富山鹿島町教会

礼拝説教

「語調を変えて」
詩編 139編13〜18節
ガラテヤの信徒への手紙 4章8〜20節

小堀 康彦牧師

1.神に知られている
 アドベントの第二週を迎えております。主イエスが再び来たり給うを待ち望む信仰を心に刻む時です。キリストの教会は二千年の間待ち続けてきました。そしてこれからも待つのです。この時私共は、私共の信仰の歩みが、長い時間の流れの中で持ち堪えるものでなければならないことを改めて思わされるのです。私共が主イエスと出会い、聖霊を注がれ、信仰を与えられた。洗礼を受け、キリスト者となった。新しい命に生きる者とされた。その時の喜びを生涯保ち、どんな時でも主イエスとの生き生きした交わりの中に生きる。それは決して簡単なことではありません。いつの間にか、自分がキリスト者であることが当たり前のことになって、信仰の手ごたえのようなものが感じられなくなってしまう。そのような時が必ず来るからです。信仰者として、何かもっと手ごたえのあるものがあるのではないか。そんな風に思う時が来るからです。それは誘惑の時です。信仰の根拠を自分の中に求め、実感することを求め、いつの間にか信仰を自分の力で支え、何とか出来ると思い始めるのです。
 私にもそのような時がありました。神学校に入って三年目の頃でした。12年間長血の病を患っていた女性が、主イエスの衣の房に触れて癒されたように、私もこの手で主イエスの衣の房にでも触れたい。主イエスとの交わりを実感したい。そんな思いがつのったのです。ちょうどクリスマスの夜。すべてのクリスマスの行事が終わった12月25日の夜、神学校のチャペルに入って、独り十字架を見上げて祈っておりました。夜中の2時頃でしたでしょうか、チャペルの電気が点いているので学長が扉を開けて覗きました。しかし、私の姿を見て、扉をそっと閉めて行かれました。主イエスに触れたい。主イエスとの交わりを実感したい。そう願い、祈り続けました。しかし、主イエスの姿が十字架から浮かび上がることも、主イエスの声が直接聞こえるということもなく、やがて朝が来ました。その夜、神学校のチャペルでは何も起きませんでした。しかし、今朝与えられている御言葉、ガラテヤの信徒への手紙4章9節「神を知っている。否、神に知られている。」との御言葉が与えられました。そして、私の中に悶々としていたものが嘘のように消えていきました。私は神を知っていると思っていた。だから、神様を理解し、この手でつかみ、実感しようとしていた。けれど、それが出来ずに、手ごたえのない思いに捕らえられていた。しかし、私は神様に知られている。神様は私のすべてを知っておられる。私以上に私のことを御存知であり、すべてを知った上で、一切の罪を赦し、キリスト者としてくださり、神学校へ送ってくださった。私が神様を知っているかどうか、主イエスに触れて、主イエスを実感しているかどうか、そんなことよりもっともっと重大なことがある。それは自分が神様に知られているということ。そのことが分かったのです。神様に知られている。神様に愛されている。神様に召されている。それで十分なのだということが分かったのです。だから、今自分は、今やれることを、今しなければいけないことを精一杯やろう。そう思ったのです。

2.心配するパウロ
 ガラテヤの教会の信徒たちは、使徒パウロの宣べ伝える主イエスの福音によって救われました。信仰を与えられ、洗礼を受け、キリストを着た者となり、神の子となったのです。ただ神様が与えてくださった信仰によってです。ところが、律法も守らなければ救われないという教えを吹き込まれ、主イエスを信じるだけでは不十分だと思い始めたのです。パウロは、そのように信仰のあり方が変わってしまったガラテヤの教会の信徒たちを、何とかして「信仰によってのみ救われる」という福音の原点に引き戻すために、この手紙を書いているのです。この時彼はガラテヤの教会の人たちのことが心配で仕方がなかったのです。11節「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」とあります。主イエスの福音に出会う前の、偶像を拝み、日や月や時節や年などの暦に縛られた生活へと戻ってしまったのではないか。神様の恵みの御手の中を歩むのではなくて、自分の力で、自分の努力で救いに至ろうとする生活へと戻ってしまったのではないか。パウロはそのように彼らのことが心配で仕方がないのです。
 パウロから見れば、律法も守らなければ救われないという歩みは、主イエスを知る前の偶像を拝んでいた状態に戻ってしまうことと少しも違わないことだったのです。何故ならそれはどちらも、神様に知られている、神様に愛されている、神様に召されているという神様の救いの恵みの中に生きるのではなくて、自分の業によって救いに至ろうとする歩みだからです。神様の愛があろうと無かろうと自分は正しい、自分は善いことをしている、だから救われるというところに生きることに他ならないからです。偶像礼拝においては、偶像が私共を愛しているかどうかは問題ではないのです。私が決められたことを守っているか、作法通りにしているか、それだけが問題なのです。パウロは、ガラテヤの教会の信徒たちが主イエスの福音と出会い、神様に知られているという恵みの中に生きる者となったのだから、そこに留まって欲しい。そこに生き切って欲しい。そう告げているのです。何故なら、まことの救いはそこにしかないからです。

