富山鹿島町教会

礼拝説教

「キリストによって自由にされた者」
創世記 21章9〜21節
ガラテヤの信徒への手紙 4章21節〜5章1節

小堀 康彦牧師

1.ユダヤ教とキリスト教における旧約聖書
 まだクリスマスの余韻が残っている中での、2010年最後の主の日の礼拝を捧げています。今朝与えられております御言葉は、私共にはあまり馴染みのない所かもしれません。ここを愛唱聖句にしているという人はあまりいないでしょう。一度読んだだけでは何が語られているのかピンと来ない、そんな感想を持つ方もおられるかもしれません。アブラハムの二人の子、女奴隷ハガルとの間の子イシュマエルと、妻サラとの間の子イサクの話です。パウロはこのアブラハムの二人の息子について、独特の解釈をしてみせているわけです。多分、ユダヤ教の立場からすれば、全く納得出来ないような解釈であったと思います。旧約聖書というのは、ユダヤ教もキリスト教も正典として持っているのですけれども、その理解の仕方というのは相当違うものがあります。その一番の理由は、私共は旧約聖書を主イエス・キリストの預言、主イエス・キリストによって成就される神様の救いの御業、キリストの福音を指し示しているものとして読むわけです。一方ユダヤ教においては、主イエスをキリスト、救い主とは認めないわけですから、主イエスを指し示すものとしては読めないわけです。そして、旧約聖書の神の民は、ユダヤ民族である自分たちのことであるという前提で読むわけです。これは別の言い方をすれば、私共は旧約聖書もキリストの福音の光の中で読むのですが、ユダヤ教にはキリストの福音はありませんから、あくまで律法の書として読むということになるわけです。そもそも、ユダヤ教には新約聖書はありませんから、旧約聖書という言い方自体がキリスト教の立場を示しているのです。

2.律法主義と福音主義
 さて、今朝与えられております所は、議論が少し込み入っているように見えますけれど、結論ははっきりしているのです。5章1節にありますように、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」ということです。このキリストによって自由にされた者として、すでにキリストの福音に出会い、この福音によって自由にされた者として、パウロはアブラハムの二人の息子の話をしているのです。旧約聖書にあるアブラハムの話を、これはこのように主イエス・キリストの福音を指し示しているのだ、と解釈してみせているのです。
 パウロが問題にしているのはキリストの福音による自由ということです。ガラテアの教会の人々はパウロの伝道によってキリストの福音に出会って救われたのですけれど、しばらくして、信じるだけでは救われない、律法も守らなければ救われないという教えに引っぱられてしまったのです。この律法を守らなければ救われないということは、律法によって縛られるということであって、キリストによって与えられた自由ではない、それは律法の奴隷だと言うのです。
 これこれをしなければならないから、これをする。これこれをしなければ救われないから、これをする。それは、キリストによって救われた者の歩みではない、とパウロは言うのです。それは自由じゃない。私共は、ただ主イエスを信じることによって救われた。この主イエスの救いは何の条件もないのです。ユダヤ人であるとか、律法を守っているとか、私共の側に救われるための条件は何もない。ただ、主イエス・キリストを信じる。それだけです。ただそれだけで救われ、神の子とされ、神様を「アバ、父よ」と呼び奉り、神様との親しい愛の交わりに生きる者とされた。そこにあるのは、神様の憐れみであり、恵みであります。もし、律法を守らなければ救われないとするならば、私共が救われるには、神様のあわれみ、神様の恵みだけでは不十分であるということになってしまいます。そんなことはあり得ません。ただ神様のあわれみ、神様の恵みだけが私共を救う力であり、根拠なのです。このただ恵みによって救われるというのが「福音主義」であり、律法を守らなければ救われないというのが「律法主義」です。
 パウロはここで福音主義と律法主義の対立を見ているわけですが、実はこれは深く人間の本性としての罪に根ざしている事柄なのです。人間の罪は、神様から離れてしまうという方向性を持っています。ですから、神様を信頼し、神様との愛の交わりに生きるのではなくて、自分の力を頼り、自分だけでやっていこうとするわけです。このことが律法主義の根っこにはあるのです。しかし、主イエスによって救われたということは、ただ神様のあわれみによって救われたということでありますから、ただ神様に感謝して、神様を信頼し、神様との愛の交わりの中に生きようとする。そこに生まれるのが自由なのです。言うなれば、親子の関係、親と子の愛の交わりにあるのが自由であり、主人と奴隷の関係にあるのが「〜しなければならない」というあり方だということです。私共は救われて、神の子とされました。だから、神様に対してまことに自由な者とされたのです。それをどうして今さら、その関係を捨てて、「〜しなければならない」という関係、奴隷と主人の関係に戻ろうとするのか、とパウロは言っているのです。

