富山鹿島町教会

礼拝説教

「神に従うか、それとも人に従うのか」
ダニエル書 3章1〜18節
使徒言行録 4章1〜22節

小堀 康彦牧師

 今日から受難週に入ります。週報にありますように、火曜日から金曜日まで受難週の祈祷会が開かれます。それぞれ、婦人会・壮年会・青年会・長老会から、奨励者が立てられて証しが為され、共に祈る時が持たれます。お互いの証しを聞くという機会は、私共の教会ではそれ程多くありません。神様が生きて働いて下さり、私共を救いへと導いて下さったその恵みを、具体的な一人の人の証言を通して改めて心に刻み、祈りを合わせる時です。ぜひ皆さんご出席いただきたいと思います。
 私共が受難週を覚えるというのは、主イエス・キリストの十字架の歩みを、「イエス様お可愛そう、おいたわしや」という思いで、思い起こすのではありません。主イエスの十字架は、復活と切り離されたものではないのです。私共は受難週は暗い顔をして過ごし、日曜日を迎えイースターになったら、急に喜んで明るい顔になる。そんなことではあり得ないでしょう。主イエスは私共の為に、私共に代わって、十字架におかかりになった。私共の罪の赦しの為に十字架におかかりになった。その意味では、主イエスを十字架にかけたのは私共なのです。しかし、その十字架におかかりになった主イエスは、復活された。そして、今も天におられ、父なる神様と共に全てを支配し給うのです。この主イエス・キリストによって、聖霊を注がれ、信仰を与えられ、神の子、神の僕として新しく生きる者とされた私共であります。もはや、主イエスを知らない者として生きることなど出来ない私共です。その私共が主イエスの十字架を思い起こすのです。この方の十字架によって、今の私がある。私を今、生かし、支え、導いて下さっているお方は、私の為に十字架におかかりになって下さった方。そして、復活された方。そのように思い起こすしかないのです。
 キリストの教会は、主イエスの十字架と復活の出来事と共に歩んで来ました。これを忘れたことはありません。それは教会に十字架が掲げられていることからも明らかです。また、古い教会の形の多くは、上から見ると十字架の形になったものが多いのです。教会堂に入る、それは礼拝するためにはいるわけですけれども、それはあの主イエスの十字架の中に入る、主イエスの十字架と一つにされることを意味しているのです。あの十字架にかかり、復活された方が、私と一つとなってくださり、今、聖霊として私と共におられる。この喜びの確信が、私共の信仰なのであります。キリストの教会は、いつの時代、どこの国にあっても、この信仰に生きてきたのですし、この信仰を宣べ伝えてきたのです。
 主イエスの十字架も復活も、キリストの教会にとって、遠い昔のなつかしい記憶というようなものではありません。今、私を生かし、支え、導いて下さっている方の出来事なのです。私共は、自分を生かし、救い、希望を与えて下さっている方を、十字架と復活の出来事抜きに思うことは出来ないのです。この私は、あの十字架にかかり復活された方と深く結びつけられてしまったのです。私共が語る証しとは、この方と深く結びつけられてしまっている者の喜びの証言でしかないのです。この証言が集められているのが、新約聖書なのだと言って良いと思います。