3.途方に暮れるパウロ
 パウロは途方に暮れています。自分が伝道したガラテヤの教会の信徒たち一人一人の顔を思い浮かべながら、どうして律法を守らなければ救われないなどという教えに走ってしまったのか、どうしたらキリストの福音に立ち戻ってくれるのか、どう語りかければ良いのか分からずに、途方に暮れているのです。自分の言葉が、自分の思いが通じない。そんな思いの中で、パウロは途方に暮れているのです。
 ここには、伝道者パウロの偽らざる思いが表れています。伝道者にとって一番辛い、心が痛むことは、自分が伝道した人が信仰から離れてしまっていることです。その人との交わりが深ければ深い程、心の痛みもまた大きいのです。この嘆きは、すべての伝道者が味わうものです。自分が洗礼を授けた人の内、一人も教会から離れた人がいないというようなに伝道者は一人も居ません。これは、すべての伝道者が味わう嘆きです。この教会を離れ、信仰から離れているその人に向かって、何と言って語れば良いのか。伝道者は途方に暮れてしまうのです。
 パウロはここで、ガラテヤの教会の人たちが福音に立ち帰るように、彼らのところに行って、顔を合わせて、語調を変えて話したいと言います。20節「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」とあります。パウロは、ガラテヤの教会の人たちに福音を告げたときの自分の語り方が悪かったのだろうか。優し過ぎたのだろうか。厳しく言い過ぎたのだろうか。もっと相手の話を聞かなければならなかったのだろうか。いろいろ思うのです。そして、あの時とは違う語り方で、今度は語ろう。何とかして福音に立ち帰らせたい。パウロはそう心から願っているのです。語るべき内容は変わりようがありません。しかし、何とかして伝えるためには、語調を変えよう。そうパウロは告げるのです。

4.キリストが形づくられる
 パウロの願いは、ガラテヤの教会の人々がキリストの福音に立ち帰ることです。そして、一人一人がしっかりとキリストと結びついて、キリストの福音を証しする者として立っていくことなのです。それをパウロは、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」(19節)と言います。パウロは、ガラテヤの教会の人々がキリストに出会って救われるために、多くの労苦を厭わずに伝道しました。それは産みの苦しみでした。しかし、今もう一度、その苦しみを味わっていると言うのです。産みの苦しみは一度でたくさんです。しかし必要なら、何度でもしよう。しなければならない。そうパウロは思っているのです。彼らが救われるためです。
 私共の中にキリストが形づくられるというのは、途方もない大事業であります。一人の人が洗礼に至るということも大変なことでありますが、その人がまことにキリストの愛に生き切り、福音の証し人として立ち続けていくというのは、本当に大変なことなのです。私共は自分自身に対しても、他の人に対しても、しばしば諦めてしまう。もう自分の信仰の成長はないのではないか。教会を離れたあの人が戻ってくることはないだろう。しかし、パウロは諦めないのです。何故なら、キリストが諦めない、神様が諦めないからです。もし神様が諦めるような方ならば、私共の誰一人として救いに与ることはなかったし、まことのキリスト者として成長していくことなど出来るはずもないのです。それ程に私共は弱く、愚かで、頼りない者なのです。ガラテヤの教会の人々だけの話ではありません。長い人生をキリストだけを頼り、この方の救いによってどこまでも貫かれるということは、当たり前のことではないのです。様々な誘惑が私共を襲うのです。これを勝ち抜いていく力は、私共の中にはありません。しかし神様は守ってくださいます。その神様を信頼して、その力と御支配とを信じ委ねて、安んじてまいりましょう。神様が私共を造り変え続けてくださり、私共の中にキリストを形づくっていってくださるのです。

