富山鹿島町教会

礼拝説教

「受肉」
イザヤ書 9章1〜6節
ヨハネによる福音書 1章14〜18節

小堀 康彦牧師

1.言葉が肉体をとったイエス・キリスト
 ヨハネによる福音書から御言葉を受け続けております。今日は、この福音書の序文と言われる冒頭の部分の後半、14節以下の所です。ここは、これから始まる主イエス・キリストの歩み、言葉、業を先取りして総括していると読むことが出来ます。
 14節、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とヨハネは告げます。これは、ヨハネによる福音書におけるクリスマスの記述です。ここには、天使も羊飼いも博士も星も出て来ません。ヨハネは、主イエスがどこで、どのようにお生まれになったのか、そのことには興味はないのです。そうではなくて、ヨハネがクリスマスの出来事において語りたいこと、語らなければならないと考えていることは、クリスマスの出来事とは一体何であったのか、主イエス・キリストの誕生とは一体何なのか、どういう意味を持った出来事なのかということなのです。そしてそれは、言が肉体をもったという出来事なのだ、それがクリスマスの出来事なのだと告げるのです。言とはもちろん、天地を神様と共に造り、初めから神と共におられた、神であられるキリストのことです。この言が肉体をもち、人間となられた。このお方こそ主イエス・キリストであり、この出来事がクリスマスの出来事なのです。
 言は肉をとって人間になりました。このことによって、言は神であることをやめたのではありません。神でありながら、人間となったのです。人間となったということは、時間や空間というものに制限された存在になったということです。怪我もすれば、空腹にもなる、そのような弱さをもった存在になったということです。永遠の神。天と地のすべてもそれを容れることが出来ないほど大いなる方。太陽よりも輝き、すべての被造物が見ることさえ出来ない、これを見れば滅びるしかない、それほどまでに栄光に満ちた聖なるお方。その方が、おとめマリアを母として、弱い小さなひとりの男の子として誕生したのです。この不思議、それがクリスマスなのです。
 このクリスマスの出来事を肉を受けると書いて、受肉と言います。あまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、キリストの教会においては、昔から使われているとても大切な言葉です。この受肉の出来事、これはどうしたって説明しようがない。どうして永遠が、無限が、一人の人間の肉体をとり得るのか。説明不能です。これはまさに秘義と言うべきことです。ですから、これを受け入れられない人も多くいました。第一には、ユダヤ人たちがそうでした。天地を造られた同じ神様を信じていながら、その神様が人間となったということを受け入れられなかったのです。イエスはキリストではない。神では断じてないとしたのです。逆も起きました。まだキリストの教会が生まれたばかりの頃、クリスチャンの中に、主イエス・キリストは神であったが人間ではなかったと言う人たちが現れたのです。これでは贔屓の引き倒しです。これを仮に現れたと書いて、仮現論と言います。この理解の背後には、肉体や物質世界は汚れており、見えない霊の世界こそが本当の世界であるという理解があったのです。もちろん、このような理解は間違いです。しかし、教会が生まれて間もない時に、教会の中にこういう人たちが出て来た。このヨハネによる福音書は、これに反対し、対抗するために書かれたという面があるのです。

2.私の救いのための受肉
 受肉は秘義であり、説明しようのない出来事です。しかし、この秘義の上に私共の救いがかかっております。もし主イエス・キリストがまことの神様でないのならば、私共の罪を全て担うなどということは出来るはずがありません。もし、主イエスが人間でないのならば、主イエスの十字架は痛くも痒くもなかったし、私共の身代わりになることは出来ませんでした。この受肉の秘義が、主イエスの十字架による私共の救いの根拠なのです。私共は、この受肉の秘義を説明することは出来ません。しかし、この受肉の秘義が何のために為されたのか、私共にとってどんな意味があるのか、それは分かるのです。それは、私共を救うためです。罪の縄目から解き放つためです。そして、そのことを伝えるために、この福音書は記されたのです。
 言は肉体をとり、人間として生まれ、イエス・キリストとしてこの地上の生涯を歩まれました。「わたしたちの間に宿られた」とは、直訳すれば「わたしたちの間に天幕を張った」となります。天幕を張ったというのは、今で言えば、家を建てて住んだということです。つまり、旅人として通過していったのではなくて、その土地に住んで生活をしたということです。主イエス・キリストは、ヨセフを父としマリアを母として生まれ育ち、そして数々の奇跡を為し、教えを語られました。十字架の上で死んで、三日目によみがえり、四十日後に天に昇られるまで、この地上の歩みを全うされたのです。主イエスの弟子たち、このヨハネによる福音書を書いた者を始め十二使徒たちは主イエスと共に生きた。そして見たのです。主イエス・キリストの中に、神の栄光を見たのです。恵みと真理に満ちた神の栄光を見たのです。だから、その見たことをこれから書いていく。そう言っているのです。

