富山鹿島町教会

礼拝説教

「それは誰のことですか」
ホセア書 11章1〜11節
ヨハネによる福音書 13章21〜30節

小堀 康彦牧師

1.憐れみに胸を焼かれる神様
 紀元前8世紀の末、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされようとしていた時に一人の預言者が現れました。その名はホセア。彼は、イスラエルが神様から離れて偶像に仕える姿を告発しました。しかし、ホセアを通して語られた神様の御心は、それでもなお神様はイスラエルを愛し、これを赦し、回復させるというものでした。11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」神様はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救い出し、約束の地へと導かれました。神様は約束の地に導いた後も、神の民に必要なものを備え、守り、支え続けられました。それにもかかわらず、イスラエルはバアルの神を礼拝し、主なる神様を裏切ったのです。2節「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。」とある通りです。そのイスラエルに対して、神様はこう告げられました。8節「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」神様は自分を裏切ったイスラエルをそのままにすることが出来ないのです。確かに神様はイスラエルを裁かれます。アッシリアがイスラエルを懲らしめるために用いられます。しかし、主なる神様はイスラエルのために心を痛め、憐れみ、イスラエルを何とか救いたいのです。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」のです。自分を裏切ったイスラエルに対しての、この憐れみの心。この神様の御心と一体の心を持った神の独り子こそ主イエス・キリストです。

2.ユダのために心を騒がせる主イエス
 主イエスは、御自身が十字架にお架かりになる前の日、最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗われました。そのことを通して、十字架の救いを、御自身の犠牲によって弟子たちの一切の罪が清められることを示されました。そして、弟子たちが互いに足を洗い合うこと、つまり互いに赦し合い仕え合うことを命じられました。そして、そのすぐ後に、この弟子たちの中に自分を裏切ろうとしている者がいることを告げられたのです。21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」
 この時主イエスは、御自身を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられました。そして、心が騒いだのです。主イエスが心を騒がせたのは、自分を裏切る者が自分の愛する弟子の中にいるということによるわけですが、それは単に自分が裏切られて悲しいとかつらいとかそういうことではないのです。この主イエスの心騒ぎは、イスラエルの裏切りを受け止めながらイスラエルを見捨てることが出来ず、憐れみに胸を焼かれた神様の心と同じなのです。主イエスはユダの裏切りを知っています。それはユダが自らに神様の裁きを招くことです。光から闇へと自ら歩み出すことです。主イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13章1節)のです。この弟子たちの中に当然ユダも入っているのです。主イエスは弟子たちの足を洗われましたが、この時ユダの足も洗われたのです。ユダを愛するが故に、自ら闇へと歩み出そうとしているユダのために、主イエスは心を騒がされたのです。何故わたしを裏切り、闇の中へと迷い出るのか。主イエスが心を騒がせられたのは、このことの故なのです。30節を見ますと、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」とあります。「夜であった。」印象的な書き方です。ユダは夜の闇の中に出て行ったのです。主イエスを裏切る。それは闇の中に、罪の闇の中に、悪魔の支配する闇の中に消えていくことなのです。主イエスはそのユダに対する憐れみに胸を焼かれ、心を騒がせたのです。