 今朝与えられている御言葉、使徒言行録4章の記事も、そのような証言の一つです。ここで証言者として立っているのは、使徒ペトロとヨハネです。先週見ましたように、ペトロとヨハネはエルサレム神殿に午後三時に祈りに行った時、「美しい門」と呼ばれていた所で、生まれつき足が不自由だった物乞いの男の人をいやしました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と告げ、この男の人をいやしました。この男の人は喜び踊り、神殿に入って神様をほめたたえました。この時神殿に来ていた人々は驚き、ペトロとヨハネとこの男の人の周りに集まってきた。そしてペトロはこの集まってきた人々に向かって、「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスは、死人の中から復活したまことの救い主、メシアであり、この方の名によってこの男の人はいやされました。罪を赦され、救われたいなら、悔い改めなさい。」と語りました。このペトロの説教を聞いて信じた人は、男の人で五千人程であったと、今朝与えられている4章4節にあります。この五千人という数字を文字通りに受け取っていいのか分かりませんけれど、大変な騒ぎになったことは確かなことだったでしょう。
 そして、キリスト教会最初の妨害が起きました。それが今朝与えられている御言葉です。神殿で人々に語っていたペトロとヨハネを捕らえて、牢に入れたのです。1〜3節前半「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。」とあります。二人が捕らえられたのは、彼らが語っていたことが、主イエスの十字架と何より復活の出来事を中心とした、主イエスこそメシアであるという教えであったからです。サドカイ派の人々は、勝手に主イエスをメシアと主張し、それを宣べ伝えていた二人にいらだったのです。それで、神殿の秩序を乱すということで捕らえたのです。
 当時のユダヤ教には、大きな二つのグループがありました。一つはエルサレム神殿を中心とする神殿貴族と言っても良い、大祭司や祭司達を中心とする人々です。これがサドカイ派の人です。もう一方が、町の会堂を中心とした律法学者を代表とする人々です。これがファリサイ派の人です。この二つのグループは、決して仲が良かったわけではありません。信じている内容、教理も違っていました。サドカイ派の人は天使や復活を信じませんが、ファリサイ派の人は天使も復活も信じていました。このサドカイ派の人々とファリサイ派の人々で構成されていたのが、当時の最高権威であったサンヘドリンと呼ばれる議会でした。この議会において、ほんの2ヶ月程前に主イエスは裁かれ、ピラトに渡され、十字架にかけられたのです。
 ペトロとヨハネは次の日、この議会に立たされました。そして、こう問われたのです。7節「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」この問いは、主イエスが神殿で教えていた時に祭司長や律法学者・長老たちに問われたものと同じです。サドカイ派の人である大祭司たちは、主イエスの復活が宣べ伝えられていることにいらだって二人を捕らえました。しかし、そのことを直接糺すような言い方はしませんでした。多分、そのようなことを言い出せば、復活を信じているファリサイ派の人々と対立することになったからだと思います。それで、「何の権威で」と問うたのです。
 この時ペトロは実に堂々と立派に答えます。8節に「ペトロは聖霊に満たされて言った。」と記されていますが、これが大切なポイントでしょう。ペトロの堂々とした答えは、実に聖霊に満たされた結果だったのです。ペトロは、こう言われたらこう言おう、そんな風に牢で過ごした前の夜に考えていたのではないのだろうと思います。先週も申し上げましたが、福音は単純なのです。主イエス・キリストはまことの救い主であり、十字架にかかり復活された方だ。この方によって、自分は救われた。それだけのことです。ペトロは、この自分の身に起きたことを語ったに過ぎないのです。彼は、大祭司や律法学者達を論破しようとして、語ったのではないと思います。ペトロは、自分に起きたことを語ったのです。私共もそうです。私に起きた、主イエス・キリストによる救いの出来事を語ればよいのです。救いの出来事を起こされる聖霊は、その救いの出来事を語る時にも私共を守り、支え、導いて下さる。このことを信じて良いのです。

 ペトロは最初に、今自分が取り調べを受けているのは、昨日自分たちが足の不自由な人をいやしたからであるのか。これは良いことであって、何ら取り調べを受けなければならないようなことではないではないか。そう語り始めます。そして、この人がいやされたのは、あなた方が十字架につけて殺し、復活されたイエス・キリストの名によってである。そう告げて、最後に12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と告げるのです。このペトロの宣言は、ペトロの信仰の告白であります。ペトロは他の宗教を調べ、比較して、キリストが優れていると言っているのではないのです。それは学者がすることです。ペトロは学者ではありません。使徒です。キリストによって救われ、その救いの恵みを一人でも多くの者に伝える為に立てられた者です。ペトロは単純に、私はこの方によって救われた、この方以外の何かによって救われたのではない、あなた方も全ての者はこの方によって救われる、そう告げたということなのです。
 キリスト教は、このイエス・キリストというお方、十字架にかかり三日目に復活された方を救い主と信じ、一切の罪を赦され、救われ、神の子、神の僕とされるというものです。キリスト教について語る場合、こんな生活をし、こんな考え方をし、こんな教えを持っている等、いろいろ説明の仕方はあるでしょう。しかしそれらは、「イエス・キリスト」というお方を信じるという一点を外すならば、全て的を外したものになるのです。私共が救われるべき名、私共を救って下さる方。この方に全てがかかっているのです。
 ペトロとヨハネを取り調べた大祭司や律法学者たちは、皆、当時のユダヤ教の高度な学問を身に着けておりました。しかし、彼らはイエス・キリストというお方を知らなかった。もちろん自分たちが十字架につけたのですから、面識もあったでしょう。しかし、主イエス・キリストというお方と出会い、この方によって一切の罪が担われ、赦されたということを知らなかったのです。ですから、彼らは11節にある、ペトロがやってみせた詩編118編22節の解釈に驚いた。11節『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』ですが、これを「大祭司たちが捨てた石である主イエスが、建物、これを神の家、新しい神の民としての教会と理解して良いでしょう、つまり神様の救いの為になくてはならないものとなった」というのです。ペトロが語る11節の言葉が、詩篇118編の中の言葉であることは、彼らはすぐに判ったでしょう。しかし、こんな解釈を聞いたことがなかった。私は、これは主イエスが復活して40日間弟子たちに教えられたことではないかと思っていますけれど、ペトロは実に見事に旧約から主イエスを説き明かしたのです。大祭司たちに権威はありました。しかし、それは人間の権威であり、神様の御前においては全く役に立たないものに過ぎなかったのです。彼らは、ペトロの大胆な態度、その言葉に驚きました。そして14節にあるように、ペトロとヨハネのそばに、いやされた男の人が立っているのを見て、何も言い返せなかったのです。
 私は、この男の人に心が引かれます。このいやされた男の人は、何も語っていません。最高議会という場の緊迫したやり取りの中で、彼はただ立っているだけです。しかし、この男の人の存在が、大祭司や律法学者たちに反論させなかった。反論出来ないようにしてしまったのです。大祭司や律法学者は、聖書に関してはプロです。彼らはペトロより何倍も詳しく論じ、反論することが出来たに違いないと思います。しかし、何も言い返せなかった。それは、イエス・キリストの名によっていやされ、立てないはずの者が立ち上がり、歩いた。その本人がここに立っていたからです。この事実こそ、主イエス・キリストが誰であるかを最も雄弁に物語っていたからです。この事実を否定することは、大祭司や律法学者達にも出来なかったのです。主イエス・キリストが救い主であるということは、この方によって救われた者の存在が、何よりも説得力を持つということでしょう。私共は、福音を語ることにおいて雄弁ではないかもしれない。しかし、主イエスによって救われ、生かされている。この否定しようがない恵みの事実を自らの存在をもって示すものとされているのでしょう。私共は、そのように自らの存在をもってキリストを証しし、指し示す者として立たされているのです。

