富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「聖霊を注がれて」
詩編 95編1〜11節
テトスへの手紙 3章3〜7節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステの祭り
 今朝私共はペンテコステの記念礼拝を守っています。主イエス・キリストは十字架にお架かりになり三日目に復活されました。それを喜び祝うのがイースターの祭りです。それから40日間、主イエスは復活された御姿を弟子たちに現し、共に食事をし、聖書を説き明かされました。主イエスが捕らえられた時に主イエスを捨てて逃げた弟子たちは、復活された主イエスによって再び召し出され、主イエスの福音を宣べ伝える者とされました。そして40日の後、主イエスは天に昇られました。それから10日後、主イエスが復活されて50日後ですが、主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれました。これがペンテコステの出来事です。ペンテコステという言葉の意味は、直訳すれば五十日祭です。このペンテコステの出来事を記した使徒言行録の第2章では、五旬祭と訳されています。旬というのは、月の上旬・中旬・下旬というように10日を意味しますから、五旬祭というのは五十日祭ということです。
 このペンテコステの祭りは、旧約のレビ記23章15節以下に、守るように定められていた祭りです。過越の祭りから7週間後なので、「七週の祭り」とも呼ばれております。小麦の収穫の祭りという色彩もあり、大変盛大なものでした。旧約以来の過越の祭りの時にイースターの主イエスの御復活があり、ペンテコステの祭りの時に聖霊が注がれるという出来事が起きたのです。このペンテコステの出来事によって、弟子たちは、主イエスが捕らえられた時とはまるで別人になって、大胆に、何も恐れず、主イエスの福音を全世界に宣べ伝える者となりました。ですから、このペンテコステの祭りは、キリストの教会の誕生を祝う祭りとなったのです。キリストの教会はこのペンテコステの出来事、聖霊を注がれるという出来事と共に出発しました。このペンテコステの日、何が起きたのかは使徒言行録の第2章に記されておりますが、主イエスの弟子たちがいろいろな国の言葉で、主イエスこそ神の子、救い主であるということを人々に宣べ伝えたのです。私共がこのペンテコステの祝いの日に何よりも心に刻むべきことは、このことです。聖霊を注がれた主イエスの弟子は福音を宣べ伝えるということです。

2.聖霊が注がれるということ  では、聖霊を注がれるとはどういうことなのでしょうか。何かものすごいことが起こるのでしょうか。確かにものすごいことが起こるのです。しかしそれは、一瞬にして起こることもあれば、時間をかけて少しずつ起こることもあります。ですから、人の目に明らかな時もありますが、人の目にはあまりはっきりとは見えない時もあります。しかし、聖霊が注がれることによって起こることには、明確な「しるし」があります。それは、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストを愛し、主イエス・キリストに従う者が生まれるということです。もちろんこれは、そのような新しい人が誕生するということでありますが、それだけではありません。既に聖霊を注がれた者が、いよいよそのような者に造り変えられていくということも含んでいます。言い換えれば、信仰が与えられる、信仰が成長する、またそれによって社会が世界が変わっていく、変えられていくということ。それが全て聖霊の注ぎによって与えられることであり、聖霊なる神様の御業なのです。聖霊なる神様の御業は私共一人一人を変えていくのですが、そのことによってこの世界全体を変えていく、そのような壮大なものなのです。天下国家を論じる人が無茶苦茶な私生活をしているということがありますが、それは聖霊の御業とは少し違うのではないかと思います。
 先週、とても素敵な言葉に出会いました。4世紀の神学者で教会の指導者であったアウグスチヌスの言葉です。「悪い時代、困難な時代、このように人は言うのです。しかし、良く生きましょう。そうすれば時代も良くなるでしょう。わたしたちが時代なのです。わたしたちの有り様が、時代の有り様なのです。」本当に聖霊なる神様の御業の中で生かされている者の言葉だと思いました。アウグスチヌスが生きた時代、教会は二つに分裂していました。これは深刻な状況でした。彼は何とかこの分裂した状況を乗り越えて、キリストの体である教会を和解させ、一つにするために尽力しました。いつの時代も、皆が手放しで喜べるような時代などではないのです。この世界は、自分の欲を満たそうとする思いだけで生きている人の力が満ちているものなのです。うまくいかないこと、何でこうなるのか、そんなことばかりが起きるのです。「悪い時代だ。」「困難な時代だ。」そういう呟きが私共の口から漏れるのです。しかし、そういう時代の中にあって、私共は良く生きるのです。イエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に従って生きるのです。そこからしか世界は変わらないし、そこから世界は確実に変わっていくのです。私共を、この世界を聖霊なる神様が御支配しておられるからです。