3.洗礼者ヨハネよりも先におられたキリスト
 さて、15節でヨハネが出て来ます。このヨハネは6節にも出て来たヨハネですが、この福音書を記したヨハネではありません。主イエスに洗礼を授けたヨハネ、洗礼者(バプテスマの)ヨハネと言われる人です。ルカによる福音書の1章に、このヨハネが生まれる時のことが記されています。マリアが主イエスを身ごもる時に、祭司ザカリアの妻で高齢であったエリサベトが既に身ごもっていた子が、このヨセフです。ですから、このヨハネは主イエスより数ヶ月前に生まれた人でした。ここで、ヨハネは主イエスのことを、「わたしの後から来られる方」と言います。主イエスが人々の前で説教し、奇跡を為し、メシアとしての公の歩みをするのは、バプテスマのヨハネより後でありました。ヨハネは、主イエスよりも先に悔い改めを求める説教をして、ヨルダン川で洗礼を授けておりました。彼は、民衆の大変な支持を集め、大変影響力を持つ預言者だったのです。そして、主イエスご自身、このヨハネのところで洗礼を受けたのです。1章29節以下にその記事があります。ですから、確かに主イエスはヨハネの後から来たのです。
 ところがヨハネは、続けて主イエスに対して「わたしよりも先におられた」とも言っています。これはヨハネの方が先に生まれたことと矛盾しているように聞こえます。しかしこの言葉は、主イエスと自分はどっちが年上か、どっちが先に生まれたのか、ということを言っているのではないのです。ここでヨハネが「わたしよりも先におられた」と言っているのは、主イエスは天地が造られた時からおられる神の言、神の独り子だと言ったのです。「わたしより優れている」というのもそういう意味です。イエスこそ神の言であり、神の独り子であると、バプテスマのヨハネは証ししたということなのです。このヨハネによって証しされた事柄を今から記していきます。そう言ってこの福音書が書き始められているのです。ですから、主イエス・キリストに現れた神の栄光、恵みと真理に満ちた栄光、それはこれからこの福音書を読んでいけば分かるということなのです。しかしここで、少し先取りして申しますとこういうことになると思います。

4.恵みと真理に満ちた神の栄光
 第一に、主イエス・キリストは数々の奇跡をなさいました。奇跡というのは、当たり前じゃないことが起こるから奇跡なのです。種も仕掛けもないから奇跡なのです。種や仕掛けがあれば、それは奇跡ではなくて手品です。ですから、主イエスによって為された数々の奇跡の中に、天地を造られた神様の独り子としての栄光が現れていたと言うことが出来るでしょう。しかも、主イエスはその奇跡を御自分のために為されたことはありませんでした。主イエスはいつも、苦しむ者を助けるため、救うために奇跡を為されました。ですから、この奇跡に現れた神様の栄光は、実に恵みに満ちていたのであります。
 第二に、主イエス・キリストは数々の教えをお語りになりました。神様について、天の国について、愛について、どう生きるかということについて、数々の教えを語られました。その教えは、18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とありますように、神を見、神と共におられた神の独り子にしか語ることの出来ない、権威に満ちた、真理の解き明かしでありました。そしてその教えは、人々を慰め、励まし、生きる力を与え、希望を与えるものでした。ですから、この主イエスの教えの中に、神の独り子としての栄光、しかも恵実に満ちた栄光が現れていたと言って良いと思います。
 しかし、最も重大なこと、ここにこそ恵みと真理が満ち、神の独り子としての栄光が現れたと言える所。それは十字架であります。十字架が栄光であるというのは、分かりにくいかもしれません。栄光とは、まさに輝き出るものでありますが、あの悲惨な十字架の死において、どこに栄光があるのか。そこにあるのはみじめな死、苦しみと嘆きの死しかないではないか。十字に組まれた太い丸太にくくりつけられ、手と足にクギを打たれ、脇腹を槍で貫かれた主イエスの死。それは、確かに惨めで悲惨な、目をそむけたくなるむごたらしい死でありました。しかし、どうして主イエス・キリストは十字架にお架かりになって、その惨めで悲惨な死をお受けになったのでしょうか。どんな奇跡をも起こすことがお出来になる神の独り子が、どうして十字架の上から降りることをせず、死の苦しみを味わい尽くされたのでしょうか。それは、自分を造ってくださった神様を忘れ、神様をあがめることも感謝することも忘れ、自分のことしか考えられず、神様に敵対していた私共を赦すために、私共に代わって神様の裁きをお受けになるためでした。ここに、神様の愛が、恵みと真理とがあふれんばかりに示されているではありませんか。御自分の独り子を十字架の上で捨ててまで、私共を赦し、神の子として受け入れようとしてくださる神様の御心が輝き表れているではありませんか。神の独り子としての栄光。それは、実にこの神の愛をその身をもって示された、十字架の死をもって表された、そこにこそ現れているのであります。
 主イエス・キリスト以外に、一体誰が、この神の愛を我が身をもって表した方がいたでしょうか。神様の愛をきれいごとで語る者はおりました。今もいます。しかし、そのような人たちは神様を見たこともないし、それ故神様について本当の所、何も知ってはいないのです。神様とはきっとこんな方だ、こんな方であるだろう、こんな方に違いない、そんなあり方でしか神様を知らないのです。しかし主イエスは違いました。天地が造られる前から神様と共におられた神の独り子である言が、人となった、受肉された方だからです。主イエス・キリストは永遠に神と共におられ、神であられた故に、神様の御心を自分の心とすることが出来、神様の愛を自らの死をもって示すことが出来たのです。神の独り子が私共の身代わりになって死ぬほどに、私共は神様に愛されているのです。ですから、この十字架にこそ神の独り子の栄光は現れているのであり、その栄光は恵みと真理とに満ちているのです。キリスト・イエスに現れた神の栄光は、私共を造り、支え、導くと共に、何よりも私共を一切の罪から救い出してくださる、神の恵みに満ちたものなのです。神の栄光とは、私共と無関係に、まるで遠くの星が輝くように輝いているのではないのです。私共を救うために、私共と同じ姿をとって、私共に代わって、悲惨な死をお引き受けになってくださって、わたしを信じなさい、わたしの救いに与りなさい、そのように招いてくださる方の上に、神の栄光は輝いているのです。