3.自由な交わりの共同体:教会
 私は、この「〜しなければならない」というところに生きようとする人の思いは分かるのです。それは私の中にもあるからです。自由と言われると、何か頼りないような、不安や恐れを覚え、「〜しなければならない」というところに生きていく方が安心するというところが私共にはあるのではないかと思うのです。それは、自由というものが、罪人である私共には本質的に異質なものだからです。自由に対する憧れと、自由に対する不安と恐れが、私共の中にはあるのです。しかしそれを百も承知の上で、パウロはキリストによって与えられた自由の中に生き切れと促しているのです。何故なら、自由への不安と恐れこそ、主イエス・キリストによって解き放たれたはずの罪人を縛りつける鎖のようなものだからであります。神様の御業の中に、自分の全人生を投入し、お委ねする。そこに、罪人であった時には決して味わうことのなかった自由が与えられるからであります。
 もちろん、この自由というのは勝手気ままというようなものではありません。喜んで神と人とに仕えるというあり方で用いられるものです。勝手気ままは、少しも自由ではないのです。自分の欲や罪に引き回されるだけだからです。
 聖書が告げる自由とは、自分を縛るものからの自由であると同時に、自分が信頼すべき方へすべてを委ねるという自由でもあるのです。この自由は、人格的な愛の交わりの中でのみ与えられるものです。そして、その根本に、私共と神様との関係があるわけです。神様との関係において自由を知った者は、人との交わりにおいても自由となるのです。これはとても大切なことです。親子、夫婦、そして隣人との関係において、私共は自由となるのです。
 先週はクリスマスでした。きっと皆さんもプレゼントのやり取りをされたと思います。このプレゼントというあり方は、お歳暮とは少し違うのではないか、私はそんな風に思います。これは私の印象ですが、お歳暮というのは、お世話になった人がありがとうという思いで贈るものではないかと思います。そしてそこには、何か「義理で贈る」という感覚がついて回る。しかしクリスマスのプレゼントは、お世話になった人が贈るとは限らないのです。親が子にもあげますし、子が親にもあげます。「しなければいけない」ではなくて、「したいから」という思いの中でクリスマスのプレゼントは贈られるのではないでしょうか。そしてここには、愛による一つの自由な関係が表れているように思うのです。
 教会というのは、この愛による自由な交わりの共同体です。「〜しなければならない」という原理ではなく、「〜したい」という自由の原理によってすべてが営まれていくのです。「〜したい」という自由の原理は、この礼拝への出席から献金やすべての奉仕に貫かれるものです。この自由の原理は、神様の召命とそれに応える献身という形で表れるものです。私共は、献身というものを、「〜しなければならない」というものとして決して受けとめてはなりません。献身は神様への自由な応答であり、それ故、感謝の業、喜びの業なのです。「〜しなければならない」というものが教会の交わりの中で支配的になりますと、それは必ず「どうしてあの人はしないのか」という批判になり、逆に「私はやっている」という自慢にもなります。そしてそこに立ち上るのは人間の罪の臭いであって、キリストの香りではありません。
 しかし何度も申しますが、この自由は勝手気ままではありません。喜んで仕える、喜んで献げるというあり方は、神様との人格的な愛の交わりの中で、必ず責任的なものになるのです。無責任と自由とは決して相容れないものなのです。それは、無責任は愛と信頼の交わりを破壊するものだからです。キリストによって与えられた自由は、愛の交わりを形成していくものであって、これを破壊するものでは決していないのです。そしてここに生まれるのが、「自由な規律」とでも言うべきものなのです。この「自由な規律」こそ、教会の秩序を形作っていものなのです。
 クリスマスの時期は、たくさんの人が多くの御奉仕を担ってくださいました。この一ヶ月間にわたり、チラシ配りや聖歌隊の練習、祝会の食事の準備やリース作り、そして教会学校のプレゼント作り等々、数え上げれば切りがない程です。そして、その一つ一つが、神様への喜びの献げ物でありました。献げられた方は、その奉仕によって、知らない内に神様との愛の交わりの中に生かされ、より楽しく、喜びの中でクリスマスを過ごされたのではないかと思うのです。それは、「〜しなければならない」という思いから自由になって、喜んで献げたからなのでしょう。

