富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様の不思議なしるしと共に」
列王記 17章17〜24節
使徒言行録 5章12〜26節

小堀 康彦牧師

1.いつも不思議が
 キリストの教会というのは、まことに不思議な存在です。絶大な富やこの世の権力を持っているわけではないのに、多くの巨大な国家が次々と興っては滅んでいく中で、二千年の間生き続け、今も全世界に広がり続けています。二千年前にエルサレムに生まれたイエス・キリストを救い主と信じる小さな群れは、国・民族・文化・言葉の壁を超えて、全世界に広がり続けています。この驚くべき生命力は、神の力としか言いようがないのではないでしょうか。これは、教会の組織とか、指導者の力とか、教会に集う者たちの熱心とか、そのようなもので説明しきれるものではありません。まことに不思議な神様の力、神様の導きというものによって、教会は生き続け、存在し続けているのです。キリストの教会というものは、その存在自体が、目に見えない神様、天地を造られ全てを支配しておられる神様が、今も生きて働いて下さっていることの確かな証拠なのでありましょう。それは、今朝ここに集っている私共自身が、神様の愛と慈しみと力、その救いの御業の証拠であるということでもあります。教会に生きる私共自身が、神様の御力によって生かされている不思議な存在であるということなのです。特に優れた所があるようにも見えない私共が、神様の子とされ、神様の恵みに生かされ、神様の御業に仕え、神様の救いを語る者とされている。まことに不思議なことです。私は、自分がこのように牧師として講壇に立ちながら、本当に不思議なことだと思うのです。キリスト教のキの字もない家に生まれ、20歳で主イエスと出会い、30歳で牧師となり、今まで歩んで来ました。まことに不思議なことであり、ありがたいことだと思うのです。皆さんの今までの歩みの中にも、不思議としか言えないことがあったことと思います。
 私共は、使徒言行録を読み進めながら、生まれたばかりのキリストの教会の様子を見てきているわけですが、そこにあるのも実に不思議なことばかりです。聖書は、いつもこの不思議を語ります。先程、旧約の列王記にある、預言者エリヤによって子供が生き返るという奇跡の記事をお読みいたしました。説明のしようのない不思議なことです。又、福音書を読めば、主イエス・キリストによる奇跡がたくさん記されています。それらは、神様がこの人と共にあって、生きて働いて下さっていることを示しているのです。使徒言行録に記されている奇跡、不思議な業も、神様がその人と共におられることを示しています。
 使徒言行録が記す不思議なことは、神様が主イエス・キリストを信じる者と教会と共におられ、生きて働いておられることを示しているのです。そしてこのことは、生ける神は主イエス・キリストを信じる私共と共におられ、今も生きて働いて下さることを示しているのです。不思議は英語でwonderです。wonderがいっぱいfullで、wonderful素晴らしいとなるわけです。ただ不思議なことがたくさんあるだけではなくて、このたくさんの不思議は私共に「素晴らしい!!」という賛美へと導いていくものなのです。

