富山鹿島町教会

礼拝説教

「世の光」
詩編 36編1〜13節
ヨハネによる福音書 8章12〜20節

小堀 康彦牧師

1.わたしは世の光である
 主イエスはこう告げられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」主イエスは世の光であり、主イエスに従う者は暗闇の中を歩かないというのです。これは逆に言えば、主がおられなければ世は闇であり、主イエスに従わないならば私共は暗闇を歩かざるを得ないということです。世が闇であるとはどういうことなのでしょうか。私共が暗闇の中を歩くとはどういうことなのでしょうか。第一にこの闇とは罪の闇であり、第二に自分が何者でありどこから来てどこへ行く者であるかを知らない闇であり、第三にまことの希望を知らない闇ということであります。主イエスに従う者は、罪の中を歩かず、自分がどこから来てどこへ行く者であるかを知り、まことの希望の中を生きるということなのです。

2.仮庵の祭りにて
 この言葉が告げられたのは仮庵祭の時でした。このヨハネによる福音書は、第7章から主イエスが仮庵祭の時に神殿において語られたことが記されています。この仮庵祭というのは、イスラエルの民が、奴隷の状態だったエジプトから神様によって導き出され、モーセに率いられて約束の地に向かう、あの40年にわたる荒野の旅を思い起こす祭りでした。
 7章37節以下の所をお読みしました時に申しましたように、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と主イエスが語られましたのは、この仮庵祭の中で、荒野において水がない時にモーセが岩を杖で打つとそこから水が出たという出来事(出エジプト記17章)を覚えて、シロアムの池から水を汲みそれを神殿において注ぐという儀式が為されており、主イエスはそれと重ね合わせて、「わたしが、あなたを本当に生かすことが出来る命の水である聖霊を与える者なのだ。」と告げられたのです。そして、この仮庵祭おいて為されるもう一つの印象的な行事として、光を用いるものがあったのです。それは、主イエスがこの「わたしは世の光である。」と告げられた場所において為されていたもので、仮庵祭の第一日の夜に行われておりました。それは4本の巨大な燭台が築かれて、祭司が梯子で登っていってそれに灯をともす。そうすると、その光は神殿全体を照らし出したばかりでなく、エルサレムの街々をも照らしたと言われていました。これが、出エジプト記13章22節にあります「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」という出来事を覚えるためのものであったことは容易に想像出来るでしょう。出エジプトの荒野の旅において、この火の柱をもって照らし出されることにより、イスラエルの民は夜であっても道に迷うことなく約束の地に向かって旅を続けることが出来たのです。仮庵祭における4本の巨大な燭台による光は、まさに荒野の旅における「火の柱」を思い起こさせるものでありました。そしてこの巨大な燭台の光は、この神殿にこそイスラエルを導く神様の現臨がある、この神殿にこそ人々を導く光があるということを示すものだったのです。しかし、主イエスはここで、あの巨大な燭台の光ではなく、わたしこそが人々を導きイスラエルを導くまことの光なのだと告げられたのです。

