富山鹿島町教会

礼拝説教

「復活であり命である主イエス」
ヨブ記 19章25〜27節
ヨハネによる福音書 11章17〜27節

小堀 康彦牧師

1.復活の命に生きる者とされたパウロ
 使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で語りました。この言葉は、主イエス・キリストの復活の命の中に生きる者とされた人の言葉です。パウロは、元々ファリサイ派の信仰を持っており、主イエスを信じる者たちを迫害していた人でした。主イエスを十字架に架けた人々の中にもファリサイ派の人々がおりました。このファリサイ派というのは、当時のユダヤ教の中の多数派と言って良いと思います。律法を守ることに厳格で、その律法を守る良き業によって救われると信じていた人々です。彼らは真面目で熱心でした。生活の隅々にまで律法の教えを張り巡らし、全生活を信仰によって貫こうとしました。そして彼らは、そのように生きた義人の復活を信じていたのです。律法を守り、神様の御前に正しく生きた者は、終わりの日に復活する。そのことを信じていた。神殿の祭司たちを中心とするサドカイ派の人々は復活を信じておりませんでしたけれど、ファリサイ派の人々は信じておりました。パウロはファリサイ派でしたから、復活された主イエスと出会う前から、終わりの日に義人が復活するということは信じていたのです。けれどそれは、遠い将来のことであるし、今自分が生きるということと、直接の関係はあまりなかったのではないかと思います。しかし、彼はキリスト教徒を迫害するためにダマスコに行く途中で、復活の主イエスに出会ってしまうのです。そして彼は変わりました。迫害する者からキリストの福音を宣べ伝える者に一変したのです。彼を変えたのはキリスト教の教えではありません。復活のキリストとの出会いです。それ以来、彼にとって生きることは、自分が生きるのではなく復活のキリストが我が内に生きることであり、自分は既に復活の命に生きていることになったのです。肉体の復活という出来事は、将来主イエスが再び来られる時であるとしても、自分は既にその復活の命に生きている。あの十字架に架かって死に、三日目に復活された主イエス・キリストの命が、復活された主イエス・キリスト御自身が、自分の中に生きて働き、住んでくださっている。復活という出来事は、もはや遠い将来のことではなくて今既に自分の中に起きていることだ、主イエス・キリストと一つにされている恵みの出来事なのだと知らされ、彼はその恵みの中に生き、その恵みを伝える者となったのです。
私共が今朝ここに集い、主の日の礼拝を守っておりますのは、まさにこの使徒パウロが生きた主イエスの命に生きるため、復活の命に共に与った者として新しく生きるためなのです。死んだら終わりだという命ではなく、死んでも終わらない命に既に生きている、生かされている。このことをしっかりと受け取るためなのです。

2.知っているだけの復活信仰
 主イエスが愛しておられ、そして主イエスを愛していたラザロが死にました。主イエスは、ラザロが病気であるという知らせを受けましたけれど、二日間動かれませんでした。その後、主イエスがラザロの所に行くと、ラザロは死んで既に四日たっていました。ラザロの姉妹であるマルタとマリアの所に人々が集まっていました。彼女たちを慰めるために来ていたのでしょう。主イエスが来られたとの知らせを受けて、マルタが出迎えに行きます。マリアは家の中で座っていました。この座っていたというのは、地べたに座っていたということです。当時、家族の誰かが死にますと、その家族は悲しみの表現として地べたに座って嘆くということになっていたのです。愛する者が死に、悲しみのただ中にあるマルタとマリアの所に、主イエスが来られたのです。
 マルタは、来られた主イエスに向かってこう言います。21節「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」多くの病人たちをいやされた主イエスの力を知っていたマルタでした。イエス様さえここにいてくださったら、兄弟ラザロは死ななかったのに。恨み言を言うつもりではなかったと思います。ただ主イエスを見て、つい口から出たのでしょう。マルタは主イエスを信じ、愛しておりました。ですから、すぐに続けて「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言うのです。しかし、この時マルタは、死んだら終わりだ、もうラザロは終わりだ、だって死んでしまったのだから、そう思っていたに違いありません。
 それに対して、主イエスは言われます。23節「あなたの兄弟は復活する。」主イエスは、ラザロを復活させることを決めておられました。そのためにやって来たのですから。ラザロが病気だという知らせを受けても二日間動かなかったのも、そのためでした。当時、死んで三日間は、死者の魂は死んだ肉体から離れることなく漂っているが、四日たてば魂は去っていくと考えられていました。ですから、この四日というのは、もう完全に死んだ、そのことがはっきりする時だったのです。主イエスは、完全に死んだラザロを復活させるために来られたのです。
 これに対するマルタの答えは、24節「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」でした。先程申しましたように、ファリサイ派の人々の信仰がまさにこれでした。マルタは、当時のユダヤ教の多数派と同じように、終わりの日に義人が復活するということは教えられており既に知っていたのです。しかしこれは、愛する兄弟の死という現実を目の前にして、あまり力にはならなかったのだと思います。それは、マルタにとって復活というのは、教えに過ぎなかったからです。本当にそうなのかどうか分からない、雲をつかむような話だったからでしょう。

