富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「神の栄光を讃えるために」
詩編 22編23〜32節
エフェソの信徒への手紙 1章10〜14節

小堀 康彦牧師

1.召天者を覚えて
 今朝私共は、先に天に召された愛する方々を覚えて礼拝を守っております。お手元の召天者の名簿には、この一年で2名の方が加わりました。この名簿にある方々は、この礼拝堂で共に礼拝を守った方々です。死は突然やって来て、愛する者を私共から奪っていきます。死を前に、私共は為すすべがありません。愛する者の死はまことに辛いものです。文字通り、自分の体の一部を失うようなものです。寂しく、辛い、大きな喪失感を覚えます。しかし、私共は今朝、あの時の辛い思いを再び思い起こすために、ここに集められたのではありません。そうではなくて、死を超えた命の希望を心に刻み、主をほめたたえるために集められたのです。この名簿にある方々が、どこを目指し何を目指してこの地上の生涯を歩んでおられたのか、そのことを聖書から共に聞き、私共もそこを目指して歩む者とされるために、ここに集まって来たのです。

2.神様のものとされた者
 この名簿にある方々は、洗礼を受け、キリスト者とされた人たちです。キリスト者とは、神様のものとされた人です。神様の子、神様の僕とされた者です。それは、外から見たところでは分かりません。しかし、神様から見れば、それは明らかなのです。牛や羊に誰の所有物であるか一目で分かるように焼き印が押されているように、キリスト者には神様のものとされている印、目には見えない焼き印、聖霊による焼き印が押されているのです。そして、神様は御自分のものとされたキリスト者に御国を受け継がせる、約束したものを相続させることとされました。この名簿にある方々は皆、御国を受け継ぎ、神様が相続させると約束したものをしっかり受け取られたのです。この神様が相続させると約束されたもの、それは罪の赦しであり、体のよみがえりであり、永遠の命です。また、御国に、天国に備えられている全き平安であり、全き喜びであり、全き愛であります。主イエス・キリストが持っておられる良きものすべてを受け取る者とされたのです。主イエスが再び来たり給う時、神様のものとされたすべての者は共々によみがえり、主イエス・キリストに似た者とされ、この地上の歩みにおいてはそれを目指しつつも実現出来なかった、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして主なる神を愛する者、隣人を自分のように愛する者とされるのです。
 キリスト者とは神様のものとされた者です。キリスト者の命は誰のものでもありません。神様のものです。自分のものでさえないのです。私共の命が自分のものなら、この命は肉体の死と共に終わることになるでしょう。私の中に肉体の死を超えた命に生きる力はありません。私共が神様のものであるということは、それは最早自らの罪の奴隷ではなく、サタンのものでもないということです。罪の値は死です。神様は、私共キリスト者をその罪の奴隷の状態から救い出し、神の子、神の僕とするために、御自分のものとするために、愛する独り子イエス・キリストを十字架におかけになり、その血の値をもって、一切の罪から、サタンの支配から買い取ってくださった。この驚くべき手続きをもって、神様は私共を御自分のものとされ、主イエス・キリストの持つ良きものすべてを受け取る者としてくださったのです。神様のものとされた私共は、最早死の支配のもとにはおりません。神様のものとされた私共には、死も指一本触れることは出来ないからです。それはちょうど、主イエス・キリストが十字架の上で死に、まるで主イエスが討ち滅ぼされたかのように見えましたが、三日目に復活されることによって死そのものを打ち破られたように、死は、私共の愛する者を私共から完全に奪い去ったかのように見えますが、それは一時のことに過ぎないのです。主イエスが再び来られる時、私共は復活された主イエスに似た者として共々に復活し、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリントの信徒への手紙一15章55節)と歌うことになるのです。

3.既に始まっている、しかし未だ完成されない救い
 私共は主イエス・キリストの十字架と復活の御業によってすでに救われ、神様のものとされ、永遠の命に与る者とされています。しかし、それはまだ完成されていません。ですから、今しばらくの間待たなければなりません。その日まで、完全な救い、救いの完成は、人の目には隠されています。しかし、その救いの完成を御言葉はこのように私共に告げます。10節「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」頭であるキリストのもとに、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、生きているもの、すでにこの地上の歩みを終えたもの、すべてのものが一つにまとめられるのです。一つにまとめられるとは、団子のような固まりになるというようなことではありません。頭である主イエス・キリストの力と権威の前にひれ伏し、主イエス・キリストの御支配のもとに生きるようにされるということであります。そしてその時、すべての者の唇が主イエス・キリストをほめたたえ、父なる神様をほめたたえることになるのです。
 罪とは、この世界を造り自分を造ってくださった神様を無視し、自分の欲に引きずられ、自分の腹を満たすためだけに生きることです。それは、本人が意識していようと意識していなかろうと、神様に敵対していることなのです。救いの完成とは、そのようにしか生きられなかったすべての人が、死んだ者も生きている者も主イエス・キリストの救いの御業に感謝し、神様と和解し、人と人との交わりにおいても互いに愛し合い、支え合い、共々に神様をほめたたえるようになるということなのです。それは新しい世界です。天と地を造られた神様が、再びその創造の御腕をもって新しい天と新しい地を造られ、私共をその新しい世界に生きるにふさわしい者としてくださるということなのです。
 先程、この救いの完成は人の目には隠されていると申しました。しかし、完全に隠されているかといえば、そうではありません。何故なら、その救いの御業はすでに始まっているからです。まだ完成されてはいません。しかし始まっています。だったら、私共はどこでそれを知ることが出来るのか。それがこの教会という存在であり、主の日のたびに守られている礼拝においてなのです。教会が天国だと言うのではありません。教会は、どこまでもこの地上にある存在です。完全に罪から自由になった者たちの共同体ではありません。愚かな、つまらぬ争いもそこでは起きます。私共キリスト者の歩みが、全く罪と無縁ですなどとは、とても言えない。しかし、そうであるにもかかわらず、このキリストの教会には、この主の日の礼拝には、神の国の香りがあり、神の国が写し絵のように現れ出ているのです。

