富山鹿島町教会

礼拝説教

「嵐の湖を渉る主イエス」
イザヤ書 43章1〜7節
ヨハネによる福音書 6章16〜21節

小堀 康彦牧師

1.バビロン補囚のただ中で
 紀元前587年、神の民であったユダ王国はバビロンによって滅ぼされました。国土は焦土と化し、エルサレムの城壁は崩され、神殿は焼かれ、町は瓦礫の山となりました。そして、多くのリーダーとなれるような人たちは殺されるか、バビロンに連れて行かれました。バビロン補囚です。国を失い、祖国から千kmも離れた異国に連れて来られた神の民。バビロン捕囚のただ中にあったユダの民に、預言者イザヤはこう告げました。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ書43章1〜2節)神様への信頼も、神の民としての誇りも、神の民として生きる喜びも失いかけていた人々に、神様は「あなたはわたしのものだ。わたしはあなたの名を呼ぶ。わたしはあなたと共にいる。」と語りかけてくださいました。確かにあなたは今、首まで水に浸かり大河を渉っているような状態かもしれない。もう少しで溺れてしまいそうになっている。しかし、あなたは溺れない。確かに今あなたは、周りを炎に包まれた中を歩んでいるような状態かもしれない。すぐに火に焼かれ死んでしまうと思っているかもしれない。しかし、炎はあなたに燃えつかず、あなたは守られる。何故なら、わたしが共にいて、あなたを守るからだと告げられたのです。そして事実、50年ほど後に、神の民はバビロン捕囚から解放され、祖国に戻り、国を再建することが出来たのです。

2.神の言葉の真実を証しする者として
 神様は、神の民が何の困難も苦難もなく生きることが出来るとは言われません。大河の中を通るような時もある。火の中を歩まなければならない時もあるのです。しかし、たとえそうであっても守られる。わたしがあなたと共にいて守るからだ、と言われるのです。この神様の言葉が真実であることを、神の民はその長い歴史の中で証明してきました。そして今、私共自身が、この神様の言葉の真実を証しする者として立てられているのです。私共が神の民の一員であるということは、神様の力、神様の恵み、神様の真実を、自分の生涯を通じて、日々の歩みをもって証しする者として立てられているということなのです。私共一人一人も、キリストの教会も、特別な不思議な力を持っているわけではありません。この世にあっては、弱く小さな存在です。他の人々と同じように、どうすれば良いのだろうかというような、ほとほと困った状況に陥ることもあるのです。しかし、そこでダメにならない。持ちこたえるのです。不思議なように守られ、支えられ、生き抜くのです。神の御国に向かって歩み続けるのです。その歩みにおいて、神様の言葉の真実、神様は生きて働いておられること、神様が共にいて守ってくださるということ、このことを証しするのです。
 能登の震災があったのは四年前です。今は東日本大震災のことに私共の心も目も向いておりますから、能登の震災をもう忘れている人もいるかもしれません。あの時、輪島、羽咋、七尾の教会が被災しました。神様が共にいたので、周りの建物は壊れたけれども教会だけは壊れなかった、とはなりませんでした。それぞれの教会は、周りの建物と同じように甚大な被害を被りました。教会員の家も同じです。しかし、神様はこの神の民をあわれみ、全国の諸教会を動かし、以前にも増して立派な教会・牧師館が建ちました。今、羽咋教会が会堂建築をしています。今年のクリスマスは新しい会堂で礼拝することが出来る予定です。この工事で、被災した全ての教会の再建が果たされます。能登の教会は、それぞれの教会はどれも小さく、自力では会堂も牧師館も再建することは不可能でした。しかし、再建されました。神様の力、恵み、真実がここに証しされたのだと思います。
 今、私共は東日本大震災からの復興を願って献金を募り、被災した教会の再建のために祈りを合わせています。今回の震災はあまりに規模が大きく、また原子力発電所の放射能の問題もあり、現在は国としての復興の計画も立てられない状態ですが、私共は、各々の教会が必ず再建され、その地に住む人々のために福音を告げ、キリストの命を与えていく存在として立っていくことを信じています。それが神様の御心であることは疑いようのないことだからです。そしてそのことによって、神様の真実、神様の力、神様の憐れみが証しされていくことになるのでしょう。

