富山鹿島町教会

キャンドルサービス説教

「神に栄光、地に平和」
イザヤ書 52章7〜10節
ルカによる福音書 2章1〜14節

小堀 康彦牧師

1.旅先での出産
 世界で最初のクリスマスは、ユダヤのベツレヘムという小さな町に一人の赤ちゃんが誕生した、という出来事でした。赤ちゃんの名前はイエス。お父さんの名前はヨセフ、お母さんの名前はマリアです。ヨセフとマリアは、ローマ皇帝アウグストゥスの命令によって人口調査の登録をするために、ガリラヤのナザレという町からユダヤのベツレヘムという町へ旅をしなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムまで直線距離でも120kmはあります。道を行けば150km、いや200km近くあったのではないでしょうか。マリアは、産み月の赤ちゃんがいる大きなお腹で、こんな長い距離を歩いていかなければなりませんでした。本当に大変なことだったでしょう。一週間も10日も歩き続けたに違いありません。
 そして、やっとの思いでベツレヘムに着いたと思ったら、泊まる宿がありません。二人はなんとか雨露をしのげる家畜小屋に泊まることが出来ました。そしてその夜、マリアはそこで出産したのです。マリアにとって初めての出産です。不安だったと思います。夫のヨセフはいますが、他に頼りになる人はいません。お医者さんも看護士さんも助産師さんもいない出産です。マリアは、生まれたばかりの子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。旅の途中であり、赤ちゃんを寝かせるためのベッドもなかったからです。
 このように見ていきますと、イエス様がお生まれになったクリスマスというのは、少しもロマンチックではありません。豪華な産着があるわけでもないし、お祝いのごちそうがあるのでもなく、わらを敷いた飼い葉桶の中に、布にくるまれたイエス様が寝かされるという、惨めと言えるような旅先での出産の出来事でした。

2.天の大軍による賛美
 しかし、この最初のクリスマスの日、驚くべきことが一つありました。それは、神の御子の誕生を喜び祝う、天使たちの賛美です。この日、イエス様の誕生を喜び祝ったのは、マリアとヨセフ、それと主イエスの誕生を知らされた何人かの羊飼いたちだけでした。しかしそれは、目に見える所だけを見ればということです。
 羊飼いたちに救い主の誕生を伝えた天使に天の大軍が加わって、神様を賛美したと聖書は記します。これは、天国の窓が開いて、天上の喜びが見えたということかと思います。天の大軍とは、天使たちの大軍ということでしょう。どれほどの天使たちがいたのでしょうか。100、いや1000、いやいや何万、何十万、何百万、何千万という大軍だったと思います。それこそ、天を覆い尽くさんばかりの天使たちの大軍が「いと高きところには栄光、神にあれ」「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったのです。
 この「いと高きところには栄光、神にあれ」というのは、ラテン語で言いますと、後で歌います讃美歌263番の「グロリア、インエクセルシス、デオ」となります。ですから、この讃美歌を歌う時は、天使の声に合わせるような思いで歌って欲しいと思います。
 イエス様がお生まれになった時に、天の大軍が神様を賛美したのです。これはどういうことかと申しますと、主イエスの御降誕という出来事が、天地を造られた神様の御業、しかもアダムとエバが罪を犯して以来の、最後の決定的な救いの御業がついにここから始まる。そのことを天使たちは知っていた。神様から知らされた。だから、神様を賛美したということなのです。つまり、世界で最初のクリスマスの時にあった喜びというのは、プレゼントをあげたりもらったりするような人々の喜びではなく、天使たちの喜び、天上の喜びだったということなのです。そして、それは今夜も少しも変わらないと思います。今夜も、天において大きな喜びがある。天使たちの賛美がささげられているのです。私共は、その天使たちの喜びに心の目を向けなければなりません。