3.我らを試みに遭わせず
 この時、主イエスの言葉を聞いて、主イエスを裏切る者がユダであることを知る者は、主イエスの外にはおりませんでした。弟子たちは誰も、それがユダであるとは知らなかった。誰も気付かなかったのです。弟子たちはいつもユダと一緒でしたが、そんな素振りは少しもなかったのでしょう。ユダは金入れを預かっておりましたので、きっとお金を管理する能力も高かったのでしょう。22節「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」とあります。そして25節で、ペトロに合図された「イエスの愛しておられた者」が主イエスに「主よ、それはだれのことですか。」と問うたのです。マルコによる福音書には、この時「『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」(14章19節)とあります。誰が主イエスを裏切るのか分からない。ひょっとすると私かもしれない。いや私ではないだろう。そんな思いが、この場にいた弟子たちの心に湧き上がりました。このことは、誰がユダになるのか分からない、誰もがユダになる可能性があるということでしょう。誰もユダになりたくはありません。しかし、自分はユダにはならないと言い切れる人もいないのです。
 私共は「主の祈り」を与えられております。主イエスがこのように祈りなさいと弟子たちに与えられた祈りです。その中で、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈るように教えられております。これは、言い換えるならば、私がユダになることがありませんように、そのような厳しい状況に追い込まれませんように、そう神様に願い求めるということでしょう。私共がユダにならないで済むとすれば、この祈りの中で私共が守られていく、ということしかないのではないかと思うのです。そして、私共は誰も、誰がユダになるか分からないということです。ですから、油断無く、主の守りと支えと導きを祈りつつ歩んでいくしかないのです。私共の信仰の歩みが保たれるということは、実に主なる神様の守りと支えと導きによることだからです。
 先週、教会総会があり、長老・執事の選挙がありました。そこで、I長老が選挙の前に、「88才になるので長老を辞退したい。」と申し出られました。先日、長老になられて何年になりますかとお聞きしましたら、「60年になるでしょうか。」とのことでした。私が生まれる前から長老を務められ、この教会を支え、導き続けて来られたわけです。何と素晴らしいことかと思います。60年の間、本当にいろいろな時があったと思います。この教会の歩みにおいてもいろいろありました。2度の会堂建築もありました。牧師の交代もありました。I長老は、そのすべての時に長老として教会を守り、支えて来られた。私はこのI長老の歩みの姿に、神様が生きて働き、信仰を与え、私共を支え給うという確かなしるしがあるのだと思います。聖霊なる神様のお働きというものは、何よりも私共に信仰を与えてくださるということです。神様の救いの恵みにお応えして生きる者を創造されるということです。その御業の証人としてI長老は立ち続けた、神様によって立たされ続けたということなのだと思うのです。

4.ユダより主イエスに心を向ける
 さて、ユダがどうして主イエスを裏切ったのか、あるいは、ユダは救われるのかということですが、このことについては皆さんも、どうなのだろうかと興味のあるところだと思います。このことについて、私は洗礼を授けてくれた牧師に、洗礼を受けて間もない頃に質問をしたことがあれます。その時牧師は丁寧に答えてくれまして、その答えの中に「ユダや悪魔についてはあまり興味を持たない方が良い。それより神様・イエス様に興味を持ちなさい。」ということがありました。これは本当に優れた助言であったと思います。それ以来、私は神学を学ぶようになってもこの戒めを守って来ました。私共はどこか、光より闇を、信仰より不信仰を、神様よりも悪魔に、心が引かれるところがあります。ユダに対しての興味というのは、その代表ではないかと思います。今朝のこの箇所を、ユダに焦点を当てて読むのか、主イエスに焦点を当てて読むのかで、全く違う読み方になってしまうでしょう。聖書は、当然のことながら、闇より光に向いています。
 ですから、ユダがどうして主イエスを裏切ったのか、それについて私共の興味を満足させるような書き方はされておりません。13章2節に「悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあり、27節には「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」とあります。つまり、悪魔によってユダは主イエスを裏切ることになった、というのがヨハネによる福音書が告げていることです。人によっては、12章6節で、マリアがナルドの香油を主イエスの足に塗った時に、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さないのか。」とユダが言ったのは、ユダが預かっていたお金をごまかしていたからであると言われていることと、ユダが主イエスを裏切って得た報酬が銀貨三十枚(マタイによる福音書26章15節)であったことから、お金のために主イエスを裏切ったと言います。また、ある人々は、ユダは主イエスにこの世の王となる期待をしていたが、そうならないことが分かって裏切った、むしろ裏切られたのはユダの方だ、と言います。しかし、こういう想像はいろいろと出来ますし、小説家なら面白い話をいろいろ作ることも出来るでしょう。しかし、聖書はただ悪魔のせいだと言う。私はこれが本当なのだと思います。人を裏切るというのは普通の心の状態ではない、まさに「魔が差した」と言うしかないようなあり方で為してしまうのではないかと思うのです。この「魔が差す」というのは、本当に悪魔がサッと心に入って来て支配されてしまう、そういうことがあるのでしょう。私共が、人が驚くような罪を犯してしまうのは、そういうことなのでしょう。恐ろしいことです。だから私共は祈らなければならないのです。
 もう一つ、ユダについてよく誤解されていることについて申し上げます。それは、「ユダが裏切ることによって、主イエスは十字架に架かって救いの業を成就したのではないか。」さらに「だからユダは神様に利用されたのであって、ユダは悪くない。」というような理解をされる方がおられます。しかし、間違ってはいけません。主イエスの十字架は、ユダの裏切りによってもたらされたものなどでは決してありません。ユダは、夜に主イエスがおられる所に手引きをし、暗闇の中で誰が主イエスであるかを教えただけです。ユダの手引きがあろうと無かろうと、祭司長やファリサイ派の人々は主イエスを殺すことを既に決めていたのであって、主イエスが十字架にお架かりになることは変わらなかったということです。