2.神様が共におられる群れ
 さて、今朝与えられた御言葉は、こう始まっています。12節「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。」これと同じような記述は、この前までの所にもありました。4章33節「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」、あるいは2章43節「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」とあります。キリストの教会はその出発において、多くの不思議な業と共にあったのです。それは、使徒たちにそのような能力があったというようなことではありません。そうではなくて、この不思議な業は彼らと共に神様がおられたということを示しているのです。神様が、その不思議な業をもって、自らがここにいるということをお示しになったということです。
 この神様が共におられる群れというものは、この世の他のグループとは何かが違います。違っているから、おいそれとは近づけない。そんな思いを周りの人に抱かせました。それが13節「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。」と記されていることです。先週見ました、アナニアとサフィラのことも伝わっていたのかもしれません。「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。」というのは、多分、神殿のソロモンの回廊において、使徒を中心としてキリスト者たちが主イエスの教えを聞き、主イエスをほめたたえ、祈りをささげる、そのような姿を示しているのではないかと思います。「一同は心を一つにして」とは、そういうことです。言うなれば、心を一つにして礼拝していたということです。人はそういう所においそれとは近づけない。人々は主イエスの弟子達を遠巻きにして見ていたのでしょう。しかし、イヤなものを見るように見ていたのではないのです。「しかし、民衆は彼らを称賛していた。」とあります。おいそれとは近づけないが、素敵だな、良いな、そんな憧れをもって見ていたということなのでしょう。だから、この群れは人々を引き付け、14節「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」ということになったのです。
 「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。」ということと、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」というのは、少し矛盾しているように思えるかもしれません。確かに、誰も仲間に加わろうとしなかったのならば、どうしてその数が増えていくのか。矛盾している。しかし、ここで語られていることはそういうことではないでしょう。神様が共におられる交わりであることが分かれば、人はおいそれとは近づけないのです。教会は、この異質性をいつも持っているのです。これを失えば、それは教会の魅力もなくなってしまうのです。教会とは、神様が共におられる交わりだからです。しかし、そうであるが故に神様を求め、神様の救いに与ろうとする人は、この群れに加わり続けるのです。
 私が30年前に初めて教会の門をくぐった時、やっぱり勇気がいりました。そして、初めて礼拝に出た時、ここは自分が今まで全く知らなかった所だと思いました。そこには祈りがあり、神様の前にひれ伏す人々の群れがあったのです。そして、自分のような者が来てもいいのかなとも思いました。教会は全ての人に向かって開かれています。教会の受付の人も親切にしてくれました。しかし、「自分のような者が来てもいいのか。」という思いは、なかなか消えることはありませんでした。気持ちの問題として見れば、それは「何か良く分からない所に来て、勝手が違う。居心地が悪い。」ということだったのかもしれません。讃美歌だってちっとも歌えない。しかし、「自分のような者が来てもいいのか。」という思いは、実はもっと深い所から出て来ていたのではないかと今は思っています。それは、自分は神様の前に出られるような者ではないというような、神様との関係がはっきりしていない中での思いだったのではないかと思うのです。この異質性、敷居の高さと言っても良いかもしれませんが、それを無くすことは教会には出来ません。教会は、この世にあっては異質な存在でしかあり得ないのです。神なき世界のこの世にあって、生ける神との交わりの場だからです。不思議な場だからです。

3.キリストと歩みを重ねる群れ
 この教会の不思議の源には神様の現臨があるわけですが、それは主イエス・キリストと似てくる、主イエス・キリストの歩みと重なるということでもあると思います。教会の歩みが、福音書に記されているあの主イエス・キリストの歩みと重なってくるのです。このことは、教会がキリストの体であり、キリストの霊である聖霊が満ちている群れなのですから当然のことなのです。しかしこのことによって、教会というものが一体何であるか、このことが明らかにされていくのです。
 例えば、15節「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」とあります。これは、主イエスにいやしを求める人々が群がったその姿を思い起こさせるでしょう。あるいは、17節以下にある使徒たちが牢に入れられる場面では、17〜18節に「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。」とあります。ここで、「ねたみに燃えて」とあります。使徒達が牢に入れられたのはねたみのためだったのです。そして、主イエスが十字架にかけられたのも「ねたみのため」でありました(マルコによる福音書15章10節)。また、使徒たちが牢から天使によって連れ出される場面も、23節で下役が「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」と言う所などは、主イエスの御復活の場面を思い起こさせます。そして、せっかく牢から連れ出された使徒たちが、再び神殿で主イエスの福音を宣べ伝える姿などは、主イエスが十字架におかかりになる前に、大祭司・律法学者たちが自分の命をねらっているのを知りながら神殿で教えを宣べられた主イエスの姿に重なるでしょう。
 教会の不思議な歩みは、神様がそこにおられることを示すと共に、その神様は主イエス・キリストであるということも示しているのです。不思議の源であるイエス・キリスト。まことの神であり、まことの人であるイエス・キリスト。おとめマリアから生まれたイエス・キリスト。十字架にかかり三日目によみがえったイエス・キリスト。この方が教会の歩みの全てを導いておられるが故に、その歩みは主イエス・キリストと似たものとなるし、そこにおいてこそ、教会の不思議は、私共の不思議は、明確な目的と意味とを持つことになるのです。主イエス・キリストを指し示し、主イエスこそまことの神様であることを示し、その主イエスが私共と共におられることを示す。それが教会の不思議の意味と目的なのです。