3.罪の闇を照らし出す光
 何故なら、あの巨大な燭台は確かに夜の闇を明るく照らすことは出来るが、罪というこの世の根本的な闇、私共の心の奥にある自分ではどうすることも出来ない深い罪の闇を照らし出すことは出来ないし、その闇を吹き払うことも出来ないからです。しかし、主イエスに従うならば、この世界は、そして私共は、罪という闇から引き揚げられ、光の中を生きる者となるのです。この世は、人は、まことの神である主イエスの光に照らし出されなければ、自らの罪の闇を知りません。先ほどお読みした詩編36編には3〜4節に「自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。」とありましたが、これはまさに罪人の現実でしょう。自らの罪を見ようとせず、認めることが出来ないのです。
 罪とは、何か犯罪を犯すというようなことではないのです。もちろん、犯罪を犯すことは罪であるに違いありません。しかし、犯罪を犯しさえしなければ罪を犯さないということではないのです。罪というものは人格的なものです。神様に造られ、神様に守られ、神様に必要のすべてを与えられておりながら、神様に感謝することもなくその御心を裏切り続けているこの世界の、私共人間のあり方そのものなのです。これを、神様に対しての忘恩(恩を忘れること)、そして神様に対しての裏切りと言い換えても良いでしょう。この忘恩と裏切りというものは、根本的には神様に対してでありますけれど、それが私共が生きる上での隣人との関わりにおいても現れ出て来るものなのです。しかし、忘恩と裏切りというものは、私共が自然に分かるということはなかなか無いのです。これは、自分がそうされて初めて分かるものです。よく言われる譬えに、足を踏まれた人は痛いのですぐに気付くし、いつまでも覚えているけれど、足を踏んだ方は、自分が踏んだことにも気付かないし、踏まれた方が何をそんなに怒っているのかさえ分からないというのがあります。私共の罪とはそういう面があるのです。
 私共は、主イエス・キリストというお方に出会って初めて、自分が神様に対して何ということをしてきたのかということを知ったのではないでしょうか。御自身の愛する独り子さえ惜しまずに十字架にお架けになるほどに私を愛してくださる神様。この主イエスの十字架において現れた神様の愛に触れた時、私共は何と神様をないがしろにし、忘恩の罪を犯し、裏切り続けてきたことか、そのことを知った。そして、そんな自分が情けなくて、恐ろしくて、もう二度とこの方を悲しませるような歩みはすまいと、悔い改めたのではないでしょうか。悔い改めというのは、相手があるのです。相手に対して申し訳なく、何ということかと悔いるのです。自分の姿を顧みて、自分で反省するというようなことではないのです。自分のことしか考えない、考えられないということは、少しも当たり前のことではないのです。そうではなくて、情けないほどに、恐ろしいほどに罪の闇の中にあるこの世界の姿であり、私共の姿なのです。主イエス・キリストというまことの光、世の光であられるお方は、私共のその本当の姿を照らし出してくださるのです。そして、私共をまことの悔い改めへと導いてくださるのです。
 何故、私共は主イエスの光の中で悔い改めることが出来るのか。それは、15節で主イエスは「わたしはだれをも裁かない。」と告げられましたように、主イエスはすべてを御存知の上で、私共を赦してくださるお方だからです。悔い改めというのは、一切の言い訳をせずに自分の罪を認めるということがなければ起き得ないわけです。もし、主イエスが私共の犯した罪を一つ一つ数え上げて、その一つ一つに対して私共を裁くというお方であったとしたら、私共は主イエスの御前で悔い改めることは決して出来なかったでしょう。何故なら、私共は裁かれたくないからです。私共は、自分の罪状に対して一つ一つ言い訳をし、自分は悪くなかった、仕方がなかった、悪いのは相手の方だ、向こうが先に私を傷つけたのだ。そして遂には、こんな自分を造ったのは神様、あなたではないかと言いかねない。そうしなければ立つ瀬がないからです。しかし、主イエスは御自身が十字架にお架かりになって、私共の一切の罪を担い、私共に代わって裁きを受けてくださった。その方の前で、どうして自分は悪くないと言い続けることが出来るでしょうか。この主イエスの尊い血によって赦された者だけが、赦されたことを知る者だけが、感謝と畏れの中で、一切の言い訳をせずに自らの罪の闇を認め、涙をもってそこから決別する一歩を踏み出すのでしょう。

4.我らを導く光
 そして、第二に、主イエスが世の光であるというのは、私共の罪の闇を照らし出すだけではなくて、出エジプトの荒野の旅において火の柱がイスラエルの民を導き、約束の地へと伴ったように、この世界を、私共を、約束の地、神の国へと導いてくださる方であるということです。主イエスによって悔い改めた者は、自分がどこに向かって生きている者であるかを知ったのです。目に見えるこの世の富や栄誉を求めて生きるのではなく、目には見えないけれど本当に大切なもの、それは永遠の命であり、愛であり、神の国でありますが、それを求めて生きる。私共の地上の生涯が閉じられた後にも決して消え去ることのない、価値あるものに向かって生きる者とされたということであります。人に仕えられることを求めず、人に仕えることをもって喜びとする。愛されることばかりを求めて不平ばかり言うのではなく、愛することを願う。与えられることばかりを求めるのではなくて、与えることを喜びとする者へと変えられていくことを求め、変えられ続けていくということです。
 主イエスに似た者となることを願い求め、主イエスに倣って生きる者になるということです。そしてそれは、荒野の旅において日々イスラエルの民を導いたように、私共の日々の生活の中で具体的に導かれるということなのです。近しい愛する隣り人との関わりの中で優しい言葉をかける。困っている人に手を差し伸べる。心を開いて相手の気持ちを受け止める。美味しい料理を作ってあげる。そこに、主イエスの光に照らし出され、導かれて歩む者の姿があるのでしょう。