5.わたしのようになってください  パウロは、福音から離れそうになっているガラテヤの教会の人々に向かって、「わたしのようになってください」と告げます。12節「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」とあります。パウロはキリスト者の模範として、自分を提示するのです。もちろん、自分の性格とかの話ではありません。パウロも人間として見るならば、欠けのある人でありました。パウロはそのことは百も承知なのです。百も承知の上で、彼はこう語るのです。欠けのある自分が、ただキリストを信じる信仰によって生かされている。その恵みだけを信頼して生きている。その姿を見て欲しいと言うのです。
 パウロはユダヤ人でありました。しかし、キリストの福音に生かされた者として異邦人であるガラテヤの教会の人々へ伝道する時、ユダヤ人としての歩みを止め、ガラテヤの教会の人々と同じように生活したのです。異邦人とは共に食事をしないユダヤ人の慣習を捨てて、異邦人であるガラテヤの教会の人々と親しく交わりました。そうすることによって、彼はガラテヤの教会の人々に福音を伝えたのです。パウロは、その時のことを思い出して欲しいのです。私はあなたがたのようになったではないか。あの時、あなたがたに律法を守ることを教えたか。割礼を受けよと言ったか。ただキリストの福音だけを伝えたし、それによって生きることがどういうことなのか、私は身をもって示したはずだ。だから、あなたがたもキリストの福音に生かされた者として、私のように歩んで欲しい。ただキリストに愛されている、キリストの御業によって救われた、信仰によって神の子とされた、その恵みの中にしっかり立って欲しい。そうパウロは告げるのです。
 パウロは、自分がガラテヤで伝道した頃のことを思い起こさせます。彼がガラテヤで伝道した頃、彼は体を悪くしていたようです。病名が何であったのかは分かりません。ただ、15節の後半に「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」とありますから、目の病気であったのかもしれません。伝道をする時に、伝道者の体が悪いということは、普通はハンデになります。あなたの宣べ伝える神様がそんなに愛に満ちた方であり力に満ちた方であるならば、まず自分の体を治してもらえば良いではないか。そんな風に受け取られることが予想されるからです。しかし、この時ガラテヤの教会の人々は、パウロの体が悪いことを少しもさげすんだり忌み嫌ったりせず、それどころか、パウロを神の使いか、キリスト・イエスででもあるかのように受け入れたというのです。ガラテヤの教会の人々が、どれ程パウロを信頼していたかが分かります。それどころか、自分の目をえぐり出しても与えたいと思った程なのですから、パウロとガラテヤの教会の人々の愛の交わりの深さも大変なものでした。
 パウロはここでガラテヤの教会の人々を、12節では「兄弟たち」と呼びかけ、19節では「わたしの子供たち」と呼びかけています。それ程に深いきずなで結ばれていたパウロとガラテヤの教会の人々なのです。それなのに、今では心が通じないのです。パウロは途方に暮れるしかありません。

6.語調を変えて
 しかし、パウロは途方に暮れて何もしないのではないのです。このような手紙を書くのです。そして、あなたがたのところに行って、顔を合わせて、語調を変えて語りたいと言うのです。この手紙自体、幾度も語調を変えています。教理の話をしたり、自分と出会った頃のことを思い出させようとしたりします。理詰めで語ったかと思ったら、情に訴えます。何としても心を変えて欲しいからです。
 このパウロの「語調を変えて」というのは、もちろん伝道者としてのパウロの思いです。しかし、それだけではないと私には思えるのです。この「語調を変えて」というあり方は、何よりも神様御自身のあり様なのではないか、そう思うのです。神様御自身が語調を変えて語り、何としても愛を伝えようとされる方であるが故に、伝道者もまたそうせざるを得ない。そういうことではないかと思うのです。
 旧約の神様は厳しく、新約の神様は愛に満ちた優しい方というような受け取り方をする人が時々おりますが、そうではないのです。神様が旧約と新約で二人いるはずがないのです。だったら、この旧約と新約の違いは何なのか。それはまさに、旧約と新約では神様御自身が語調を変えて語っておられるということなのです。聖書の神様は、語調を変えてお語りになる方なのです。同じ旧約の中でも語調が違いますし、旧約の中の同じ書の中でも違うのです。例えばイザヤ書ですが、前半の39章までと後半の40章以降とでは全く語調が違うのです。前半の厳しく悔い改めを求める語調から、後半は将来の希望を語る、慰めに満ちた語調に変わるのです。それは、前半がまだイスラエルが滅ぼされる前に為された預言であるのに対して、後半は既に国が滅び、バビロン補囚に遭っている神の民に語られたからです。エレミヤ書もそうです。神様は語調を変えるのです。それは、神様が何としても自らの愛を伝えたいからです。何としても、神の民と御自身との愛の交わりを壊したくないからです。神様は、神様の言葉を聞く者の状況に合わせて、語調を変えてお語りになられる方なのです。主の日ごとに、私共は様々な語調の神様の言葉を聞きます。その度に語調は変わるのです。その時に必要な御言葉を、語調を変えて神様は私共に与えてくださるからです。この主の御言葉だけが、私共を造り変え、私共の中にキリストを形づくっていってくださるのです。
 私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐は、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになった主イエス・キリスト御自身に与ることです。キリストの肉を食べ、血を飲むのです。時にこの聖餐において、私共は自らの罪を厳しく告発されます。十字架に架けたのはこの私であることを示されます。しかしこの聖餐において、私共の一切の罪が既に赦されていることを、慰めに満ちて告げられるのです。この聖餐は、二千年前のキリストの十字架を思い起こさせます。同時に、主が今も共にいてくださる方であることを思い起こさせられます。そして、再び来たり給うキリストと共に与る神の国の食卓を思い起こさせるのです。神様は、私共にその時に合った必要なあり方で御言葉を与えてくださるお方だからです。私共はこの御言葉の養いを受け、我が身にキリストが形づくられることを信じ、このアドベントの日々を歩んでまいりたいと思うのです。

[2010年12月5日]

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