富山鹿島町教会

礼拝説教

「光の子となるため」
イザヤ書 2章2〜5節
ヨハネによる福音書12章27〜36節a

小堀 康彦牧師

1.光の子
 今朝、主イエスは私共に向かって、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と告げられます。人は生まれながらにして、光の子であるわけではないのです。光の子とならなければならないのです。そのためには、光を信じなければならないのです。 光と闇とがあれば、人は誰でも光の方に行きたいでしょう。光の子になりたいか、闇の子になりたいかと問われるならば、人は誰でも光の子になりたいと答えるに違いありません。言葉の持つイメージからすれば、そういうことだろうと思います。しかし、主イエスが告げられる「光の子」、聖書が語る「光の子」というのは、それを聞いただけで何となく分かったような気がする強いイメージを持った言葉ではありますけれど、単なるイメージだけの言葉ではないのです。中身があるのです。主イエスが語る「光の子」とは、具体的な内容を持っているのです。
 それは、神の子ということであり、まことの光である神様のものとされた者であるということであり、神様によって罪を赦され永遠の命を与えられた者のことであり、神様との愛の交わりの中に生きる者とされている者のことです。光の子の反対は闇の子ということになるでしょう。闇の子というのは、神様など関係ないと思って生きている者のことであり、自分が何者であるかを知らず、どこへ行くのかも知らず、神様ではなくこの世を愛し、自分の誉れだけを求め、人に仕えることを知らない者であり、肉体の死と共に滅びるしかない者のことであります。闇の子は、闇の力(サタンと言っても良いでしょう)の支配の中にありますが、光の子は神様の御支配の中に生きるのです。光の子になるということは、自分を支配する者が変わる、誰のために何のために生きるのかが変わるということです。
 生まれながらの人間は、自分のために生きるものです。それ以外の生き方を知りません。それが罪人ということです。ですから、人は生まれたままの人間ならば、闇の子として生きるしかない。生まれた時からずっと闇の中に生きていれば、それしか知らないのですから、それが闇であることも知らずに生きるしかありません。仏教の言葉に、明るさが無いという字を書いて、無明(むみょう)という言葉があります。これは、正しく物を見る智恵がない状態というような意味らしいのですが、ニュアンスは違いますが、闇の子というのは無明なのです。仏教では、この無明の状態から脱するために修行をするわけです。座禅などはその典型です。しかし聖書は、修行によってこの無明を脱するのではなく、ただ「光を信じる」という一筋の道を示します。光とは、天地を造られたまことの神様のことであり、その独り子主イエス・キリストのことです。光を信じる。それは、父なる神様を信じ、主イエス・キリストを信じるということです。主イエスを自分の人生の主人として受け入れ、神の子、神の僕として生きるということです。己の欲得のために生きるのではなく、神様の御心に適う歩み、「神を愛し、人を愛する。神に仕え、人に仕える。」この新しい歩みへと歩み出すということです。光を信じるとは、光の中を生きることなのです。主イエス・キリストというお方と共に、主イエス・キリストというお方の心を自分の心として生きるということです。主イエスの喜びが自分の喜びとなる。そのような主イエスとの愛の交わりの中に生きるということです。

2.お互いを必要とする関係の中で
 生まれながらの人間は自分のために生きるものでありながら、しかし人は、本来自分のためだけに生きることは出来ません。そのようには造られていないからです。創世記の1章に、人間は神様に似た者として造られたということが記されています。人間のどこが神様に似ているのか。それは、ここが、あそこが、ということではなくて、父・子・聖霊の神様の中に永遠の愛の交わりがあるように、人間も愛の交わりを形づくるために造られたということなのです。ですから、自分のためだけに生きるということは、神様の創造の目的に反しており、そのように生きることは出来ないはずなのです。
 具体的に考えてみましょう。どうして、世の婦人方は毎日三度の食事の用意をするのか。喜んでそれを食べる人がいるからでしょう。自分だけのために、毎日毎日美味しい三度の食事の用意をするでしょうか。牧師はどうして毎週説教の用意をするのでしょうか。聞く人がいるからです。牧師は信徒によって支えられているというのは、献金をもって牧師の生活を支えているというようなことだけではないのです。もっと根源的に、信徒が牧師を必要としている、牧師をいなくてはならない者と受け止めているということです。だから、牧師は牧師でいられるのです。もちろん、人は神様によってその場に遣わされて生きているのです。しかし、その遣わされた場において、具体的な誰かが自分を必要としている、その人のために役に立っている、そのことがとても大切なのです。お互いが必要としている関係の中で、私共は生かされているのです。高齢になられた方が、よく「私は皆さんに迷惑ばっかりかけて。」というようなことを言われますが、そうではないのです。そのように高齢になった方が主の日の礼拝に来る。その人が教会を必要としている。そのことがどれほど教会を支え、牧師を支え、励ましていることか。その支えや励ましを失えば、牧師も教会も立っていくことは出来ない。そういうものなのではないでしょうか。
 光の子として生きるということは、この主イエス・キリストというまことの光によって照らし出されて、お互いに必要とされる存在として生かされる、存在そのものが他者を支え励ます存在とされ、そのことを喜び、互いに仕え合う交わりの中に生きるようになるということなのだと思うのです。