5.希望の光
 第三に、このまことの光である主イエス・キリストは、私共がどこから来てどこへ行くのかを知っておられますから、この方の光によって照らされる者は自分がどこから来てどこへ行くのかを知る者となります。ここに、私共の希望があります。主イエスは言われました。14節「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」この主イエスの言葉を聞いた当時のユダヤ人たちのほとんどは、この地上の生涯が終わればそれで終わりだと思っておりました。これは旧約の限界と言っても良いでしょう。復活の命、永遠の命があるということを確信をもって信じ、そこに希望を置いていた人たちはほとんどおりませんでした。しかし、主イエス・キリストと出会った者たちは、復活の命に生きる希望を与えられたのです。自分たちはどこへ行くのか。単に死者の国へ行く、陰府に下るということではなくて、主イエス・キリストの復活の命に与り、永遠の命に生き、神の国に生きるということを知らされたのです。ここに私共の決して失われることのない希望が与えられました。
 今、自分の葬儀についての調査書を記入していただいております。すべてを記入されなくても、書けるところだけ書いて出していただけば良いのです。書けないところは、こういう理由で書けないと記入してくだされば良いのです。まだの方はなるべく早く書いて出して欲しいと思います。この自分の葬儀について書くというのは、キリスト教会以外のところではあまり為されないだろうと思います。自分の葬式の時にはこの讃美歌で、この聖書箇所で説教をして欲しい。そんなことは考えるだけでも縁起が悪い。きっと家族の人はそんな風に言われるかもしれません。それが日本人の一般的な感覚なのかと思います。しかし、私共はこの肉体の死ですべてが終わるとは思っていないのです。この肉体の死はだれもが迎えなければならないものであり、愛する者にとってまことに辛いことではありますけれど、それで全てが終わるとは思っていない。何故なら、主イエス・キリストが復活されたからです。私共の初穂として復活された。私共はこの方の後に続くのです。それが私共に与えられている希望です。私共は神の国へと招かれ、永遠の命・復活の命に与ることになっている。私共はそのことを知ったのです。

6.主イエスの光の中を生きる
 主イエスを知るということは、主イエスの語られたこと為されたことを、聖書を読んで知識として知るというようなことではないのです。ただ知識として知るだけなら、それは大した意味はありません。そうではなくて、主イエスを知るということは、主イエスをまことの世の光として信じ、この方に従うということです。そして、この方の光に照らし出され、この光に導かれ、この光の中を生きる者とされるということなのです。
 私共のこの地上の歩みというものは、一寸先は闇というような、明日はどうなるか分からない、社会も経済も私共の健康も、そういう不安と隣り合わせにあるわけです。新聞を開ければ、えーっと言うような出来事が毎日起きている。東日本の大震災、それに続く福島第一原発の放射能の問題、富山は幸いなことに直接的な影響はほとんどないようですけれど、被災された方々のご苦労を思いますとまことに心が痛みます。しかし、このような一度に多くの人を巻き込む出来事ではなくても、ある日突然思いもよらなかった悲しい出来事に遭う、そういうことは誰の人生においても必ず起きるのです。例外はありません。しかし、たとえそうであっても、そのような出来事に遭ったとしても、主イエスと出合った私共は、最早全く希望を失ってしまったかのように生きることはないのです。とても辛い、悲しい、嘆くしかない、そういう出来事に遭ってもなお、主イエスの光が私共から奪われることはないのです。主イエスは「わたしは世の光である。」と言われた。それは、どんな時でも私共の光であられるということであり、どんな時でも私共がこの光を失うことはないということなのです。主イエスは、昔も今も後も変わることなく、世の光、私の光であり続けられるということなのです。
 主イエスが世の光であられるということを証しすることが出来たのは、主イエスがこのことを語られた時には、主イエス御自身と父なる神様しかおられませんでした。本当の主イエスを知っている者は他にいなかったからです。しかし、今は違います。主イエスがまことの光であり、すべての者に命を与え、導きを与え、希望を与え、生きる力を与える方であるということは、主イエスを信じ、主イエスに従ったすべての者が知っています。私共も知っています。私共が代々の聖徒と共に、「主イエスこそ我が光」と告白し、証言し、主イエスを誉め讃えるということは、既にこの光に照らし出され、この光に導かれ、この光の中に生きているからなのです。この光を私共から奪うことが出来る者は何処にもおりません。何と幸いなことでしょう。今、共々に、我が光なる主イエスを、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして誉め讃えたいと思います。

[2011年11月13日]

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