富山鹿島町教会

礼拝説教

「妬まれるほどに」
創世記 37章1〜11節
使徒言行録 17章1〜15節

小堀 康彦牧師

1.妬み心
 今朝は雪かきの心配をしないで起きることが出来ました。昨年暮れからの富山の雪も、少し落ち着いたようです。この時期に東京に出張いたしますと、私は越後湯沢経由で行くのですが、ほくほく線で越後湯沢に近づくに従って雪の量が目に見えて増えていきます。そして越後湯沢に着きますと、1m以上の雪が線路のそばにまで迫り、家も田畑も全てを覆っております。以前はその雪景色を見ますと「きれいだな。」と思っていたのですが、最近は「ここに住む人は大変だな。」と思うようになりました。その越後湯沢で新幹線に乗り換えると、すぐに長いトンネルに入ります。そしてそのトンネルを抜けると、いつも青空なのです。川端康成は、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった。」と書きましたが、それは東京からこちらに向かってくるからで、こちらから行きますと、「トンネルを抜けると、そこは青空だった。」ということになります。この青空を見るといつも、私の心の中に「ずるいな。」という思いが浮かんでしまうのです。これは私の正直な思いであり、私のささやかな妬み心であろうかと思います。
 「妬み」という感情はなかなか厄介なものです。そう思おうとして湧いてくる思いではなくて、自然と出て来てしまうものですから、押さえようがない。これが、私共の奥底にある罪と結びついていることは間違いないでしょう。問題は、この妬み心に私共が支配されてしまうのか、それとも一時の感情の揺れということでとどまるのかということであります。

2.聖書における妬みの例
 聖書は、この妬み心というものがその人を支配すると大変な罪を犯してしまうということを、いくつもの例を挙げて記しております。
 先程、創世記37章をお読みいたしました。ヤコブの息子の中で年寄り子であったヨセフが、ヤコブに大変可愛がられまして、兄たちに妬まれるということが起きた。ヨセフも空気を読まないといいますか、黙っていれば良いのに、自分が見た夢の話をいたします。麦の収穫の時でしょうか、「わたしの結わえていた束が起き上がり、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」こんな夢の話を聞かされれば、兄たちが「自分たちがお前にひれ伏すようになるとでもいうのか。」と、怒るのは当たり前でしょう。そして兄たちはヨセフを妬み、ついにエジプトに売ってしまった。そう聖書は記しています。兄たちは自分の心に湧いた妬み心に支配されてしまったのです。
 また、創世記4章、楽園を追われたアダムとエバは、カインとアベルという息子を産みます。この人類最初の兄弟カインとアベルは、兄のカインが弟アベルを妬んで殺してしまったと記されています。
 さらに言えば、主イエスが祭司長たちによってピラトに引き渡されたのは、「ねたみのためだ」とマルコによる福音書15章10節にはっきり記されております。
 このように見ていきますと、聖書はこの妬み心というものを、人間の罪がはっきりと表に出たものとして記していることが分かるかと思います。しかし、もう少し良く聖書を見てみますと、この人間の罪の表れとしての妬み心というものは、神様の恵み、神様の祝福というものが自分以外のものに与えられている時に引き起こされているということが分かります。
 ヨセフが兄たちに妬まれたのは、ヨセフが父の愛を一身に受けていたからでありました。また、カインがアベルを妬んだのは、神様がアベルのささげたものを顧みられたからです。これはもっと具体的に言うと、神様がアベルを祝福して羊を増やし、豊かにされたということです。それをカインが妬んだのです。そして、主イエスが祭司長たちによって捕らえられ、ピラトに引き渡され、十字架につけられたのは、主イエスがまさに神の子であり、神様の御心を自分たちよりも良く知り、権威ある者として語り、人々がそれに従ったからでした。
 神様の恵みと祝福が或る人に注がれる時、それ以外の人に生じる罪の心が妬みなのでしょう。つまり、神様の光が輝く時、その影として生じるものが妬み心だと言って良いと思います。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。しかし、影はどんなに濃くても、光を退けることは出来ません。ヨセフはエジプトに売られても、かえってそれによってヤコブの家族が後に飢饉を免れ助けられたように、主イエスの十字架は全き救いを与える神様の救いの御業の成就となったように、人間の妬みによって神様の祝福、神様の救いの業が退けられることはないのです。