3.父よ、わたしをこの時から救ってください
 さて、主イエスは、私共を新しく光の子として生きるようにするために、闇の支配から私共を救い出し神様の御支配の中に生きる者とするために、私共の一切の罪の裁きを我が身に負うために、十字架にお架かりになってくださいました。この主イエスの十字架は、主イエスにとっても、本当に辛く苦しいことでした。主イエスは易々と、軽々と十字架にお架かりになったのではありません。聖書には、主イエスが27節で「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」と祈られたことが記されています。「父よ、わたしをこの時から救ってください。」との主イエスの祈りは、ヨハネによる福音書におけるゲッセマネの祈りであるという言い方がされます。ヨハネによる福音書には、マタイ・マルコ・ルカが記すゲツセマネの祈りの場面がありません。この箇所がそれに相当すると言われて来たのです。私もそう思います。主イエスは自らの十字架を見据えて、心が騒いだのです。不安と恐れを覚えられたのです。
 しかし、この時主イエスが心騒がせられたのは、単に御自分が十字架の上で死ぬという、肉体の死に対して恐れたということではないと思います。もちろん、それもあるでしょう。しかし、それだけではない。主イエスがここで心騒がせられたのは、主イエスの十字架の死というものが、私共に代わって、私共のために、神から捨てられるということだからです。天地が造られる前から父なる神様と一つであられた永遠の神の子が、神様に捨てられるのです。永遠に父なる神様と一つであられた方が神様に捨てられるのです。イエス様は、神様に捨てられるということがどれほど恐ろしいことであるか知っておられました。イエス様だけが知っておられたと言っても良い。「人間死んだらお終い」とうそぶいている人に、この主イエスの十字架を前にしての苦しみは分かりません。「人間死んだらお終い」と言って死というものを片付ける人は、死が何なのか、少しも分かっていないのです。見ようともしていないのです。しかし、主イエスは、死の本当の恐ろしさを知っているただ一人の方でした。そして、本来神様に捨てられるべき私共のために、私共に代わって、神様に捨てられるという苦しみを受けられたのです。だから、私共はもはや、この神様から捨てられる死を味わわなくて良い者とされたのです。主イエス御自身が本当の死の恐ろしさを我が身に引き受けてくださったので、私共はその神様から永遠に捨てられる死を味わわなくて良い者としていただいたのです。だから、主イエスは「心を騒がせるな。」と弟子たちに何度も告げられたのです(ヨハネによる福音書14章1節、27節)。

4.十字架へ
 主イエスは、御自分が十字架の上で死ぬというこの時のために来たということを知っておられました。ですから、「わたしは、まさにこの時のために来たのだ。」と言われるのです。主イエスの地上での歩みは、あのクリスマスの時以来、この十字架に向かって一直線でした。使徒信条も、ニカイア信条も、主イエス・キリストというお方を、「聖霊によって宿り、処女マリアから生まれ」とクリスマスでの誕生を告げて、いきなり「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と十字架の場面へと飛んでいます。この間に病人を癒されたことや、いろいろな教えを語られたことには、一切触れていないのです。不思議だとは思いませんか。私は信仰を持つ前、主イエスの教えには興味を持ち、良いことを言っていると思いましたが、クリスマスの出来事や十字架、復活の出来事は分かりませんでした。しかし、代々の聖徒たちは、クリスマスから十字架へと飛んでしまうこの信仰告白に、必要十分な信仰の表明があると考えてきました。それは、主イエスの奇跡も教えもすべて、クリスマスに生まれた神の御子が十字架にかけられたということの中で受け止めなければ意味がないことを知っていたからです。主イエスの奇跡も教えも、クリスマスから十字架への一直線上でのことなのです。
 主イエスは、御自身が十字架に架かって死ぬために来たということを知っておられました。そして、その時こそ神様の愛が、神様の救いの御計画が成就する時であることを知っておられました。神様が神様としての権威と力と愛とをもって貫徹される救いの御業であることを知っておられました。ですから、28節「父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られたのです。父なる神様はこの主イエスにお応えになって、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と告げられたのです。「既に栄光を現した」というのは、ヨハネによる福音書において今まで記されてきた、カナの婚礼の奇跡や、ラザロの復活といった七つの奇跡を指していると考えて良いでしょう。そして、「再び栄光を現そう」とは、主イエスの復活、昇天を指していると考えて良いと思います。
 この時の父なる神様の天からの声は、人々には何が語られたのか分かりませんでした。「雷が鳴った。」と言う人もいれば、「天使がこの人に話しかけたのだ。」と言う人もいました。人間には、父なる神様の声を直接聞くことは出来ないし、許されていないのだと思います。神様は、私共に直接声を聞かせるというあり方ではなくて、聖書と通して御心を示すという道を選ばれたからです。ただ、主イエスの祈りに天の父なる神様が応えられた、そのことが分かりさえすれば十分だったということなのでしょう。