4.アブラハムの二人の息子
 さて、聖書は、アブラハムの二人の息子について語ります。一人は妻サラとの間に生まれたイサク、もう一人はサラの女奴隷であったハガルとの間に生まれたイシュマエルです。イサクは、アブラハムが100歳、サラが90歳の時に神様によって与えられた子です。一方イシュマエルは、アブラハムが神様の言葉によってハランを出発して10年後、アブラハムが85歳の時に、自分たちに子供が与えられないので、サラの提案によって、まだ若かったであろう女奴隷ハガルとの間にもうけた子でした。パウロは、イシュマエルを女奴隷から生まれた子、肉によって生まれた子(これは自然の営みの中で生まれたということでしょう)と言い、イサクを自由な女から生まれた子、約束によって生まれた子(これは肉に対して、霊によって生まれたと言っても良いでしょう)、このように対比しております。そして、イシュマエルはシナイ山に由来する契約(これは十戒を意味しています)、そして地上のエルサレムを意味し、イサクは主イエスによる新しい契約、そして天上のエルサレムを意味していると解釈するのです。
 つまり、アブラハムの子孫であるというだけでは、アブラハムの祝福を受け継ぐとは限らない。イシュマエルは奴隷の子であり、肉によって生まれた律法主義のユダヤ人を表し、イサクは自由の子であり、霊によって生まれたキリスト者を表していると読むのです。そして、自由な子、神様の約束、霊によって生まれたイサクこそがアブラハムの祝福を受け継いだように、霊において生まれたキリストこそがアブラハムの祝福を受け継ぐと聖書は語っていると言うのです。最初に申しましたように、このような解釈は、ユダヤ教の立場からは決して認めることは出来ないでしょう。しかしパウロは、民族によらず、血筋によらず、律法を守ることにもよらないで、ただ神様のあわれみによって、ただ主イエスを信じることによって救われたという主イエスの福音から見れば、このアブラハムの二人の息子の内イシュマエルはユダヤ人・律法主義者たちであり、イサクはキリスト者たちのことを預言していたとして読んだのです。
 このイサクの誕生が、アドベントの時期に読まれるルカによる福音書1章に記されている洗礼者ヨハネの誕生、高齢になったザカリアとエリサベトとの間に男の子が与えられたという出来事の雛型になっていることは明らかです。イサクは神様の業によって生まれた。自然に生まれたのではない。そして、それが洗礼者ヨハネの誕生につながり、さらに聖霊によって身ごもった処女マリアより主イエスが生まれたという出来事につながっていることを私共は知るのです。このことは、主イエスというお方がまことの神にしてまことの人であることを意味しているだけではなくて、実に主イエスを信じる私共もまた、主イエスと一つにされた者として、肉においては目に見える両親から生まれたのではあるが、霊においてはキリスト者として新しく生まれたということを示しているのです。私共は、主イエスと同じように神の子と呼ばれる者とされたということにおいて、実に神様によって新しく生まれさせられたということなのであります。だから、イサクが約束の子であり、霊によって生まれた者であり、自由な子であり、正式な相続人となってアブラハムの祝福を受け継ぐ者とされたように、私共もまた、約束の子であり、霊によって生まれた者であり、自由な子であり、それ故アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされているということなのです。
 奴隷の子は、奴隷の身分のままであって、主人の子とはならない。これが当時の奴隷と奴隷の子に対しての考え方でした。だから、主人の財産を受け継ぐことは出来ないのです。律法を守らなければ救われないという神様との関係は、主人と奴隷の関係ではないか。本当の子は、何もしなくても、子としての身分の故に親の財産を受け継ぐことになっている。それが私共キリスト者なのであります。まことにありがたいことであり、これが福音なのです。