4.主の日の礼拝に現れた神様の救い
 それは、この主の日の礼拝において、私共が神様の栄光をほめたたえているということです。この名簿に記された方々は、今朝の私共がそうであるように、忙しい日々の中、体調が多少良くなくても、主の日にはここに集い、礼拝をささげてきたのです。それは、誰かにそうしなければいけないと言われたからではないのです。この礼拝に集うことを何よりの楽しみとしていたからなのです。この礼拝では、何か特に面白おかしいことがなされるわけではありません。今朝の礼拝と同じように、讃美歌が歌われ、祈りがささげられ、聖書が読まれ、説教が語られるだけです。しかし、私共は何よりもこの礼拝に集うことが楽しみであり、喜びなのです。何故なら、ここに救いの完成としての神の国における私共の姿があり、神様と和解した、神様に造られた私共の本来の姿があるからです。この礼拝において、私共が目指しているところが明らかにされ、自分の本来の姿を取り戻していくからです。神の国がすでに始まっている、神様の救いの御業にすでに与っている、そのことが明らかにされるからです。自分が何者であるかが明らかにされるからです。日々の生活の中で、私共は自分が何者であるかをしばしば忘れてしまうのです。どこに向かって生きているかを忘れてしまうのです。神様のものとされておりながら、自分自身がまるで自分のものであるかのように生きてしまうのです。そのような私共が、この主の日の礼拝に集うたびに、私はキリストのものだ、神様のものとされている、私が目指しているのはやがて朽ち果て消えていくこの世の富でも栄誉でもない、永遠の命、神様との和解、愛の交わり、神様の祝福であることを知るのです。それがこの主の日の礼拝なのです。
 私共は、この主の日の礼拝のたびごとに、自分が神様のものとされており、そのような者として神の国を目指して生かされていることを知るのですけれど、この神様のものとされていることの保証はどこにあるかといえば、私共が主イエスを信じ、主イエスを愛し、主イエスの御名によって祈り、この礼拝に集うことを喜んでいる、この事実の中にすでに与えられているのです。何故なら、私共は自分の信仰心によって主イエスを信じ、主イエスを愛するようになったのではなく、神様が私共を選んでくださって、私共に信仰を与えてくださったからです。信仰は努力して獲得するものではありません。与えられるものです。しかも、私共の中に、それにふさわしい何かがあるからではありません。私共の中には何もないのです。何もないのに与えられた。まことに不思議なことですが、まことにありがたいことです。

5.神様の子として受け継ぐ
 そしてまた、私共が祈る時、私共は神様に対して「天におられる父なる神様」と呼びかけて祈りますけれど、「父よ」と呼びかけることが出来るのはその人の子どもだけでしょう。どんなに親しくても、その人の子どもでなければ「父よ」と呼びかけることは出来ません。この呼びかけが出来、私共の唇に祈りが備えられているということは、私共の中に天地を造られた神様の独り子イエス・キリストの霊、聖霊が宿ってくださり、そのように祈ることが出来るようにしてくださっているということなのです。ここに、私共が神様の備えてくださっている神の国の宝を受け継ぐ者とされている確かな保証があるのです。神の子とされているのですから、神様の、天の朽ちることのない資産を相続するのは当たり前のことなのです。相続というものは、その人が遺産を与える人の子であるかどうかだけが問われます。子であれば誰でも受け継ぐのです。立派な子は受け継ぎ、駄目な子は受け継がないというものではありません。そもそも、天の資産を受け継ぐにふさわしいほど立派な人、正しい人、そんな人は一人もいないのです。私共は神様の子とされました。それは養子とされたということです。神様の本当の子は、主イエス・キリストしかおられません。しかし、本当の子も養子も、遺産を受け継ぐ場合は同じものを受け取るでしょう。ですから、私共は主イエス・キリストの持っていた良きものすべてを受け継ぐ者とされているのです。
 肉体の死は確かに痛ましいものです。しかし、それは私共の命の最後ではないのです。肉体の死は、私共がやがて完全な救いに与るための通過点と言って良いかと思います。主イエス・キリストの命が十字架の死で終わらなかったように、私共の命もこの肉体の死で終わることはないのです。そのことを信じて、それぞれ生かされている場において、神様の国を目指して、神様を愛し、隣人を愛し、神様をほめたたえながら、為すべき務めに励んでまいりましょう。

[2011年10月30日]

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