3.私共の思いを超えたあり方で
 さて、主イエスが五千人の給食というまことに不思議な業を行われた後、弟子たちはガリラヤ湖に舟を出しました。カファルナウムに行くためでした。ここには何も記されておりませんが、多分、主イエスに、カファルナウムに行くようにと命じられたからだろうと思います。主イエスが五千人の給食の奇跡を行った所は、ガリラヤ湖の東側にあるベトサイダの近くであったと考えられております。そこから、ガリラヤ湖の西側にあるカファルナウムの町まで10kmほどでしょうか。主イエスの弟子たちの中には元漁師だった人が何人もおりますから、舟を出すことは何の苦もなかったと思います。ところが、日も沈み暗闇が深くなる頃、強い風が吹いてきて、湖面は波立ち、荒れ始めたのです。すでに舟は25〜30スタディオン漕ぎ出しておりました。1スタディオンが185mですから、約4〜5kmも岸から離れていたことになります。前に行くにも戻るにも同じくらいという、湖の真ん中に来てしまっていたということです。弟子たちは本当に困り果てました。単に困ったという以上に、命の危険を感じていたと思います。夜の湖で嵐に遭ったのです。弟子たちの何人かは、漁師であればこそ、この状況がどんなに危険であるか、よく分かっていたと思います。舟が転覆しないようにするのに必死だったことでしょう。
 そこに、主イエスが何と嵐の湖の上を歩いて近づいて来られたのです。私はこの場面がとても好きなのです。好きというのは少し変な言い方かもしれませんけれど、ここには主イエスの私共への関わり方が良く表れていると思うのです。弟子たちはこの時、自分の命が危険にさらされる中で、何とか舟が転覆しないようにと、そのことだけに必死だったと思います。主イエスに助けを求めることさえ忘れるほどに必死だったと思います。そこに主イエスが、弟子たちが全く考えてもいなかったようなあり方で、その御姿を現されたのです。
 私共は、こんな時にはこんな風に助けてもらえれば、などと考えます。自分が困窮した時、事態がこうなれば良いのに、神様がこうしてくれれば良いのに、そんなことも考えます。ところが、神様・イエス様はそのようにはしてくださらないことの方が多いのではないかと思います。それは、神様が私共の祈り、願い、嘆きを聞いてくださらないということではありません。そうではなくて、神様は私共が考えてもいなかったようなあり方で私共に近づき、私共を助けてくださるのです。神様・イエス様というお方は、どこまでも私共の思いや理解の外におられるのです。私共の期待を超えて、私共の予想を超えて、私共を助け、私共を守ってくださるのです。

4.エゴー、エイミ
 弟子たちは、主イエスが湖の上を歩いて自分たちの舟の方に近づいて来られるのを見て、恐れました。マタイによる福音書は、この時弟子たちは主イエスを幽霊だと思って恐れたと記しています。確かにそのような恐れもあったかもしれません。しかし、ヨハネによる福音書はそのようなことは少しも記さず、ただ「恐れた」と記しているだけです。ヨハネによる福音書は、この時の弟子たちの恐れについて、何々による恐れという限定を記さないことによって、私共が出会うすべての恐れを含ませようとしているのではないかと思います。そうすることによって、この時主イエスが語られた御言葉が、どのような状況の中にある恐れに対しても、力ある言葉として、私共に聞き取られることを期待しているのだと思うのです。
 主イエスはこの時、こう弟子たちに告げられました。20節「わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」というのは、ギリシャ語では「エゴー、エイミ」ですが、英語にすれば「I am」です。別にどうということはない一言に聞こえますが、実はこの一言は大変な意味を持つ一言だったのです。出エジプト記3章14節において、ここは神の民をエジプトから導き出すためにモーセが召命を受ける場面ですが、ここでモーセは神様に名前を尋ねるのです。その問いに対して神様が答えられたのが、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」というものでした。この神様の答え、神様御自身がモーセに明らかにした御自身の名こそ、「わたしはある」というもので、これをギリシャ語に訳すと「エゴー、エイミ」となるのです。つまり、主イエスはここで、「わたしはあのモーセを召し出し、イスラエルの民を出エジプトさせ、十戒を与えた神だ。天地を造り、すべてを支配している唯一の神だ。」そう宣言されたのです。その神であるわたしが今、あなたがたを助けるために来た、だから恐れることはない、そう告げられたのです。
 弟子たちを襲っている嵐、荒れ狂う水。これはすべてを飲み込み、破壊し、世界を無秩序と混沌へと突き落とす、強大な力を意味しています。ノアの洪水の水を連想すればよいと思います。あるいは、東日本大震災で一瞬にしてすべてを飲み込んでいった津波を思い浮かべても良いでしょう。主イエスは、この人間の力ではどうにも抗うことが出来ない強大な力さえもものともせずに、荒れ狂う波の上を歩いて弟子たちに近づいて来られたのです。そして、言われました。「エゴー、エイミ」「わたしだ。」「恐れるな。」天地を造られた唯一の神の独り子であるわたしが共にいる。だから、恐れるな。そう告げるのです。だから、何も恐れることはないのです。何度も言いますが、主イエスを信じていれば困難な目には遭いません、と言っているのではないのです。私共の人生に困難は付き物なのです。しかし、その困難のただ中にあっても、天地を造られたまことの神の独り子である主イエスが、私共と共にいてくださる。そして、主イエス御自身が、「恐れることはない。」「恐れるな。」と言ってくださる。だから大丈夫なのです。困難はあるのです。しかし、大丈夫だということなのです。