3.主イエスと共にある者は、既に復活の命に生きている
 これに対して、主イエスはこう言われました。25〜26節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」復活というのは、将来そうなるだろうというようなことではなくて、わたしが復活なのだ。わたしが、死によって終わることのない命なのだ。だから、わたしとつながっている者は、肉体の死によってすべてが終わり滅ぶということがないのだ。そう告げられたのです。復活というものは、復活の命というものは、主イエスと共にあるのです。ですから、主イエスと共にある者は、既にこの命に与っているのです。これは教えではありません。私共に与えられている恵みの現実、救いの現実なのです。
 キリスト教は復活があると教えている、そう信じている、単にそういうことであるならば、それはユダヤ教ファリサイ派と少しも変わらないのです。そうであるならば、ファリサイ派だったパウロがキリスト者に生まれ変わる必要はなかったし、主イエスの福音を宣べ伝えることもなかったし、まして、それ故の殉教などということは意味のないものになってしまうでしょう。良いですか皆さん。確かに私共は、肉体の復活は主イエスが再び来られる終末において起きることだと信じています。しかし、終末が来るまで復活は私共と関係ない、そういうことではないのです。主イエスが復活であり命なのです。ですから、主イエスを信じ、主イエスとの愛の交わりに生きる者は、既に主イエスと一つにされ、主イエスの命、主イエスの復活の命の中に生かされているのです。それは、パウロが「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが我が内に生きている。」と言わざるを得ない現実の中に生きているということなのです。キリスト者であるということは、何か体系的なキリスト教の教えを信じているということではないのです。そうではなくて、今生きて働き給う主イエス・キリストというお方の命に生きている、このお方と共に生きているということなのです。主イエスを信じるということは、私共の気持ちの問題ではないのです。この今生きて働き給う主イエス・キリストと一つにされ、このお方と共に生きていること、そのものなのです。こう言っても良いでしょう。主イエスを信じる、復活を信じるということは、それを頭で理解するというようなことではない。そんなことは土台無理な話なのです。そうではなくて、十字架に架かり三日目によみがえられた主イエス・キリストというお方と共に生きている、このお方と一つに結び合わされて生きているということなのです。
 キリスト者としてどう生きるのか、生活や倫理の問題は重要です。しかしそれは、キリスト者だからこうしなければいけない、こうすべきだということではないのです。今も生きておられる主イエス・キリストと共に生きているが故に、私はこう生きるしかない。そういうことなのだと思うのです。私共の信仰とは、イエス様を信じているつもりになることではなくて、本当に主イエスが共におられ、導いてくださり、道を拓いてくださる中で、永遠の命を与えられている者として日々の歩みを為していくということなのであります。私共は既に、復活の命、永遠の命の中に生きているのです。生かされているのです。だから、安心したら良いのです。イエス様が悪くされようはずがないからです。たとえ、私共のこの地上の命が終わったとしても、キリストと一つにされた私共の命は、少しも損なわれることはないからです。
 主イエスは、将来の復活を頭で信じていたマルタに向かって、そうではない、わたしを信じるということは、既にわたしの命と共にあり、肉体の死をもってしても破られることのない命に生きているということなのだ、あなたはこのことを信じるか、と問われたのです。この問いは、私共にも向けられているものです。そして、そのことを信じさせるために、主イエスはラザロを復活させられたのです。
 年をとる。体のあちこちが痛むようになる。頭も少しボケてくる。何でもすぐに忘れるようになる。確かにこれは困ったことです。私共はいつまでも元気でいたいと思う。けれど、この肉体は必ず衰えてくるのです。しかし、私共に既に与えられている、肉体の死さえも少しも損なうことの出来ない永遠の命、この命の中で既に救われているという恵みの現実は、この毎年一歳ずつ年をとっていくことによっても、少しも損なわれることはないのです。もし私共の信仰というものが、頭の中で信じているというようなものであったなら、それは呆けてしまえば無くなってしまうということになりかねない。しかし、そうではないでしょう。主イエス・キリストが今も生きておられ、自分と共にいてくださることが少しでも分かるなら、その人は既に主イエスと一つにされた命の中に生き始めているのです。この主イエス・キリストと一つにされているという恵みの現実、ここに私共の本当の命があるのです。

