奇跡を行ったのも、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じたのであって、主イエス・キリストの現臨と力とを示したに過ぎないのです。ペトロは断じて、自分の力によるなどとは考えませんでした。キリストの弟子とは、このキリストの力の道具であり、キリストの現臨を示す器なのです。
 このイエスを、あなた方は殺した。そうペトロは告げます。13節半ば〜15節半ば「あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました。」主イエスの十字架の場面を再現するかのように、正確にペトロは告げます。ピラトは釈放しようとしたのに、あなた方はそれを拒んだ。そして、バラバ、バラバと叫び、人殺しを赦すことを要求した。そして、あの方を十字架につけよと叫び、殺したのだ。言い逃れが出来ないように、明確にペトロは主イエスを殺した罪を人々に告げるのです。主イエスが十字架にかかって死んでから、まだ2ヶ月程しか経っていない。人々の記憶には、まだあの主イエスが十字架におかかりになった日のことが、しっかりと残っていたことでしょう。主イエスを十字架けかけて殺したのはあなた方だ。しかし、あのあなた方が十字架にかけて殺したイエスは、復活したのです。私たちはその証人です。そして、この男も又、主イエスの名によっていやされたのです。これ程、あの十字架にかけられたイエスが神様から遣わされた方であることの確かな証拠はないでしょう。だから、少しも驚くことではないのです。そうペトロは告げたのです。
 ここでペトロは、罪を指摘するのにためらってはいません。これも又、私共が反省させられる所でしょう。私共は、なかなか相手の罪というものを告げることが苦手です。それは、自分も又、自分の罪を指摘されれば気分が悪い、そのことを思うからでしょう。確かに自分の欠点や間違いを人に指摘されるのは、良い気分のものではありません。しかし、自分の罪というものを知らされずに、どうして人は悔い改めて神様に救いを求めることがあるでしょうか。勘違いしてはいけません。私共が罪を告げるのは、「自分は間違っていない。悪いのはあなただ。」というような次元での話ではないのです。神様を知らず、それ故神様を畏れ敬うことを知らず、神様をないがしろにし、神様の御心に反し、神様に敵対していたという事実。それが、根本的罪であることを告げることなのです。又、あの主イエス・キリストの十字架は誰の為であったのか、誰が十字架にかけたのか。それは私共の為ではなかったか。私共が主イエスを十字架に架けたのではないか。このことを告げるということでしょう。
 私は、この罪を告げるペトロは、決して上からものを言ってはいなかったと思う。何故なら、この主イエスの十字架の話をした時、ペトロは、自分が三度主イエスを知らないと裏切ったことを抜きには語れるはずがなかったからです。私も罪人だった。しかし、今、復活の証人とされている。何という恵み、何という神様の憐れみ。あなた方も、この恵みに、この救いに招かれているのだ。どうか、この救いにあなた方もあずかって欲しい。この思いの中でペトロは語っているのです。

 どうしたらその罪から救われ得るのか。そのことを告げるのが、第二の部分です。結論を言えば、19節「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」ということであります。しかし、ペトロはそこに至る前に、17節で「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」と告げるのです。ここで語調が変わっています。厳しく罪を指摘する語調から、「兄弟たちよ」と親愛の情を込めた語り口になっているのです。確かにあなた方は、復活されて、この男をいやして、まことに神様の僕であったイエス・キリストを殺してしまった。しかし、それは知らなかったからだ。無知であったからだ。そう言うのです。ペトロはここで決して人々の罪を暴き、糾弾しているのではないのです。ペトロは自分が主イエスを三度裏切った者であり、それにもかかわらず赦され、主イエスの御名を宣べ伝える者とされたのです。ここに至までに、彼自身悔い改めという歩みがあったのです。あの主イエスの十字架の上での言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカによる福音書23章34節)」この言葉を告げた主イエスのあわれみ、赦しの中に生かされていることを知っていたのです。そして、この十字架の上で赦しの祈りを捧げた方の霊を受けたのです。だから、ここでの悔い改めなさい、立ち帰りなさいという勧めも、共に主イエスの赦しに与る者として、同じ罪人であるという所に立ちつつ、招いている。だから、心に届いたのではないかと思う。
 このペトロの第二説教は、読むだけなら3か5分もあれば読めてしまいます。しかし、この時ペトロは、一時間、二時間と語り続けたに違いないと思います。そして、このような内容を語るペトロの言葉には、キリストによる救いの確信と、何としても救いへと招きたいという熱と、福音の真理の単純さがあったと思えてならないのです。それは、キリストの愛を受け、キリストの愛に生かされ、キリストの愛を現す者とされた者の言葉であったのです。私共もそのような者として立てられ、用いられていきたいと思うのです。