5.主イエスを迎え入れる
 弟子たちは、この主イエスの言葉を聞いて、主イエスを舟に迎え入れようとしました。この時、弟子たちにとって、自分の命を危険にさらしている嵐よりも、目の前にその姿を現してくださった主イエスの方が大きくなったのです。この主イエスの言葉と共に、主イエスが共にいてくださるということが、何にも増して重大なことであり、力ある支えとなったのです。自分たちが、波猛る嵐の中に小さな小舟でもみくちゃにされているということよりも、天地を造られた神の御子が、主イエス・キリストが今自分たちと共にいてくださるということの事実の方が、はるかに大きなことであり、現実的な力であることをはっきりと知ったのです。
 信仰が与えられている、キリスト者であるということは、「この天地を造られた唯一の神の独り子である主イエス・キリストが私共と共にいてくださる、だから大丈夫だ。」この安心の中に生きる者とされているということなのでしょう。私共に与えられている安心は、自分の計画による見通しなどによるのではありません。確かに、私共は自分で計画を立て、見通しを持ちます。しかし、これがはなはだ当てにならないものであることを私共は知っています。これを根拠に本当に安心することは、私共には出来ません。私共の本当の安心は、主イエスが共にいてくださるという、単純な、しかし最も力強い、信仰によってのみ知ることの出来る恵みの事実によるのです。
 私共は弱く愚かであり不信仰ですから、本当に困った状態になりますと、目の前の困難に目を奪われて、とても安心などしていられないということになるものです。この時の弟子たちもそうでした。しかし、そのような私共の不信仰、私共の弱さは、主イエスが共にいてくださるという恵みの事実を失わせるものではないのです。私共が不信仰であろうと、弱い者であろうと、主イエスが共にいてくださるという事実は、雨の日にも雨雲の上には太陽が照り輝いているということよりも、確かなことなのです。嵐の中でにっちもさっちも行かなくなった弟子たちに、主イエスが湖の上を歩いて近づいて来てくださったように、私共が困窮した時、主イエスは私共の思いを超えたあり方で近づき、「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけ、主イエスが、神様が、共にいてくださることを私共に思い起こさせ、信仰による平安を与えてくださるのです。今まさに困難の中にあると思われる方は、どうか安心していただきたい。今朝、主イエスはあなたに「エゴー、エイミ。私だ。恐れるな。」と御声を掛けてくださっています。主イエスは今、あなたと共におられるのです。そして、主イエスは私共が考えてもいなかったような道を拓いてくださるのです。大切なことは、嵐の中で私共の前に姿を現された主イエスを、自分の舟に迎え入れることです。そうすれば、私共の人生は、私共の舟は、決して沈むことなく、必ず目指す地に着くことが出来るのです。
 キリストの教会は、その二千年に及ぶ歴史の中で、自らを主イエスが共に乗り込んでくださる舟になぞらえて理解してきました。そして実際に、何度も沈みそうになるほどの困難と出会ってきました。先の大戦の時、日本中の教会はほとんど開店休業のような状態でした。礼拝に集う者もほとんど無くなりました。しかし、その後、敗戦となり、空前のキリスト教ブームが到来しました。今、日本の教会は、教会員の超高齢化という課題を抱えています。牧師不足という現実もあります。しかし、私共の教会が、私共一人一人が主イエスを、天地を造られた唯一の神の独り子、我らの主として迎え入れている舟であるならば、何も恐れることはないのです。この舟は必ず、目的地にたどり着くのです。主イエスが再び来たり給う終末、神の国へとたどり着くことになっているのです。
 今、私共が問われなければならないことは、本当に主イエスを神の子、救い主として迎え入れているかどうかということでしょう。私共の人生の唯一人の主人として、世界の王として、迎え入れているかどうかということです。主イエスを迎え入れ、主イエスが乗り込んでくださっているならば、私共は何も心配することなく、安心して、主イエスの守りと支えを信じて、神の国へ向かって歩み続けていけば良いのです。そのような確かな歩みを主の御前に為していく一週でありたいと、心より願うものであります。 

[2011年8月28日]

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