5.恵み、更に恵み  さて、16節に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」とあります。イエス・キリストの中には、愛・平安・喜び・希望・命・真理・善・美・救い等々、善きものすべてがあります。まことの神の独り子なのですから、神様の持つ善きものすべてがキリストの中にはあります。その豊かな満ちあふれる良きものを私共はみな与えられたと、この福音書を記した人は語るのです。しかも自分だけじゃない。「わたしたちは皆」ですから、この福音書を記した自分も含めて、主イエスの弟子である「わたしたち」はみんな恵みの上に、更に恵みを受けたと言うのです。主イエス・キリストを信じた者は、誰一人例外なく、すべての人が恵みの上に、更に恵みを受け、わたしたちはそれを知っていると言うのです。どうでしょうか。私共もまた、この福音書を記した人と同じように、私もイエス様から恵みの上に、更に恵みを受けた。そう証言することが出来るのではないでしょうか。
 「恵みの上に、更に恵み」ですが、これについては昔からいくつもの理解が示されてきました。@律法の恵みに加えて、福音の恵みと理解する人がいます。A信仰が与えられる恵みと、それによって応答する恵みと理解する人がいます。B主イエスが来られた恵みと、主イエスによって与えられた恵みと理解する人がいます。そしてCどんどん増し加えられていく恵みと理解する人がいます。「正解はこれです」と言う必要はないと思います。「恵みの上に、更に恵みを受けた」という御言葉は、代々の聖徒たちがそれぞれ自分の信仰の歩みに照らし合わせて、様々に理解してきたのです。ただ、私の信仰の歩みから理解するならば、Cが良いのではないかと思います。私共が生まれてきたのが恵み、一日一日生かされているのが恵み、信仰が与えられたのが恵み、このように礼拝を守っているのが恵み、信仰の友と出会えたのが恵み、結婚したのが恵み、子が与えられたことが恵み、祈ることが出来るのが恵み。まことに数え上げたら切りがない。実に一日生きれば、一日分の恵みが加えられている。それが私共の信仰の歩みなのではないかと思うのです。恵みの上に、更に恵みを受けた、受けている、受け続けている。それが私共の歩みなのでありましょう。まことにありがたいことであります。
 私共は、主イエス・キリストから目をそらしますと、つまり光から目をそらして闇に目を向けてしまいますと、不安や嘆き、不満に愚痴、そんなものばかりが口から出て来ます。しかし、主イエス・キリストを見上げるならば、私共は「恵みの上に、更に恵み」を受けているという事実に気付かされるのです。私共がこの礼拝に集う時の朝の足どりは、ひょっとすると重かったかもしれません。自分を取り巻く困難に喘ぐ中、この礼拝に集って来られたかもしれません。しかし、ここから出て行く時、私共の足どりは軽くなるのです。何故なら、主イエス・キリストを見上げるこの礼拝において、私共を覆っていた霧は消え、自分の上に降り注いでいる神様の光に気付くからです。神様の愛の恵みの数々に気付くからです。その時、私共の口からは、祈りと賛美とが湧いてきます。私共の口は一つしかありません。祈りと賛美をしている時に、不平や愚痴を言うことは出来ません。不平や不満や愚痴は、この祈りと賛美とに取って代わられるのです。
 今、共々に、私共に注がれている主イエス・キリストの恵みを数え上げ、主イエスに感謝の祈りをささげ、共々に主イエスをほめたたえたいと思います。そして、この感謝と賛美とをもって、この一週も主の御前に歩んでいきたいと思うのです。

[2011年2月27日]

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