3.パウロたちへの妬み
 さて、今朝与えられております御言葉ですが、フィリピの町で牢に入れられたパウロとシラスの一行は、牢から釈放されてテサロニケの町へ行きました。フィリピからテサロニケまでおおよそ160kmです。テサロニケの町はマケドニア州の都でしたから、大きな町でした。彼らはこの町でも主イエスの福音を宣べ伝えました。彼らは、まずユダヤ人の会堂で福音を伝えました。三回の安息日にわたって、彼らはそれを行いました。そしてその結果、4節「それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」という事が起きた。これは、神様の祝福を受けて、パウロたちの伝道がかなりの成果を上げたということでしょう。この神様の祝福に対して、ここでもその光によって影が生じました。それが5節です。「しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。」とあります。大変なことになってしまいました。ユダヤ人たちの妬みによって、パウロたちは暴動の濡れ衣を着せられ、捕らえられそうになったのです。
 パウロたちはすんでのところでその町から逃げ出して、ベレアへ行きました。ベレアはテサロニケから90kmほどのところにある町です。パウロたちは、この町でもユダヤ人の会堂に入って主イエスの福音を宣べ伝えました。このベレアの町での伝道は大変良い結果をもたらしたようで、12節「そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。」とあります。ところが、このベレアの町にもテサロニケの町のユダヤ人たちが押しかけて来て、群衆を扇動したので、パウロは次のアテネへと出て行かなければならなくなったのです。
 ここで思い起こして欲しいのですが、フィリピの町でパウロたちを訴えたのは、占いをしていた女奴隷の主人ですからギリシャ人でした。そして、このテサロニケの町でパウロたちを捕らえようとしたのはユダヤ人たちです。ここには、初代教会が迫害された二つのケースが記されていると思います。キリスト教の迫害というと、私共はすぐに皇帝ネロによる迫害を思いますが、それはもう少し後の話です。初代教会は、まず初めにユダヤ教徒たちから迫害されたのです。それと、ギリシャの文化を持つ人々からです。そしてその後に、ローマ帝国による国家レベルでの迫害へとなっていったのです。迫害は色々なレベルで、様々な人たちによって起こされたのですが、これらの出来事の根っこに、妬みというものがあったということを私共は知らされるのです。そのことは、逆に言いますと、初代教会は妬みを起こさせるほどに神様の祝福を受け、力があったということなのであります。

4.聖書を説き明かす伝道
 さて、ユダヤ人たちに妬みを起こさせるほどのパウロの伝道とはどういうものであったかといいますと、何か特別なことをしたのではないのです。2節「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い」とあります。パウロは聖書を説き明かしたのです。パウロは何か真新しい手法を用いたりしたのではなくて、聖書を説いたのです。キリストの教会が為してきたのは、パウロの時代から今に至るまで、この「聖書を語る」ということだったのです。もちろんユダヤ人たちは聖書(この場合は旧約聖書です。パウロの時代、まだ新約聖書はありません。)を知っておりました。しかし、その聖書が何を告げているのか、その理解においてパウロたちと決定的に違ったところがあったのです。それは、聖書は主イエス・キリストを預言し、主イエス・キリストによる救いを告げているということを、ユダヤ人たちは知らなかったということです。
 パウロが聖書を説き明かす時、どこを語るにしても、これこそが聖書のメッセージであると告げたのです。3節に「『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。」とあります。ここには、パウロたちが告げた福音、聖書を説き明かす中心というものが示されております。メシア、これはキリストですが、キリストの受難と復活。そして、そのキリストはあの十字架で死に三日目によみがえったナザレ人イエスである。これがパウロが語り、初代教会が告げていたことだったのです。
 これは、ユダヤ人にとっては信じられないことでした。ユダヤ人にとって、メシア・キリスト・救い主とは、天の軍勢を引き連れて地上の王を討ち滅ぼし、ユダヤ人の天下を造る、そのようなイメージだったからです。十字架に架けられて殺されるような者が救い主であるなどということは、考えられないことだったのです。彼らは聖書を読んでいました。知っていました。しかし、読み方が違っていたのです。彼らは、ユダヤ人だけが神の民として救われると思っていました。しかし、主イエス・キリストの救いはすべての民に与えられたものでした。自分たちだけに与えられると思っていたものが、すべての民に与えられる。しかも、自分たちが汚れた者と思っていた異邦人さえ救われる。それはユダヤ人にとって我慢のならないことだったのです。さらに、このパウロの説く福音を信じる者が、自分たちの群れの中から出る。自分たちの会堂に集まっている者の中から、パウロやシラスに従う者が出る。ユダヤ人は多くはなかったかもしれませんけれど、まだ割礼を受けていないけれども聖書の神様を信じ、その教えに耳を傾けていたギリシャ人たちが、またおもだった婦人たちが信じた。ここに彼らが妬み、その妬み心に支配されるということが起こってしまったのです。彼らは、ギリシャ人も救われるという福音を喜べなかったのです。その救いを共に喜べずに、妬んでしまったのです。
 この妬み心と対極にある心を聖書は私共に教えています。それはローマの信徒への手紙12章15節にある「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」心です。この心は、主イエス・キリストによって新しくされた者に、聖霊によって与えられる新しい心です。私共はこの新しい心によって、妬み心に支配されない、妬みに打ち勝つ者とされているのです。私共に妬みが全くなくなったわけではないでしょう。しかし、これに支配されず、これと戦い、これに打ち勝つ心が与えられたのです。

