富山鹿島町教会

礼拝説教

「ただ一つの福音」
申命記 4章1〜4節
ガラテヤの信徒への手紙 1章6〜12節

小堀 康彦牧師

1.信仰による決断
 昨日、北陸学院同窓会の富山支部発足式がこの教会を会場に開かれました。40名弱の人たちが集まりました。何より嬉しかったのは、その中に教会の中に初めて入ったという人が何人もいたことです。これからこの富山支部の働きがどのように展開していくのか分かりませんけれど、きっと私共の思いを超えた展開を神様が備えてくださっていると信じております。と申しますのも、昨日の開会礼拝の説教の中でも話したことですが、この富山支部の発足というものが、信仰による決断によって為されたということを私は知っているからです。今年の2月のデージー会に金沢から北陸学院の同窓会本部の方が何人かいらして、富山支部の発足の話を出されたのです。デージー会というのは、北陸学院で40年間宣教師として働かれたディーター先生が本国に帰るときに、北陸学院を卒業した人たちが聖書から離れてそれっきりになっている、そのことを憂い各地に作られた聖書を学ぶ会です。富山では25年間続いています。私はたまたまその日のデージー会の聖書の学びの担当でした。聖書の学びが終わって、その話し合いの会にも同席しました。その話を聞いたデージー会の人たちの反応は、決して積極的なものではありませんでした。デージー会のメンバーは5、6名であり、そのすべてが60歳を越えた人たちです。細々と活動していたという言い方は失礼かもしれませんけれど、そういう状況が続いていたのも事実です。いったい自分たちに何が出来るのか、何をすべきか。不安と戸惑いの中で話し合いが為されました。私はそこに居合わせた牧師として、一言だけ申し上げました。「信仰の決断というものは、自分の能力とか見通しとかを根拠に為されるものではありません。その事柄が神様の招きであるかどうか、そのことを見極めて、後はただ神様の導きと守りとを信じて決断するものです。どうか、このことを信仰をもって受け止めてください。」そう申し上げました。その後デージー会の人たちの間でどのような話し合いが為されたのか、私は知りません。しかし、富山支部が発足したということは、このことを信仰をもって決断されたということなのだと思い、とても嬉しく思っているのです。

2.自分に頼る誘惑
 信仰において考え、信仰によって決断し、信仰をもって歩む。それがキリスト者の生き方であり、教会の歩み方というものです。しかし、私共はしばしばそれが出来ないのです。どこかで、神様の力、神様の導きというもの以上に、自分の力、能力といったものを頼り、それを根拠に考え、事柄を決めてしまうことがあるのです。神様、神様と言っているだけでは不安になるのです。自分の力を頼っている方が安心出来る。確かに、自分の能力で無理と思うことはしないということなら、冒険はしないで済むわけです。しかし、これは誘惑であります。キリスト者が戦わなければならない誘惑は、実にこの自分の力を頼る、自分の業に頼るということに対してなのでありましょう。私共は、ただ主イエス・キリストの十字架と復活という御業によって救われたのです。ただ神様の恵み、あわれみによって救われたのです。それなのに、いつの間にか、自分の熱心や努力によって信仰生活を保たなければダメだと思い始める。神様の恵みだけでは十分ではない。もっと他の、目に見える、頼りがいのあるものを求め始める。それは自分の能力であったり、富であったり、信仰の実践であったり、とにかく自分が救われていることを実感出来る何かを求め始める。これは実に根深い誘惑なのです。
 私の前任地で出会った何人もの牧師たちから、具体的な社会活動としての「○○をしない教会は教会じゃない」という言い方をされました。それは、当然「○○をしないクリスチャンはクリスチャンじゃない」という言い方にもなってくるわけです。更に、これを言い換えれば、「○○をしなければ救われない」ということにもなるでしょう。当然、私は反対しました。