4.命の言葉を宣べ伝えるために
 使徒たちは捕らえられ、牢に入れられました。二回目です。前回は、もうイエスの名によって教えを宣べてはならないと脅されて釈放されました(4章21節)が、今回は天使によって牢の戸が開けられ、牢から連れ出されました。これもまた、まことに不思議なことです。しかしこのことは、使徒たちが単に不思議なように困難の中から救い出されたということではないのです。それだけならば、彼らは二度と捕まらないように安全な所に逃げていくか、そういう所に天使によって導かれていくということになったでしょう。しかし、彼らは牢から出ると、再び神殿に行って主イエスの名によって教え始めたのです。これでは、どうぞ私たちを捕まえて下さいと言っているようなものでしょう。どうして、使徒たちはそんな危ない、もっと言えば馬鹿な真似をしたのでしょうか。
 19〜20節に「ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った。」とあります。天使は使徒たちを牢から出す時に、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じたのです。だから使徒達は再び神殿に行って主イエスの教えを宣べ伝えたのです。使徒たちはただ天使の命令に従ったまでなのです。
 つまり、使徒たちが天使によって牢から出されるというこの不思議は、「使徒たちが主イエスの教えを宣べ伝える為に」という明確な目的があったのです。不思議は、ただの不思議ではないのです。主イエスの御業に仕える、主イエスの教えを宣べ伝えるという明確な目的を持っていたのです。苦しい時の神頼みの祈りに神様が応えて下さったというのとは、少し違うのです。神様の不思議には、神様の目的があるのです。私共もそうなのです。私共が経験する不思議というものは、主イエス・キリストこそ唯一の救い主であるということを明らかにする、その神様の御意志の中で与えられているものなのです。
 この時、天使は使徒たちに「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言われました。「この命の言葉」とは、この言葉によって命へと人々を導く言葉でしょう。この言葉には生き生きとした命があり、この言葉を告げる者も、この言葉を聞く者も、共に神様との生き生きとした交わりの中に生きることとなる、そういう言葉です。具体的には、使徒たちが主イエスの御名によって宣べ伝えていたことです。「主イエスこそ救い主であり、この方の十字架によって私共の一切の罪は赦され、神の子として新しく歩む者とされた。この方は復活され、死を滅ぼし、永遠の命への道を拓いて下さった。この救いに与る為には、悔い改めて洗礼を受けよ。」この命の言葉を伝える為に、使徒たちは天使によって牢から解放されたのです。使徒達は、この命の言葉を神様から託されたのです。使徒たちは、この命の言葉を宣べ伝えるために選ばれ、立てられた者なのです。

5.不思議に守られて
 天使によって牢から連れ出された使徒達は、神殿で再び教え始めました。当然、神殿の守衛長たちによって再び捕らえられます。しかし、神殿の守衛長たちは「民衆を恐れて」使徒達に手荒なことはしなかったのです。ここにも、主イエスが捕らえられた時と同じあり様を見ることが出来るでしょう。
 使徒たちは困難の中にありました。困難などという生やさしいものではないではありません。牢から出ても、また捕らえられる。まさに命の危険のただ中にいます。ところが守られたのです。不思議に守られたのです。これが、命の言葉を託された者の歩みなのでしょう。教会も、私共も、困難はある。危機的と思えるときもある。しかし、守られていくのです。命の言葉を託されたものであるかぎり、命の言葉を伝える者である限り、私共は守られていくのです。教会はそうして二千年間歩んで来たのです。それが、教会の不思議というものなのです。私共も守られています。不思議に守られています。だから安心して、この一週も又、命の言葉を携えて、それぞれの場へと遣わされて行きたいと思います。

[2009年5月3日]

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