4.私の復活経験
 私は、この主イエスとマルタとの会話が、長い間本当によく分かりませんでした。マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と言ったわけですが、私は、これで何が不足なのか、これで良いではないか、そう思っていたのです。それは、私の信仰のあり様が、長い間このマルタと同じであったからなのだと思います。終末において復活する。それで良いではないか。そう思っていたのです。
 以前もお話ししたことがあったかもしれませんが、私は、神学校に入った頃、この「復活」がよく分かりませんでした。というよりも、よく分かっていないということも分かりませんでした。まだ二十歳代でしたから、自分の死というものもリアリティーがなく、復活なんてまともに考えたこともなかったのです。もちろん、使徒信条にあります「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず」を信じておりました。特に「罪の赦し」ということは本当にありがたく、この恵みに与って私はキリスト者となりました。しかし、「体のよみがえり」「永遠の命」というのは、この時のマルタと同じように、ずっと遠い将来のことぐらいの印象ではなかったかと思います。けれども、神学校の四年生の時(神学校に入って二年目でしたが)、四国の高知に夏期伝道実習に行き、そこで40年以上脊髄カリエスで寝たきりの婦人の所へ一人で訪問させられまして、その老婦人に「私は死んだらどうなるのでしょう。」と尋ねられたのです。私は、「天国へ行きますよ。」ぐらいの軽い答えをして帰って来たのですが、何十年も死と隣り合わせに生きてきた人に向かって、自分はこの死のリアリティーを超える力ある言葉を持っていない(言葉を持っていないということは、分かっていないということです)、そう思い知らされたのです。夏期伝道から帰って来て、悩みました。死を超える力ある言葉を、リアリティーのある言葉を見つけることが出来なければ、自分は牧師になれないと思いました。それから丸二年、大学院に行っても、そのことがずっと頭から離れませんでした。みんなは論文の準備をしたり、書き始めたりしているけれど、自分はこのことが何とかならないと論文どころではありません。修道院にしばらく入ってみたり、いろんなことをしました。本も読みました。手当たり次第に読みました。しかし、分からない。そんな日々が二年続きました。そして大学院二年の7月、分かったのです。復活です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」この主イエスの言葉が分かったのです。私はキリストのものとされている。キリストのものとされた以上、キリストの復活の命が既に自分に与えられている。我生くるは、我が内のキリストが生きる也。このことが分かった。卒業を半年後に控えておりましたが、「間に合った。」というのがその時の思いでした。私は、このことを伝えるために神学校を出て行くのだ。そのことがはっきりした時でした。

5.キリストのものとされている
 私共の信仰とは、頭の中でイエス様を信じたつもりになるようなことではないのです。そんな小さな、つまらないことではない。主イエスを信じるとは、心も体も頭も、自分の過去も現在も将来も、全身丸々キリストのものとされるということなのです。そして、キリストのものとされた以上、キリストの命、復活の命が、既に私共に与えられており、キリストの命が私共の中に息づいているのです。キリスト者とはそういう存在なのです。何とありがたいことかと思います。
 私共が生きていく時、辛いことはいろいろあります。一つ何とかなったと思ったら、次の問題が起きる。キリスト者だって同じです。しかし、良いですか。私共はキリストのものなのです。キリストと一つにされ、キリストの命の中に生かされているのです。ですから、どんなに辛いことも苦しいことも、私共からキリストの命を奪うことは出来ないし、キリストの愛を奪うことは出来ないのです。肉体の死さえも、私共の命には指一本触れることは出来ないのです。
 「このことを信じるか。」そう主イエスは問われます。私共は今朝、この主イエスの問いに対して、「主よ、信じます。私はあなたのものです。わたしの命は、あなたの命です。ありがとうございます。」そう応える者として召し集められたのです。新しい一週、キリストの命に生きる者として、それぞれ遣わされている所において、精一杯、主の御用にお仕えしてまいりましょう。

[2012年2月12日]

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