3.福音と律法
 パウロが、このガラテヤの信徒への手紙で戦っているのも、そのことなのです。前回も申し上げましたように、パウロが伝道したガラテヤの諸教会に、「主イエスを信じるだけでは救われるには不十分だ。割礼を守り、律法を守らなければ救われない。」そのように教える人々が来たのです。ユダヤ主義者という言い方をしても良いでしょう。ガラテヤの諸教会の人々は、このユダヤ主義の人々が教えることをあっという間に受け入れてしまったのです。そういう中で書かれたのがこの手紙です。
 今日与えられた所から挨拶が終わってこの手紙の本文に入るわけですけれど、他のパウロの手紙は、挨拶が終わると「感謝する」あるいは「ほめたたえる」という言葉で始まっています。しかし、この手紙だけは唯一例外で、「あきれ果てている」という言葉で始まっているのです。主に感謝し、主をほめたたえることを忘れさせるほどに、パウロをあきれ果てさせたこと。それは、ガラテヤの諸教会が「ほかの福音に乗り換えようとしている」ということでした。
 この「ほかの福音」というのは、次の7節で「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」と言っているように、それは福音とは呼べないものなのです。主イエスの十字架と復活によって救われる、これを信じる信仰によって救われるというのが福音です。しかし、これに加えて割礼を受けなければ救われない、律法を守らなければ救われないというのであれば、それはもはや福音とは言えない。そうパウロは言うのです。それは神様の憐れみによって救われるのではなくて、自らの業によって救われるということになるからです。
 このことは、別の言い方をすれば、福音と律法の関係を語っていると言っても良いでしょう。十戒に代表される律法は、神様が与えてくださったものです。どうでも良いものとして無視することは出来ません。だったら、この主イエスの福音とモーセの律法とはどういう関係になるのかということです。
 パウロの主張はこうです。@主イエスを信ぜよ。Aそうすれば救われる。Bそして、あなたは律法を全うするようになる。一方、ユダヤ主義者たちの主張はこうです。@主イエスを信ぜよ。これはパウロと同じです。しかし、次が違います。Aそして律法を守れ。Bそうすれば、あなたは救われる。ユダヤ主義者たちは律法を救いの条件としたのですが、パウロは律法を救われた者の実りとしたのです。細かな議論のように見えるかもしれませんが、ここが本当に大切な所なのです。もし律法を守ることが救いの条件であるとするならば、結局の所、主イエスの十字架というものはあってもなくても良いことになってしまうのです。また、主イエスを信じる信仰だけでは不十分で、律法を守ることによって救われるとするならば、結局の所、私共は恵みによって救われるのではなくて、律法を守るという自分の良き業によって、自分の力によって救われるということになってしまう。それでは、何のために主イエスが来られたのか分からなくなってしまうのです。

4.福音は単なる教えではありません
 どうして、ガラテヤの諸教会の人々は、パウロが伝えた、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるという福音から離れようとしてしまったのでしょうか。私は、ガラテヤの諸教会の信徒の人々は、信仰によってのみ救われるというのが頼りないと思ったからではないかと思います。自分はこれだけやっている、だから救われる。この方が分かりやすいし、実感がある。これだけ熱心にやっているのだから救われる。これは本当に分かりやすい。信仰がなくても分かる。一生懸命頑張れば、その報いを受ける。これはこの世の論理と同じです。ですから、信仰がなくても分かる。この「信仰がなくても分かる」というがポイントです。信仰の事柄というものは、信仰がなければ判らないのです。信仰がなくても分かるというのは、福音ではないのです。
 ガラテヤの諸教会の人々は、パウロの福音も、救われるための教えのひとつとして受け取っていたのではないか、私はそんな気がしてならないのです。それは、ガラテヤの諸教会の人たちの信仰が、主イエスを信じるといっても、生きて働き給う主イエス・キリストと人格的に出会い、この方を愛し、この方との交わりの中に生きるというものではなかったのではないかと思うのです。だから、こっちの方が正しそうだ、といった程度の所で、パウロの伝えた福音からユダヤ主義者が語る教えへと流れていってしまったのではないか。そう思えてなりません。主イエスを信じるということは、主イエスを愛することであり、主イエスを生ける神として信頼し、この方にすべてを委ねるということなのです。救われるために自分の力が必要であるということになるならば、人は必ず自分の力を頼るということになる。良いですか、皆さん。これはキリスト教信仰の土台です。ここに、蟻の一穴でも開くようならば、どんな立派な堤防もこの穴から崩れてしまうように、キリスト教信仰のすべてが崩れていってしまうのです。
 キリストの福音とは、キリストによって与えられた福音であり、キリストが働いてくださる福音なのです。福音は単なる教えではないのです。今生きて働き給うキリスト、私共を全き救いへと導いてくださるキリストを信じることです。キリストの交わりの中に生きることです。この生きて働くキリストを信頼し、この方との交わりの中に生きる者にとって、自分が救われるために他の何かが必要であると考えるなどということは、キリストを蔑ろにすることであり、とても我慢が出来ないことなのです。だから、パウロはこのような激しい口調で語っているのです。