3.大きな喜び
 確かに、今夜、世界中でクリスマスが喜び祝われています。私共もここに集って、クリスマスを喜び祝っています。しかし、私はクリスマスが来るたびに思うのです。「こんなもんじゃない!!」イエス様がお生まれになった時の天の大軍の喜びと賛美は、こんなもんじゃない。私共が与るクリスマスの喜びというものはこんなもんじゃない。もっともっともっと大きいはずです。私共はまだまだ十分にクリスマスの喜びに与っていない。そう思うのです。
 天使は羊飼いたちにこう告げました。10〜11節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」天使が告げた救い主の誕生という知らせは、すべての人に大きな喜びを与えるものだったのです。誰一人この喜びから閉め出される者はない、そういう大きな喜びです。この喜びを知った者は、どんな困難や苦しみの中に生きようとも喜ぶことが出来る、決して失われることのない喜びです。それがクリスマスの喜びなのです。
 このクリスマスの喜びは、今では世界中で祝われています。しかし、まだこの喜びに与っていない人、喜べない人は大勢います。だから、まだまだこんなもんじゃないと思うのです。また、クリスマスを喜び祝っている人の心の中から、すべての嘆きや不安が取り除かれているわけではありません。せめて今夜だけは楽しくしようとしている人もいるでしょう。だから、こんなもんじゃないと思うのです。世界にはまだ戦争があります。飢えがあります。だから、こんなもんじゃないと思うのです。
 このクリスマスの喜びは、二千年経っても少しも小さくなっていません。今年は女子サッカーのなでしこジャパンがワールドカップで優勝しました。多くの日本人が喜びました。大きな喜びでした。しかし、クリスマスの喜びに比べるならば、それもまた、小さな喜びと言うしかないでしょう。なでしこジャパンの優勝は、この後何年も私共に喜びをもたらすものではないし、この喜びは多分日本人だけのものだからです。けれども、クリスマスの喜び、主イエスの誕生の喜びは、全世界のすべての人に与えられ、二千年にわたって喜びを与え続けているものなのです。
 私共は、まだクリスマスの喜びを十分に味わってはいないと思っています。こんなもんじゃない!!そう思う。そして、この喜びをもっともっと味わいたいと思うのです。そして、憧れるのです。天使と共にその隊列に加わり、この大きな喜びに包まれて主をほめたたえることを。

4.神様の救いの御業の完成を仰ぎ望みつつ
 私共のクリスマスの喜びは、天上の喜びがあふれ出し、私共に注がれたものです。天使たちが知らされたように、私共にも救い主の誕生が知らされました。そして、主イエス・キリストによってもたらされた神様の永遠の救いの御計画の中に、自分も入れられていることを知らされました。そうである以上、私共にもこの天上の光が注がれたのです。私共を脅かす恐れも、不安も、嘆きも、そして死さえも、私共を打ちのめすことは最早出来ないのです。しかし、私共に与えられているこの喜びは、まだ私共の中で大きくなりきってはいません。ですから、様々な不安が、恐れが、嘆きが、まるで今でも私共を支配しているかのように、私共の上に力を振るいます。
 しかし、クリスマスの今夜、私共は目を天に向けることを促されています。天上にある大きな喜びと賛美とに、心を向けましょう。神の独り子主イエス・キリストは、私共のために来られ、私共に代わって、私共のために十字架にお架かりになり、三日目によみがえられました。十字架の死と復活をもって私共の死を滅ぼされ、永遠の命への希望に生きる道を拓いてくださいました。主イエスは、すべての民のまことの王として来てくださいました。神様の救いの御業はすでに始まっています。神様は、この主イエス・キリストによる救いの御業を途中で止めることはありませんし、この神様の救いの御業を誰も止めることは出来ないのです。神様は、始められた以上、必ず完成されます。私共は、この神様の救いの御業の完成を仰ぎ望みつつ、すでに私の所に届いた神様の救いを喜び、今夜も鳴り響いている天の軍勢の賛美に声を合わせ、神様をほめたたえたいと思うのです。やがて、その喜びが全世界を包み込み、すべての人の唇に賛美が備えられる日を仰ぎ望みつつ、心から主をほめたたえたいと思うのです。

[2011年12月24日]

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