5.キリスト者の課題
 さて、イシュマエルはイサクよりも14歳も年長だったわけですから、イサクと遊ぶといっても、傍から見ればからかっているように見えたということは十分にあったことでしょう。それを見たサラの訴えによって、可哀想なことにハガルとイシュマエルはアブラハムのもとから去らされてしまいました。しかし神様はイシュマエルも憐れみ、彼もまた一つの国民とするのですけれど、パウロはこの出来事を「あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」(29節)と語ります。これは、当時のユダヤ教の人々が、生まれたばかりのキリストの教会を迫害していたこと、また信じるだけでは救われないとキリストの教会に異なる福音を流布するといったことを語っていると考えて良いでしょう。しかし、それだけではないのではないかと私には思えるのです。
 先程申しましたように、キリスト者の自由というものは、罪を根っこに持つ「〜しなければならない」という考え方とは対立します。従いまして、「〜しなければならない」という考え方が支配的なこの世においては、キリストによってもたらされた自由は「異質なもの」として退けられるということがどうしても起きるのです。これは避けられません。これは大きく言えば、福音と文化の問題にもなるでしょう。富山に限らず、また日本に限らず、世界中で、「〜しなければならない」ということが、人間が社会で生きる上での基本的な生き方としてあるのです。しきたり、因習、習俗、風習として根付いているのです。そういう社会のただ中にキリストの教会が建っていく時、そういう社会の中でキリスト者が生きていくとき、キリスト者の持つ自由というものは、異質なものとして怪訝に見られ、疎んじられ、退けられるということが起きるということなのです。しかし、私共はこの自由を捨てることは出来ないのです。これを捨ててしまえば、私共が救われたということ自体が無意味になってしまうからです。
 私共に与えられている課題は、この自由を失わず、この自由の中に生ききることによって、逆に「〜しなければならない」という考え、生き方が支配しているような文化を変えていくことなのです。それは大変な、気が遠くなるほどに息の長い作業です。一代や二代でどうにかなることではないでしょう。しかし、私共はこれを遂行していかなければならないのです。何故なら、神の国に「〜しなければならない」は存在しないからです。天使たちは、神様を誉め讃えなければいけないから誉め讃えている。そんなことはあり得ないでしょう。私共の歩みがこの神の国に向かっての歩みである以上、この課題を放り出すことは私共には出来ないのです。そして、この課題を遂行していくことは、決して難しいことではないのです。私共一人一人が、「〜しなければならない」ではなくて、主のために、隣り人のために、得になりそうもないことを喜んで為していく。喜々として為していく。神と人とを愛し、神と人とに喜んで仕えていく。これをしっかり為していく中で、必ずやこの富山が、日本が変えられていくのです。私共は日本人であり、富山人であるでしょう。しかし、それは肉におけることであって、霊においては神の子であり、キリスト者なのであります。私共はイシュマエルではなく、イサクなのであり、主イエス・キリストの兄弟とされている者なのです。このことをしっかり受け止めて、誇り高き自由な民として歩んでまいりたい。そう心から願うのです。

[2010年12月26日]

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