富山鹿島町教会

礼拝説教

「アンティオキアの教会」
詩編 145編17〜21節
使徒言行録 11章19〜30節

小堀 康彦牧師

1.救済史としての使徒言行録
 ご一緒に使徒言行録を読み進めながら気付かされることがあります。それは、一つ一つの出来事が単独で起きているようであって実はつながっている、一つ一つの出来事はもっと大きな神様の救いの御業の文脈というものの中に位置付けられているということです。これは、連続講解という仕方で御言葉を与えられる中で、はっきりと分かることなのでしょう。飛び飛びに、つまみ食いのように読んでいくとなかなか分からないことだろうと思います。この神様の救いの御業が進展していくという大きな文脈の中で、一つ一つの出来事が位置を持つという見方は救済史という歴史観ですが、この救済史としての歴史を記しているのは、新約ではこの使徒言行録だけなのです。旧約の歴史はまさにこの救済史が記されているわけですが、新約ではこの使徒言行録だけです。その意味では、新約における救済史がこの使徒言行録には示されている、そう言って良いと思います。
 例えば、今朝与えられております御言葉は、19節「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は」と始まっています。これは6章から7章にかけて記されていたステファノの殉教。そして8章の冒頭にあります、ステファノが殉教したその日にエルサレムの教会に対して大迫害が起こって使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行ったということを指しているわけです。そして使徒言行録は、それに続いてこの散らされていった人の一人であるフィリポがサマリアで伝道したこと。更にエチオピアの高官に伝道したこと。次に、異邦人伝道の使徒となるサウロの回心。そして、ペトロが異邦人のコルネリウスに伝道する、という記事が続くわけです。これらの記事はすべて、主イエス・キリストの福音が、ユダヤ人という枠を破って異邦人へ異邦人へと広がっていく、全世界へと広がっていく、そういう大きな文脈の中にあるわけです。ステファノの殉教というまことに痛ましい事件、そしてそれに続く迫害、それが次の世界伝道へのきっかけ、出発点になったと聖書は記しているわけです。この福音が、異邦人へ、世界へと広がっていくことを誰も止めることは出来ません。それは神様の救いの御計画によるものだからです。この神様の救いの御計画の中で次々と出来事が起きている、そのことを私共は知らされるわけです。そして、今朝与えられた御言葉において、遂に、異邦人を含む、もっと言えば異邦人を中心とする教会がアンティオキアの町に誕生した、そのことが記されているわけです。更に言えば、このアンティオキアの教会が、次の異邦人伝道の拠点教会、宣教師を送り出す教会となっていくわけです。主イエス・キリストの福音が、異邦人へ、全世界へと広がっていく、その神様の救済史がここにはっきりと示されているのです。
 そして、この神様の救済の歴史は、終末に至るまで続きます。私共もまた、この神様の救済史の中に、今という時を生かされているのです。私共は、このことを受けとめなくてはなりません。私共が経験する出来事には、前があり後がある。決して単独の出来事ではないのです。もちろん、この使徒言行録が記す出来事の中に生きていた人々は、後に何が起きるのかを知っていたわけではありません。私共もそうです。次に何が起きるのかを知っているわけではない。しかし、福音が一歩また一歩とこの日本において広がっていく、その神様の救済の御業の為に私共は生かされている。この教会はその為に建てられている。そのことを、きちんとわきまえていなくてはなりません。私の救いは、私一人の救いでは終わらない。私が救いに与る為には、私に福音を伝えてくれたあの人が救われなければならなかったし、あの人と私が出会わなければならなかった。聖書が日本語で読めるようになっていなければならなかった。教会がここに建っていなければならなかった。そのような蕩々とした神様の救いの御業の流れと言うべきものがあって、私が救われた。この流れは、私の救いで終わってしまう、そんなことはあり得ないことなのです。私が救われた。それはまことに個人的なことではありますが、神様の救いの歴史から見れば、決して個人的なことでは留まり得ない出来事であるということなのであります。

2.アンティオキア
 さて、今朝の御言葉において舞台となりますアンティオキアという町ですが、この町は当時、ローマ、アレキサンドリアに次ぐ、世界第三の都市でした。ローマ帝国の東方における中心地、国際都市でした。この国際都市というのは、文字通り国際的な都市だったのであり、ローマ帝国中のあらゆる民族が集まっている町でありました。島国である日本では考えられないような、あらゆる民族が雑多にたのです。地中海を囲むように広がったローマ帝国は、その領土内での通行は全く自由となり、そのような都市を生んだのです。当時のアンティオキアの人口は50〜80万人と推定されています。二千年前のことですから、これは大変なものです。現在はトルコの領土となっていますが、小アジア半島の付け根にあります。当時のローマ帝国の東方支配の拠点、中心地であり、政治・軍事・文化・経済の中心地だったのです。後に、キリスト教神学の中心地の一つともなり、アレキサンドリア学派に対し、アンティオキア学派というものが生まれた程でした。