5.呪われるべきもの
 8〜9節「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」ここでパウロは「呪う」という言葉さえ使っているのです。しかも、繰り返し使っています。何という激しさでしょう。それは、このガラテヤの諸教会の人々が流れてしまっている、律法も守らなければならないという教えに、キリストを頼らず自分を頼り、神様を誇らずに自分を誇ろうとする罪を見たからなのです。ガラテヤの教会の人々を主イエス・キリストの救いから引き離そうとするサタンのたくらみを見たからです。
 ガラテヤの教会の人々は真面目な人たちだったのだと思うのです。サタンの知恵というものは、実に驚くべきものです。人間の真面目さという良き性格の中にさえ入り込んでくるのです。真面目であることが悪いはずがありません。しかし、この人間の美徳とも言える真面目さも、サタンの誘惑から安全であるというわけではないのです。そこにサタンが働くと、自分の真面目さを頼って救いに至ろうとする間違いが生じるのです。律法を守らなければ救われないという教えは、真面目な人々には本当のことのように聞こえたのだと思います。真面目にきちんと律法を守れば救われる。これは、自分の救いを実感できる、手応えのある確かな教えに聞こえたのです。しかしこれは、主イエス・キリストの十字架を亡き者として葬り去る、サタンの知恵だったのです。パウロはそのことに気付きました。私共が信仰における知恵を与えられなければならない、信仰の論理としての教理を身に着けなければならないというのは、まさにこのようなサタンの誘惑をきちんと見分け、これと戦い、決別するためなのです。

6.気に入られたいのは、人に、それとも神に
 さて、パウロは10節で「わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。」と言います。それは多分、パウロを批判する人々が、「パウロは異邦人に気に入られようとして、割礼や律法のことを語らない。」と言っていたからではないかと思います。
 人に気に入られようとする、そんな思いを全く持っていないという人は一人もいないでしょう。牧師だってそうです。大体、人に嫌がられていたのでは、伝道も牧会も出来はしないのでしょう。しかし、人に気に入られるためにキリストの福音を歪めてしまうのなら、それは本末転倒ということになります。教会が人に気に入られようとするのは、それはキリストの福音をその人に伝えたいと願うからであります。人からの誉れを求めて、自分の栄光を求めて、キリストの福音を曲げるなら、それは呪われるべきことなのです。魂をサタンに売り渡すことだからです。私共が求めること。それは、神の栄光が現れること、キリストの福音が一人でも多くの者に伝えられていくことです。それが、キリストの僕とされた私共の新しい歩みなのです。  私はキリストに出会うまで、この世における栄達を求めていました。それがどんなに空しいものであるかを知らなかったのです。しかし、キリストを知った今、私の願いはただ神様に用いられ、神様の御用にお仕えし、神様に良しとされること。それだけです。皆さんもそうでしょう。それが、キリストの救いに与った者の新しい生き方なのです。
 パウロは、ダマスコ途上の復活の主イエスとの出会いによって、律法を守って自分の力で救われようとするそれまでの歩みから、180度転換させられました。自らを頼り、自らを誇ろうとする者から、ただ神様を頼り、神様を誇る者へと変えられたのです。この大転換がパウロの伝道者としての根本を形作っています。彼の福音説教は、このダマスコ途上のキリストの出来事と深く結びついているのです。キリストの福音に律法を守らなければ救われないということを加えることは、あのダマスコ途上での大転換を否定することになる。主イエス・キリストとの出会いを否定することになる。パウロにそれは出来ませんでした。自分を造り変えてくださり、伝道者としての自分の歩みのすべてを守り導いてくださっている主イエス。今生きて働き給うキリストとの交わりの中に、パウロは生きていたのです。パウロは、自分の福音理解は人に教わったのではない、あのキリストとの出会いの中で、生けるキリストから直接受けたものなのだ、だからこれを変えることは出来ない、そう語っているのです。
 良いですか、皆さん。私共の信じているキリストの福音は、私共のすべてを支配し、守り、導いておられるキリスト御自身との交わりそのものなのです。ですから、私共はこの方を信頼して、招きと促しがあるならば、いつでも信仰の決断による一歩を踏み出していくのです。私共が頼りにしているのは、自分の力や見通しではなく、生ける神である主イエス・キリスト御自身だからです。

[2010年8月22日]

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