5.自由の用い方
 また、主イエスはどうしてユダが裏切るのを知っていながら止めなかったのか、という問いもあろうかと思います。主イエスはユダにパンを与え、彼に「しようとしていることを、今すぐ、しなさい。」(27節)と言われました。これはまるで、ユダに裏切ることを勧めているように見えます。もちろん、主イエスはユダに裏切りを勧めているわけではありません。大切なことは、主イエスはここで、あなたが「しようとしていること」と言われていることです。ユダは、自分がしようとしたことをしたのです。彼は、主イエスが自分を愛していることはよくよく分かっていたはずです。にもかかわらず、自分で裏切ったのです。ユダが裏切りをやめようと思えば、いくらでもやめることが出来た。しかし、そうしなかったのです。
 主イエスと私共とのつながりは、愛です。愛は自由の中でなければ成立しません。父なる神様は、イスラエルが自分を離れ偶像礼拝に走るのをどうして止めなかったのでしょうか。いいえ、父なる神様は何度も何度も預言者を送り、「立ち帰れ」と語られました。しかし、イスラエルは自ら進んで主なる神様を捨てたのです。主なる神様は、偶像礼拝に走ることが出来ないようにイスラエルを縛り上げることはなさらなかったのです。そんなことをすれば、愛の交わりではなくなるからです。愛は自由の中にしかないのです。イエス様は、弟子たちを最後まで愛し通されました。それは、最後まで弟子たちに自由を与え続けられたということでもあるのです。この自由の中には、主イエスを裏切るということさえ含まれているのです。私共は、ユダの味方をして、「ユダは悪くない」と言うことによって、自分の罪を軽く見積もろうとしてはなりません。ユダは自分で、光ではなく闇を選んだのです。この責任から逃れることは出来ません。
 しかし、だからといって、ユダは神様に捨てられた、救われることはない、そう断言することも出来ないと思います。ユダもまた、神様の憐れみ、主イエスの憐れみの中にあることは間違いのないことだからです。ユダが救われるかどうか、それは神様がお決めになることであって、私共が決める問題ではないでしょう。ただ言えることは、ユダはこの後、「首をつって死んだ。」とマタイによる福音書27章5節に記されていますけれど、もしユダが首をつって死ぬのではなく、復活の主イエスの御前で悔い改めたのなら、ユダもまた主イエスの救いに与ったに違いないということです。ユダとペトロの決定的な違いはここにあるのだと思います。ペトロも三度主イエスを知らないと言ったのです。しかし、彼はそのことを悔い、復活の主イエスと出会って新しく歩み直したのです。しかし、ユダは最後まで、首をつって死ぬに至るまで、自分のしたいようにしてしまったのです。私共は、自分がしたいことをしたいようにする自由があります。しかし、この自由を、私共は主イエスが喜ばれるように、神様の御心に従うために用いるのでしょう。主イエスの思いと無関係な所でしたいようにしたのでは、私共もユダになってしまうのです。

 イエス様は、私共がユダにならないことを求めておられます。これは疑問の余地はないでしょう。私共は弱いし、不信仰な者です。罪の思いが次々と湧き上がってくるような者です。しかし、そのような私共がサタンの誘惑に負けないよう、私共が信仰を保ち続けることが出来るよう、何度でも悔い改めて主イエスの御前に立ち帰ることが出来るよう、イエス様は私共に聖霊を注いで導いてくださいます。私共はそのことを信じて、安んじて「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈りつつ、御心にかなう歩みが出来ますようにと願い、歩んでいけば良いのです。主は必ず私共の願いと祈りを聞いてくださり、私共の信仰を御国に至るまで守ってくださるでしょう。
 私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐に与るたびに、私共は自らの罪を悔い改め、主の御許に立ち帰ります。そして、主が命懸けで私共を愛してくださったことを覚え、これに応える者として歩みたいと願うのです。主の守りと支えの中、主を裏切る者としてではなく、主を愛する者として歩んでまいりましょう。

[2012年5月6日]

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