3.キリスト者と呼ばれる
 このアンティオキアの町に、ステファノの殉教から始まった迫害によってキリスト者が逃げて来た。そして、この地においても福音を宣べ伝えたのです。逃げて来た人々は、ギリシャ語を話すユダヤ人、ヘレニストと呼ばれる人々であったと考えられています。彼らはギリシャ語を話しはしますが、生粋のユダヤ人です。彼らは、初めのユダヤ人キリスト者がそうであったように、最初のうちはこの町に住むユダヤ人たちに対してだけキリストの福音を伝えていました。しかし、この町では、異邦人に対しても福音を伝えるということを行ったのです。そして、その数は次第に多くなっていきました。どのようないきさつでそうなったのかは良くは分かりません。聖書はただ、キプロス島やキレネ、これはアフリカの地中海沿いの西の方にある地方ですが、そこの出身であるユダヤ人キリスト者が、異邦人にも福音を伝え始めたというのです。名前は記されていません。名もない信徒がこの業を始め、アンティオキアに教会が誕生したのです。これもまた、素敵なことです。
 これは私の想像ですが、初め彼らはユダヤ人の会堂において伝道していたのだと思います。異邦人に伝道するとは考えていなかった。しかし、国際都市アンティオキアという町の会堂ですから、そこには少なからぬ数の異邦人が神様を求めてやって来ていた。それはコルネリウスやエチオピアの高官と同じような人です。異邦人ではあるけれども、聖書の神様を信じ、聖書に従って生きようとしていた人達です。その人たちに主イエスの福音が受け入れられたのだろうと思います。そして、救われた異邦人がまた友人の異邦人を連れて来るという具合に、どんどん異邦人が増えていった。アンティオキアは異邦人の町ですから、福音が伝わり始めるとどうしてもそういうことになってしまったのだと思います。そのことを、聖書は21節「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」と語っているのではないかと思います。意図していたわけではない。しかし、そうなってしまう。私は、伝道とはいつもそういう側面があるのではないかと思います。はっきりしているのは、このキプロス島出身やキレネ出身のキリスト者は、本当に主イエスに救われた者として、福音を伝えないではいられなかった。そして、そのように生きた。彼らは信じていることを語り、信じているように生きた。そこに、キリストを信じる者が起こされた。それは、主の御助けによる出来事としか言いようがないことなのでしょう。
 26節の後半を見ますと、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」とあります。私共が普通に、キリスト者、クリスチャンと言っている呼び方がここで生まれたというのです。逆に言うと、それまでキリスト者、クリスチャンとは呼ばれていなかったということです。この時まで、周りの人はキリスト教をユダヤ教の一派としてしか見ていなかったし、自分たちもそんな風にしか考えていなかったのではないかと思います。ですから、名前もなかった。多分、ファリサイ派やサドカイ派のように、ナザレ人イエスを信じる者たちということでナザレ派、あるいは信徒たちがガリラヤ出身だったのでガリラヤ派というように呼ばれていたのではないかと思います。しかし、この町で彼らは改めてキリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになった。それはなぜか。きっと彼らは、口を開けば「キリストは」「キリストが」と語っていたのでしょう。彼らは信じることを語り、語ったように生きた。そして、その中心はいつもキリストだった。これはあだ名のようなもので、「はい、はい、またキリストですか。」そんなところから付けられたのでしょう。日本語の雰囲気で言えば、「あなたは、キリストさんね」というところではないかと思います。こんな名が付けられる程に、彼らの信仰は生き生きとしていたということなのでしょう。
 キリスト者というのは、はじめは少しも良い意味で付けられた名ではありません。しかし、この名前は本当に素晴らしいと私は思います。「キリストのものとされた者」、「キリストと共に生きる者」、「キリストと一つにされた者」、「キリストに赦された者」、「キリストの命に生きる者」、「キリストに愛され、キリストを愛する者」、様々な意味合いを持つ呼び名です。私はキリスト者。何と幸いなことでしょう。アンティオキアの教会の人達がこの様に呼ばれたように、私共もこの名に恥じない歩みを為してまいりたい、そう思うのです。