 第三の部分に行きましょう。ここでペトロは旧約から説きます。主イエスは、モーセが予言した、イスラエルの同胞の中から立てられたモーセのような預言者である。そして、あなた方イスラエルの人々は、契約の子です。神様は、まずあなた方が救われ祝福を受けるようにと、あなた方の中にまことのメシアであるイエス様を遣わされたのです。主イエスが遣わされたのは、まさに旧約以来の神様の救いの御計画の成就であり、あなた方が救われる為なのです。そう告げたのです。
 ペトロの時代、聖書と言えば旧約聖書しかありません。ですから、この旧約聖書に記されていることから、主イエスというお方を解釈し説明することは、どうしても必要なことだったのです。多分、この時ペトロは旧約のいろいろな所を引用して、主イエスが、預言者たちが預言してきたまことのメシアであることを告げたのではないかと思います。主イエスが神の民の中に生まれたのは、旧約以来の預言の成就であり、神の民が先ず救われなければならなかったからなのです。
 この主イエスと旧約とのつながりは、主イエスと終末とのつながりへと必然的に展開されます。何故なら、神様の救いの御業は天地創造の時から旧約を経て主イエスに至ったのですから、主イエスから更に終末へとつながっていかなければなりません。神様の救いの御業は貫徹されていなければならないからです。それが、21〜22節にあることです。主イエスはまことのメシアとして、今は天に昇って行かれてそこにおられるが、慰めの時、万物が新しくなる時、主イエスは再び来られるのです。この救いの完成に与る為には、悔い改め、神の民として神様の祝福に与らなければならないのです。

 ここでペトロはいろいろなことを語っているように思うかもしれません。しかし、内容は実に単純なのです。主イエスは、旧約以来預言されてきた救い主、メシアであり、この方は十字架の上で殺されたが復活し、今も生きて働き、私共と共におられる。この方は終末の時に再び来られるが、その救いに与る為に、あなた方は悔い改めて、主イエスを信じる者となりなさい、ということなのです。実に単純です。私共は、この単純な福音の道筋をきちんとわきまえたいと思うのです。この単純なことさえしっかり身に着けたなら、後は自由に、自分が救われた者として、この恵みに生きている者として、自分の言葉で語り始めれば良いのです。
 人に語り、伝道する為には、よく学ばねばならないと言う人がいます。それはある意味正しいと思います。しかし、それが「自分は十分に学んでいないので語れない。」という言い訳になるのならば間違いです。福音は単純なのです。この単純な福音の道筋をわきまえないで洗礼を受けた人は一人もいないはずなのです。私共が宣べ伝えていくこと、キリストの教会が二千年間宣べ伝えてきたことは、実に単純なことなのです。
 私共は、先々週から使徒言行録から御言葉を受け始めました。それは、生まれたばかりのキリストの教会が、聖霊の導きの力でどのように伝道していったのかを見ていくことによって、私共も同じように伝道していく群れとなっていきたいと心から願っているからなのです。私共は、伝道について論じることが出来る群れになりたいのではないのです。伝道する群れになりたいのです。それが、キリストの御心にかなうことであることを信じるからです。

[2009年3月29日]

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