 大祭司や律法学者たちは、ペトロの言葉に反論も出来ず、ただ「今後あの名によってだれにも話してはならない。」という命令をしただけでした。この時のペトロとヨハネの答えは明確です。19節「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」とペトロは答えました。あなた方は確かに大祭司であり、これが議会の命令なら、この地上においての権威はあるであろう。だが、それは人間の権威に過ぎない。しかし、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせたのは神ではないか。だとするならば、私共がイエス・キリストの名によって宣べ伝えることは、神に従うことであろう。人に従うことと、神に従うことと、どちらが神の前に正しいか。そう言って、二人は一歩も退かないのです。
 何とペトロは大胆で勇気があるのでしょう。しかし、これはペトロの勇気ではありません。聖霊に満たされた者の勇気であり、聖霊が与えられた勇気です。ペトロ自身の勇気というならば、それは主イエスが捕らえられた時、大祭司の庭で主イエスを三度知らないと言った時に崩れたのです。彼は、この様な場で堂々と大胆に主イエスを語ることが出来る者ではなかったのです。もし、ペトロが自分の勇気でここに立っていたとするならば、彼はこの時もまた、主イエスを「知らない」と言うしかなかったでしょう。しかし、そうではなかった。彼は変えられたのです。復活の主イエスに出会い、聖霊を注がれて変えられたのです。新しい者とされたのです。
 キリスト教会は、社会の秩序や人間の権威を否定するものではありません。私共は良き社会人であり、市民としての義務も忠実に果たします。この秩序も又、神様が作られたものと信じるからです。しかし、人間の権威が神様の権威よりも重さを持ったり、人間がまるで神様のように振るまい、神様をないがしろにすることに対しては、否と言わざるを得ないのです。私共は、神の御前に立つ者です。そうであるが故に、従うことが出来ない人間の命令もあるのです。私共は、自分の「信仰の良心」を殺すことは出来ないのです。
 ペトロとヨハネは、続けて20節でこう言います。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」彼らは「黙っていろ」と言われても、黙っていられなかったのです。それはちょうどエレミヤが、エレミヤ書20章9節「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」と語っていることと通じるでしょう。キリストの福音は、この黙っていることの出来ない、話さないではいられない人々によって伝えられてきました。このように人を動かされるのも又、聖霊なる神様の働きです。聖霊なる神様が、この時ペトロとヨハネの内に宿り給うて、言葉を与え、語らせ続けたのです。キリストは、ペトロとヨハネと共に、彼らの中におられ、彼らを包み、導かれたのです。このキリストとの結合が明らかな形で与えられ、示しているのが聖餐なのです。キリストの肉を食べ、血を飲み、キリストと一つにされた者として、彼らは語り続けたのです。
 ただ今から、私共も聖餐に与ります。キリストが聖霊として、私共の中に宿り、私共と結ばれ、私共を包み、私共を導かれるのです。私の為に、私に代わって、十字架にかかり復活されたキリストを覚えつつ、この受難週の日々、キリストの恵みの証人として、神に従う者として、神様の御前を歩んでまいりたいと思うのです。

[2009年4月5日]

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