3.若き伝道者テトスに対して
 今朝与えられております御言葉は、テトスへの手紙です。これは、使徒パウロが、クレタ島で伝道していた若い伝道者テトスに宛てた手紙です。テトスは伝道者として困っていたようです。「このクレタ島の人々は主イエスの福音によって救われていくのだろうか。」そんな思いさえ抱いていたかもしれません。パウロはそのような困り果てたテトスを慰め、励ますためにこの手紙を書いたのです。
 1章12節を見ますと、「彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。『クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。』」とあります。どうもクレタ島の人々の気質といいますか、当時のクレタ島の社会の常識、民度はかなり問題があったようです。犯罪が多発し、仕事はしない、道徳心は低く、反乱・暴動もあり、治安の悪い所だったようです。そのような所で若いテトスは伝道者として歩んでいたのです。テトスは自信を失い、困り果てていたのではないかと思います。
 そのようなテトスに対して、パウロは3章3節でこう言います。「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。」パウロはここで、「わたしたちも今はキリストの伝道者とされ、主の御前に良く生きる者となっている。しかし、主イエスに会う前のことを思い起こしてごらんなさい。クレタ島の人々と少しも変わらなかったではないですか。そのわたしたちが変えられた。だから大丈夫。必ずクレタ島の人々も変えられていきます。聖霊なる神様の御業を信じなさい。」そう励ましているのです。
 パウロが告げる励ましは、テトスが伝道者として力があり、才能もあり、素晴らしいから大丈夫だ、というようなことではないのです。そうではなくて、パウロは「聖霊なる神様のお働きを信頼しなさい。」と言うのです。
 私共は、自らの信仰の歩みを、自分の真面目さ、熱心さ、そういうものによって保とうとする所があるのではないでしょうか。教会の業や伝道に対してもそうです。しかし、そんなものではないのでしょう。信仰というものは、その出発からその後の成長もすべて、聖霊なる神様の御業なのです。私共は、そのことを信じて、大胆に聖霊なる神様のお働きに委ねることを求められているのでしょう。神様は御心を必ず実現されます。どうせダメだ。やっても仕方がない。そうじゃないのです。人は頑固です。ちょっとやそっとでは変わりません。それはその通りです。しかし、変わるのです。聖霊なる神様が働いてくださるならば、変わるのです。必ず変わるのです。そして、その証拠が私共自身なのです。
 4節「しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、」これは、主イエス・キリストの誕生、そして十字架の死と復活と昇天、更にペンテコステの出来事を指しています。
 5節「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」とあります。主イエスの十字架の救いの御業によって、私共は救われました。自分の善き業によってではなく、ただ神様の一方的な恵みによって救われた。ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われました。
 この信仰による救い、神様の一方的な恵みによる救いは、聖霊によって新しく生まれさせる、私共を新しく造り変える洗礼という洗いによって私共に与えられました。私共は、洗礼によってキリストのものとされ、キリストの体である教会につながり、キリスト者という全く新しい人間に造り変えられたのです。生きる目的も意味も喜びも、変えられたのです。自分の欲を満たすことが第一のことではなくなり、神様の御心に従うことを第一とする者に変えられたのです。もちろん、まだ不徹底な所は多々あるでしょう。私にもあります。しかし、歩むべき方向は決まっています。これは決定的に重大なことです。不徹底であるが故に罪を犯すこともあるでしょう。しかし、悔い改めることを知っています。神様に赦しを求めることを知っています。自らの罪を認め、悔い改めるということ自体、聖霊なる神様の御手の中に私共が生かされていることの、確かな「しるし」なのです。