4.バルナバとパウロと共に
 ここで、エルサレムの教会はバルナバをアンティオキアに送ります。異邦人の多くがキリスト者となっている、その知らせを受けて、ペトロのコルネリウスのこともあり、エルサレムの教会としてはどのように対処すべきかを決めなければならなかったのです。エルサレムの教会としては、何よりも、彼らの信仰が自分たちの信仰と同じであるかを確認しなければならなかったのです。その為に、バルナバが遣わされてきました。キリストの教会というのは、その始めから、エルサレム教会を中心とした「一つの信仰」によって結び合わされた群れだったのです。
 エルサレムの教会から遣わされてきたバルナバは、アンティオキアの信仰を与えられた人々と出会い、喜びました。彼らに神の恵みが与えられていることを見たからです。神の恵み、それは信仰であります。主イエス・キリストをほめたたえ、主イエスに祈りをささげ、主イエスの言葉に従って生きている姿を、バルナバは見た。そして、ここに神様の救いの御業を見たのです。
 ここでバルナバが語ったことは注目すべきです。バルナバは、「固い決意をもって主から離れることがないようにと、皆に勧めた。」とあります。キリストの教会は、その始めから、キリストを信じる者が生まれさえすれば良いとは考えてはいなかったのです。その信仰者が生涯キリスト者であり続けること、そのことを眼目としていたのです。信仰は永遠の神との契約であり、永遠の命に連なり、永遠の住まいへ招かれることでありますから、途中で信仰から離れてしまえば、永遠の命の約束は果たされません。救われないことになってしまう。そんなことでは、回心して与えられた信仰はまったくのムダになってしまうのです。信仰は一時の心の高揚のようなものではないのです。生涯キリスト共に、キリストの救いの恵の中に留まり続ける歩みなのです。
 バルナバは、このアンティオキアの人々を教え導く為に、一人では手が足りないと思ったのでしょう。以前に回心してエルサレムの教会に自分が紹介したサウロ、後のパウロをタルソスまで行って見つけて、一緒にアンティオキアでの伝道と牧会をすることにしたのです。26節「二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。」とあります。
 この一年間が、アンティオキアの教会と、後に伝道者として公に歩み出すパウロ、そしてバルナバにとって、とても大切な時だったのではないかと思います。生まれたばかりのアンティオキアの教会。ちなみに、このアンティオキアの教会が、エルサレムの教会に次ぐ、二番目の教会です。使徒言行録は、アンティオキアの教会に対して、エルサレム教会以外で初めて、教会という言葉を用いています。この生まれたばかりのアンティオキアの教会が、キリストの教会として整えられていく為には、どうしてもこの二人の優れた伝道者による一年間の指導というものが必要だったのです。自分たちは何を信じているのか。聖書をどう読むのか。自分たちはどのように生活するのか。そのような一つ一つのことについて、パウロとバルナバからの指導が必要だったのです。特に異邦人を中心としたアンティオキアの教会において、旧約聖書(当時、新約聖書はまだありません)へ理解は心許ないものだったでしょう。二人は、主イエス・キリストの預言として、聖書の解き証しを精力的にしたに違いありません。これにより、エルサレム教会とアンティオキアの教会の信仰の同質性が保証されることとなったのです。
 また、パウロとバルナバにとっても、この具体的な一つの教会と共に一年間歩むことにおいて、何を、どのように伝え、教えなければならないのか、そのようなことを伝道者として身につけ、整えていく時となったに違いないと思うのです。そしてまた、後にパウロとバルナバはアンティオキアの教会から遣わされて異邦人伝道へと出て行くのですが、それが出来る程までに、アンティオキアの教会との信頼関係、また伝道ビジョンの共有ということが、この一年の間に培われたのではないかと思うのです。
 この一年間、二人が何をしたのかは記されておりませんけれど、二人が主の日の礼拝を交替でやるというようなことに終始していたはずがありません。一日に何度も御言葉を語り、それを毎日毎日為していたと思います。まだ教会堂もなかったでしょう。今日の午前中はここで、午後はここで、夜はここでという風に、アンティオキアの町を縦横に歩きながら、二人で伝道し、教えを宣べ伝えていたに違いないと思います。

5.エルサレム教会への援助
 その二人の一年間の成果の一つが、27節以下にあります、エルサレム教会に対しての援助ということだったのです。キリストに救われた者として愛に生きる。信仰において互いに一つに結ばれている。このことは、口で唱えているだけでは仕方がありません。彼らは、この信仰に生きるということはどういうことなのか、それをエルサレム教会を援助するという形で示したのです。最後には、お金のことです。しかし、神様に対しての愛、兄弟に対しての愛、神様への献身ということは、この具体的なところにおいて表れなければ力にならないのですし、身についていないということになるのではないでしょうか。
 エルサレム教会からの信徒によって、またエルサレム教会から遣わされたバルナバによって、キリストの救いに与り、信仰の訓練を受けたアンティオキアの教会の人々は、その恵みに感謝し、エルサレムの教会の人々を援助したのです。この援助は信仰の表れであり、感謝のしるしだったのです。

 このアンティオキアの教会から、後に異邦人伝道への宣教師が派遣されていきます。アンティオキアの異邦人の救い、教会の設立は、次の神様の救いの業へとつながっていくのです。私共の教会が、この富山の地に建てられたということ、私共が救われたということもまた、これで終わることではないのです。次があるのです。この神様の救いの御業に用いられる為に、私共は神様の訓練を存分に受けて、キリストに従って生きる生活を整えられてまいりたいと思います。いつでもキリストを語り、キリスト者と呼ばれるにふさわしい歩みを、主の御前にささげてまいりたい。そう心から願うのであります。

[2009年9月6日]

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