5.自分で聖書を読む
 パウロたちは、ベレアにおいても同じように聖書を説き明かしました。ここではテサロニケとは少し違った反応がありました。11節「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」とあります。ここにベレアのユダヤ人たちは「素直」であったと記されています。「素直」ということは、信仰においてとても大切なことです。まず、素直に神様の言葉に耳を傾けるのです。最初から「信用しない。」などという態度で、語られた神様の言葉を受け付けないのなら、信仰が与えられることはありません。しかし、それは何でもかんでも語られたことを鵜呑みにするということではありません。彼らは、パウロが語ることが本当かどうか、聖書を調べたというのです。その結果、多くの人が主イエスを信じるようになったと聖書は告げています。
 聖書を自分で読んで、語られた福音が本当かどうか調べる。この「聖書を自分で読む」ということが為されるならば、必ず信仰が与えられる。私はそう信じております。皆さんも自分が信仰を与えられるようになったとき、聖書を開くのは日曜日の礼拝の時だけということはなかったでしょう。家でも聖書を読んだと思います。「良く判らないな」と思いながらも聖書を読み、「これは本当だ」と思う箇所に出会い、線を引いたりしたのではないでしょうか。
 私は伝道者として、求道者の方がもう既に主イエスの救いの御手に捉えられているということを思う時があります。それは、@その人が礼拝に集うようになった時、Aその人が毎日祈るようになった時、そしてBその人が自分で聖書を読むようになった時です。この三つはどれが最初といった順番はありません。この内の一つでもあれば、確かに神様の救いの御手の中に捕らえられ始めているのです。本人はまだそんなつもりではないでしょう。しかし、そうなのです。そして、この三つが揃うならば、それはもう聖霊なる神様がその人に働いて、救いへと導こうとされていることの確かなしるしなのです。自分に当てはまると思う方がおられましたら、自分は既に神様に捉えられているのだと思ってくださって良いと思います。

6.伝道を支える信徒によって
 パウロたちは、フィリピではギリシャ人に、テサロニケとベレアではユダヤ人たちに迫害を受けながらも伝道を続けました。しかし、ここでもう一つ忘れてはならないことは、それぞれの町には、パウロたちを支える人が起こされたということなのです。
 フィリピの町ではリディアという婦人が、そしてこのテサロニケの町ではヤソンという人です。6節には「ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って」とあります。この兄弟とはキリスト者という意味です。ヤソンという人は、パウロたちに寝泊まりを提供し、パウロたちの伝道を支えた人だと思います。彼らはパウロの伝道によって信仰を与えられ、パウロたちに寝泊まりを提供し、そしてパウロたちの代わりに捕らえられてしまったのです。ヤソンの名前は、ローマの信徒への手紙16章21節にも出てきます。ですから、彼はこのような困難な目に遭ってもそれで信仰を捨てるようなことはしなかったのです。このような人が起こされなければ、パウロがこの町を離れて次の場所に行ったとたんに、パウロの伝道の成果は元の木阿弥になってしまったかもしれません。彼らは直接的な伝道者ではありません。しかし、その町に住んで、その町の教会を守り支えていったのです。こういう人たちが起こされることによって、教会の伝道は進展していったのです。
 これは、いつの時代も同じだと思います。自分の家を、富を、時間を主にささげる人たちが起こされることによって、福音は全世界へと広がっていったのです。誰もが伝道者になるわけではありません。そのような召命が与えられているわけでもない。しかし、私共は誰でも、リディアやヤソンにはなれるし、なるように召されているのではないでしょうか。そして、今日ここに集まった皆さんが、聖霊の導きの中でリディアやヤソンになっていく時、私共の教会は、神社やお寺からも妬まれるほどの存在になっていくのだろうと思うのです。

 十字架にお架かりになるほどに私共を愛してくださった主イエス・キリスト。三日目に復活して私共を永遠の命へと導いてくださる主イエス・キリスト。このお方を我が主とあがめ、この方との愛の交わりに生きる時、聖霊なる神様は私共を導き、私共を清め、自らの妬み心を乗り超えて喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者へと変えていってくださるのです。そして、この新しくされた歩みの中で、私共はこの教会を守り支える者として歩んでいくのでしょう。聖霊なる神様の導きの下、今週も主と共に、主をほめたたえつつ、主の御前を歩んでまいりましょう。 

[2010年1月24日]

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