4.転入者を迎えるにあたって
 今朝私共は一人の姉妹をこの群れに迎え入れます。週報にお名前が記されております。S・Kさんです。この方は昨年の9月頃から、私共の主の日の礼拝に集われるようになりました。この方のお話をうかがいながら、本当にこういうことってあるのだなあ、聖霊なる神様のお働きとはこういうことなのか、と改めて思わされました。
 この方は、東京で生まれ育って、近くの教会の教会学校に通い、中学生で洗礼を受けました。その教会で信仰の歩みを為し、短大を出て保育園の先生をされ、結婚もされました。しかし、いろいろなことがあって、二十代の半ばに教会を離れてしまいました。それから40年近くの歳月が流れました。彼女は、お母さんの介護をするために、東京の家をたたんで、両親の家がある富山に来られました。しかし、一対一の介護の生活というのは厳しいものがあります。そんな時に、松原葉子姉のグレース・アーツが主催されて中村啓子さんが来られる集会が当教会で行われました。中村啓子さんは『ラジオ深夜便』というNHKのラジオ番組にゲスト出演されて、その時にこの集会のことも話されたそうです。それをS・Kさんが聞いていて、「自分も昔、教会に行っていたな。」と思い出して、その集会の前週の主の日の礼拝に来られたのです。それがきっかけです。そして、砂地に水がしみ込むように、御言葉が彼女の中に入っていきました。「ボーン・アゲイン」という言葉があります。「再び生まれる」「二度目の誕生」です。何となく洗礼は受けたけれど、主イエス・キリストの救いがぼんやりしていた人が、本当にはっきりと主イエスの救いに与ることを指す言葉です。彼女はボーン・アゲインしたのです。こんな日が来るとは、彼女自身思ってもいなかったと思います。神様というお方は、私共が思ってもいないことを為されるのです。

5.キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされた
 6〜7節「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」この聖霊が私共に注がれて、信仰が与えられ、洗礼に預かり、私共は造り変えられて、永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。聖霊は主イエス・キリストを通して注がれます。私共が自らの力で手に入れることは出来ません。私共の信仰も、神様の子として造り変えられることも、悔い改めも、すべては主イエス・キリストによるのです。ですから私共は、何よりもこの主イエス・キリストの御業を信頼すること、信頼して委ねて祈ることが大切なのです。もちろん、委ねるとは、私共が何もしないで良いということではありません。私共は一所懸命に自分が為せること為すべきことを為すのです。しかし、神様が働いてくださらなければ、聖霊なる神様によらなければ何も起き得ないのですから、聖霊なる神様が私共の上に注がれることを願い、求め、祈るのです。
 先週の金曜日に、隣接地の地主の方に電話をしました。残念ながら、「いいですよ。お売りしましょう。」とは言ってもらえませんでした。「まだ、そういう段階ではありません。」というお答えでした。「それでは、また後日、連絡させていただきます。」と言って電話を切りました。「ダメです。」と言われたわけではありません。しかし、「まだ、ダメです。」ということです。これは、神様が私共に祈ることを求められているのだと私は思いました。土地の売買というのは経済活動であるに違いありません。しかし、相手のあることです。自分たちだけで、ああしよう、こうしようと思ったところで、事は進みません。私共はここで、本当に神様が働いてくださることを信じ、祈り、求めなければならないのでしょう。自分で何とか出来ると考える不信仰を、神様は決して良しとされないのです。祈りましょう。本気で祈りましょう。

6.教会で起き続けているペンテコステ
 私共は、主イエス・キリストの救いに与り、永遠の命に与る者とされました。まことにありがたいことです。この地上において何を手に入れても、私共にはやがて肉体の死が訪れます。もし私共の命がそれで終わってしまうならば、私共が良く生きるということは、意味のないものになってしまうかもしれません。しかし、神様は私共を永遠の命に与る者としてくださいました。この地上の命の終わりと共にすべてが終わるのではない者としてくださいました。ですから、私共は良く生きなければならないのです。私共がこの地上の歩みで為すことは、すべて神様が見ておられ、覚えておられるからです。良く生きる。それは、神様の子、神様の僕として、神様を愛し、主イエス・キリストを愛し、神様の御心に従い、主イエス・キリストの御言葉に従って生きるということです。互いに愛し合い、仕え合う者として生きるということです。神様の御業にお仕えすることを第一として、何よりの喜びとするということです。
 私共は今朝、聖餐に与ります。この聖餐において私共は信仰を与えられ、パンをキリストの体とし、杯をキリストの血潮として与るのです。ここに聖霊なる神様が豊かに臨み、私共に注がれていることの、確かな「しるし」があります。聖霊なる神様が臨んでくださらなければパンはただのパンに過ぎず、これをもって主イエス・キリストを思い起こすことも、主イエス・キリストと一つにされていることも、私共に明らかにされることはないからです。
 ペンテコステの日に起きた聖霊の注ぎは、この二千年の間、キリストの教会の上に起き続けています。今も起きています。だから私共に信仰が与えられ、悔い改めが為され、生き直すということが起きているのです。この救いの出来事の証人として立てられている私共なのですから、たとえ時代が悪くても、生かされている状況が厳しくても、神の子、神の僕として良く生きていきましょう。聖霊なる神様が、必ず私共の歩みを守り、支え、導いてくださいます。

[2012年5月27日]

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