5.目に見えることと正反対の神様の御心
 主イエスだけがこの神様の声を聞き、十字架への道へと励まされたのでした。そして、31節「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」と言われました。人の目には全く逆に見えたことでしょう。主イエスがこの世の支配者から追われ、十字架につけられた。人の目にはそうとしか見えません。しかし、本当はその逆だと主イエスは言われたのです。人の目には隠されている神様の救いの御計画、救いの御業ということでしょう。主イエスを十字架に架けることによって本当に裁かれているのは、主イエスを十字架に架けた方だというのです。
 ここで私共は、目に見える現実とは正反対の、神様の御計画というものがあることを知らされるのです。主イエスの十字架は十字架で終わらず、復活へと続くのです。それだけではありません。この十字架によって、世界中の人々に光の子となるための道が備えられたのです。そして二千年後、エルサレムから遠く離れたこの富山の地に、主の日のたびごとに父・子・聖霊なる神様を拝む民がこのように存在し、光の子とされる者が加えられ続けるという神様の救いの御業が展開しているのです。それが32節で「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と言われていることです。私共は、主イエスの十字架によって主イエスのもとへ引き寄せられてきたのです。
 私共は、目の前に見えることしか分からず、それによって成功した失敗したと一喜一憂し、果ては勝ち組だ負け組だと愚かなことを言うのです。しかし、そのように目に見えることだけでは、私共の人生というものは決して分かりはしないのです。何故なら、私共の人生のすべてを知り、その見えない所まで見通された上で、すべての者を裁く方がおられるからです。この方の御前に畏れかしこみつつ生きる者とされた者、それが光の子なのです。闇の子は、目に見えることしか分かりませんし、分かろうともしません。しかし、光の子はそうではないのです。
 先月号の『こだま』に、クリスマスに受洗されたT君の証しがありました。そこで彼は、「信仰へと導かれた直接のきっかけは、受験の失敗であった」と記しています。私もそうでした。受験に失敗し、浪人して東京へ行って教会に行くようになったのです。人生に、もしこうでなかったらというようなことを考えても仕方がありませんけれど、受験に失敗していなかったら、また違った人生になっていたでしょう。もちろん神様は、そうでなかったらそうでなかったように、救いへの道を備えてくださったことと思いますけれど、はっきりしていることは、その受験の失敗という出来事は、神様から見れば少しも失敗ではなかったということです。何故なら、光の子となる、光の子として生きるという、究極の神様の救いの御業に与ることとなったからです。
 光の子となるということは、それまでの人生のすべてを、大いなる神様の救いの御手の中にあった歩みとして肯定的に、感謝をもって受け取ることが出来るようになるということです。そして、これからの歩みに対しても、光の中で、希望の中で向き合うことが出来るということなのです。私共はしばしば過去に縛られてしまうものです。あんなことがなかったら、あの時こんな目に遭わなかったら、あの人にこんなことを言われた、そういう一つ一つの心の傷が、私共の心を暗くさせる。そういうことがあるものです。それは、忘れがたく、一つ一つ重いものでありましょう。しかし、光の子は自分が主イエス・キリストに出会って救われたという一点から、自負を脅かすそれら一つ一つの出来事を受け止め直すということが出来るのです。そしてそれが出来た時、その一つ一つの重い過去に光が射し込み、私共はその暗さから自由にされていくということなのではないでしょうか。暗い過去が私共を臆病にさせ、明日に向かって一歩を踏み出させない力として働く。それも私共に働く闇の力です。主イエスは、その一切の闇の力から私共を解き放ち、まことの光である父なる神様と主イエス・キリストの御手の中にある自分を発見させてくださいます。そして、自分の明日をこのまことの光である方の御手の中にある明日として受け止め、一切の不安や恐れから自由にされた者として、今日為すべきことを確かな足どりで為していく。そのような歩みへと私共を押し出していくのではないでしょうか。
 私は、どんな悩みを抱えている人でも、教会に来れば解決されると信じています。何もその人が望むような結果が得られるという、ご利益を約束する気は毛頭ありません。そうではなくて、主イエスに出会ってその救いに与ったのならば、自分が歩んで来た道、置かれている状況、自分の明日というものを、自分を愛してくださっている神様の御手の中にあったこととして、御手の中にあることとして、受け取り直すことが出来るということです。その時、自分を取り巻く状況の色が変わるのです。暗い重い景色が、明るい、軽い、喜びと希望に満ちた、穏やかな景色に変わるということなのです。
 闇は、私共光の子に迫り、再び闇の支配、罪の支配に引き戻そうとします。この闇の力、罪の誘惑というものを軽く見てはなりません。光の中を歩む限り、闇の力は私共に何もすることは出来ません。主の日の礼拝に集い、神様への讃美と祈りを絶やさぬ者に闇の力は手出しすることは出来ないのです。しかし、光の中から迷い出た途端、闇の力は私共に牙をむいて襲いかかって来ます。それでも、うろたえ恐れる必要はありません。闇が光に勝つことはないからです。ですから、私共は安んじて、光の子らしく、光を信じて、光の中を歩んで行けば良いのです。光の中を歩む光の子に対して、闇の力は手を出すことが出来ないのですから。

[2012年3月25日]

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